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シベリアのヴォストチヌイ新宇宙ロケット発射場の運用開始とシベリア出兵、シベリア抑留の記憶

2019年3月18日 Posted in 会報

高野晃

1.はじめに

 ロシアは約20年前に、シベリアのスヴォボドヌイ市の近くに、宇宙ロケットの新発射場建設を発表していたが、計画が遅れ、一時期中断の憂き目にあっていた。その後、プーチン政権下で計画が再始動され、ヴォストチヌイ発射場と名称を改めて、その一期工事が終了した。(図1、2参照)。この発射場からは、昨年2016年4月18日に、ソユーズ2.1a型ロケットによる、3衛星初打ち上げが行われ、正式運用段階に入った。

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図1 ヴォストチヌイ発射場計画全体図、現在は右下の一期工事のみ建設完了(出典:ЦНИМАШ、インターネット公開)

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図2 ソユーズロケット射点設備(2016年4月、出典 Роскосмос)

 筆者は、1975年の日本初の大型ロケットN-1ロケット初打ち上げ以来、H-I、H-IIロケット開発に技術者として参画し、有人、無人宇宙プロジェクトを経験してきた。またスペースデブリと呼ばれる、宇宙のごみ増加防止のための、国際調整の場や、国際機関(ISTC)によるロシア科学者の平和目的研究支援にも参画した。その機会を利用して、ロシアの宇宙関連機関数箇所を訪問し、ロケット、宇宙機の実物を知見する、貴重な体験を得ることができた。筆者はJAXA退職後、ロシアと日本の近代交渉史を含めた、個人研究も行っている。本稿は、ヴォストチヌイ発射場の場所が、日本の教科書で教えられることが少なかった、大正期の日本のシベリア出兵、および昭和期のシベリア抑留ゆかりの地であることを紹介し、今後の両国の相互理解の一助になることを願うものである。

2.ヴォストチヌイ発射場の場所

 ヴォストチヌイ発射場は、シベリアの北緯51度53分、東経128度20分の位置にある。場所は、図3に示すとおり、アムール州のシベリア鉄道のウグレゴルスク駅と、スヴォボドヌイ(旧アレクセーエフスク)駅の中間の東側に位置する、広大な地域にある。最寄りの鉄道駅は、ロシアのロケット科学者の祖とされる偉人の名前を冠して、ツィオルコフスキー駅と改称された。この土地は、シベリア抑留を経験した旧日本軍兵士の記憶に残る、アムール河を隔てて、中国の黒河市と対する、ヴラゴウェシチェンスク市の上流で、ゼーヤ河が合流する地域で、ゼーヤ河の西に囲まれた一帯に当るといえば、容易に想像できるかもしれない。
 ロシアは、旧ソ連時代から、モスクワ市、サマラ市の、ロケット、宇宙機製造工場から、カザフスタンのバイコヌール発射場や、アルハンゲリスク近くの、プレセツク発射場などの、各地の発射場に、鉄道網を利用してロケット輸送することを基本としてきたので、このヴォストチヌイ発射場も、シベリア鉄道から分岐する専用鉄道を用いて、ロケットが搬入され方式を踏襲している。この場所は、当初スヴォボドヌイ発射場として、新宇宙基地建設が計画されたが、財政難により、2007年に計画が中止されていたところを、プーチン政権により、新基地建設が再開された。
 新発射場建設の理由は、ロシアから独立した、カザフスタン共和国のバイコヌール発射場のために、毎年1億ドルを超える借料を払い、また制約を余儀なくされている状況からの脱却と、シベリアの経済開発のテコ入れが目的とされる。将来的には、新発射場内には、滑走路を含む施設が建設される計画で、施設配置は、バイコヌール発射場と酷似している。
 ロケット打上げ計画は、2025年までの予定表が公開されていて、2018年からは英国の衛星打ち上げビジネスも予定され、将来の有人ロケット打ち上げも、この発射場が中心になる予定である。
 なお、一般の日本人にはあまり知られていないことであるが、バイコヌール発射場と基本設計が同一の、ソユーズロケット発射設備が、赤道直下のフランス領ギアナの、欧州宇宙機関(ESA)の、コーロー発射場内にも設置されている。この発射設備には、ロシア国内から、ソユーズロケット機体が船で輸送されている。これは従来公開されなかった、ロシアの発射場施設と運用技術を習得したいという、フランスを初めとする、欧州側の意向と、打上ビジネスを拡大したいというロシア側の思惑が噛み合って成立したといえる。このとき導入された射点設備の近代化が、極寒のシベリアの新発射場建設にも反映されている。
 なお、新発射場からのロケット打ち上げ方向は、東向き(一般周回軌道)、または北向き(極軌道)に設定しており、東向き打上ではサハリン上空を通過し、その他軌道ではロシア国内に切り離した1段目が落下するが、日本上空を通過する心配はない。

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図3 ヴォストチヌィ発射場と、シベリア出兵、シベリア抑留関連地域図

3.シベリア出兵の悲劇の地

 今年は1917年(大正6年)に、レーニン指導のロシア革命が勃発してから、100周年にあたる。革命翌年1918年に開始された日本のシベリア出兵について、本稿で記述するのは、時期的に意義深いと考える。図3の中には、①から④までの番号を付した地点を示してあるが、これらの場所は、シベリア出兵(ロシア社会では、「極東国際干渉」とよばれている)の激戦地および、悲劇が発生した場所である。
 筆者が特に指摘したいのは、シベリア鉄道を挟んで、ヴォストチヌイ発射場の反対側の山中(ユフタ戦跡①)である。ここでは、極寒の1919年2月25日に、シベリア出兵で派遣された、田中大隊(大分、小倉の部隊)が、ユフタ駅近くの山中で野営中に、パルチザンの攻撃を受け、約200名が全滅した大事件が起こった因縁の地であるということである。
 この事件は、翌1920年(大正9年)に、ニコラエフスク・ナ・アムーレで発生した、日本の石田領事家族他、日本人735名以上の、パルチザンによる虐殺事件(尼港事件)と並び、シベリア出兵時の最大悲劇として報じられた。今後、ヴォストチヌイ発射場を、日本の報道関係者が訪問する機会もあろうと思うので、その節は、ぜひこの戦跡の地を思い起こしてほしいと願うものである。
 多くの日本人たちが忘れかけている、シベリア出兵とは何であったのか。それは、第一次世界大戦中の、1917年に発生したロシア革命で、圧迫された(反革命)ロシア人を支援するという名目「救露討独」と、ロシアが国内革命事情から、ウクライナの国土を割譲してまで、ドイツと単独和平協定を結び、連合国から抜けた理由から発生したつぎの事情による。
 先に同盟国からロシアに投降し、祖国再建のために、宿敵ドイツと闘っていた、チェコ人軍団の存在意味がなくなり、この軍団をシベリア鉄道経由でウラジオストクに送り、船で欧州に送りこみ、宿敵ドイツとの西部戦線に投入しようという、連合国の思惑から発した、国際干渉であった。
 日本は、米国からの誘いを受けて、チェコ軍団救援という人道主義を表向きの大義として、初めて共同出兵(多国籍軍)に参加したものであった。チェコ軍団が早々に欧州に戻った後、アメリカ、フランスなどの派遣軍は、速やかに自国に戻った。しかし、ひとり日本軍だけが、バイカル湖近くのイルクーツクまで進軍し、ザバイカル地域に、緩衝国家を作るという、秘めた思惑のために、合計5年間(1918年~1922年)単独出兵を続けた。
 これにより、シベリアの住民を蹂躙すると共に、自らも多大の死者を出して、最終的に1922年に無益のままに大陸から撤兵したものであった。
 当時の日本には、大正デモクラシーが生きていて、新聞は、無益の出兵を断行した政府と軍閥に対する、痛烈な批判を展開した。このことは、日中戦争、太平洋戦争を、先頭に立って鼓舞したジャーナリズムが、敗戦後に、戦争主導者の政府、軍閥、財閥どころか、自らを批判する姿勢がなかった状況と大いに異なる。
 このシベリア鉄道ユフタ駅に近い山中で、極寒期に部隊を展開したこと自体が無謀で、寒さに強いパルチザンによって全滅され、野砲2門も奪われた軍の失策は、重大事件として報道された。昨年、麻田雅文著の「シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争」が、中公新書として刊行され、これらの事実を、読みやすく記述していることを歓迎したい。なお、当該書は北樺太の支配を含めた合計7年間を扱っている。
 さらに、ロシア人の恨みを招いた、つぎの悲劇も忘れてはならない事件である。図3の中の②は、イワノフカ村(シベリア出兵当時の名称)で、ここでは、1919年(大正8年)3月22日に、400軒以上の住居を焼き討ちし、住民257名を銃殺した他、幼児を含む住民36名を納屋に閉じ込め、放火して惨殺した残虐行為が行われた。
 筆者はこの事件は、ユフタでの日本軍全滅への仕返し掃討と推定していたが、麻田氏の著書は、そのことを明確に裏付けている。すなわち、パルチザンのゲリラ作戦を受け、疑心暗鬼になった日本軍が、見せしめとして村を完全掃討し、他の村も同じ目にあうぞと、恐怖心を与えることが目的であったと記述している。
 子供まで殺す残虐行為は、日中戦争でも繰り返されたようであるが、正常な心理を失う戦争の中では、自らの命を守るための、当然の行為だと、簡単に正当化するわけにはゆかないであろう。
 この事件は、日本国内では、一部研究者が記述しているだけで、教科書で教えられることはなかった。どこの国でも、自国軍が加害者として犯した、人道的犯罪の目撃談を語ることを禁止するのが常であるが、被害を受けたロシア側の国民は忘れることなく、慰霊碑を建立し、追悼式を守り、子供たちに日本軍の蛮行を語り伝えてきた。シベリア出兵時に蛮行を働いた日本軍への怨嗟が語られてきたことは、シベリア抑留体験者たちが、現地ロシア人たちからも聞いている。
 なお、日本人の慰霊行為として、シベリア抑留体験者で、個人の立場から、抑留者の戦後補償を求めて活動し、ロシア公文書館で、抑留関連文書の発掘を行うなど、生涯を捧げた、全国抑留者補償協議会(全抑協)会長の、故斎藤六郎氏が、この悲劇を知り、資金を集めて、1995年に、イワノフ村に「日ロ共同追悼碑」(懺悔の碑)を建立して慰霊したことも、紹介させていただく。また同事件90周年にあたる2009年に、僧侶を含む日本人団体が現地を訪ね、犠牲者の慰霊法要を行ったことが、地元紙で報道された。
 このことは、シベリア抑留慰霊碑の多くが、まず民間人により建立され、数年経過してから、体面を気にする政治家や官僚が動いて、国費で慰霊碑が建てられるパターンと共通するものである。
 シベリア出兵の末期には、何のためにシベリアに長期滞在しているのかの意味がわからなくなり、厭戦感が拡大する中で、大都市ヴラゴウェシチェンスクの歓楽街に出入りし、梅毒罹患した日本兵たちを大量に出した、苦い思い出も報告されている。

4.シベリア抑留の地

 筆者は、シベリア抑留を経験された方々の体験談を聞く機会を、多年にわたり得てきた。また国会図書館などに所蔵されている、700冊を超えるシベリア抑留関係書籍、論文の中から、1,000名以上の体験談に目を通してきた。シベリア抑留体験者の中には、筆者が函館中部高校で、物理を教えていただいた、担任教師の富田迪夫先生(94歳)が含まれる。
 富田先生は、中部高校前身の函館中学校の卒業生で、米沢工業専門学校(山形大学工学部前身)を卒業して召集され、満州の牡丹江近くで従軍された。先生は8月9日真夜中に開始されたソ連軍の満州侵攻に対して、ソ連戦車への自爆攻撃を命令されたが、直前の大雨で中止となり、運よく一命を取り留めて武装解除され、ソ連国内に移送された。先生はシベリア鉄道のタイセット駅から、バイカルアムール鉄道(BAM)の、ブラーツクまでの工事区間建設のため、ラーゲリ生活と、強制労働の辛酸をなめられた。その後シベリア鉄道経由で、帰国の港ナホトカへ移送される途中で、半年ほどライチハ(現ライチヒンスク)の収容所で、炭鉱労働をさせられた。このライチハが図3中に記入してある。ここの収容所は1万人規模の大収容所群の総称で、その中には、ザヴィタヤ(現ザヴィチンスク)の2017病院が含まれる。この土地で収容所生活をされた、山中冬児氏は、この土地を「残悲多野」と表記し、絵本を出版されている。この場所も図3に記している。
 なお、富田先生は、現在札幌在住で、94歳のご高齢ながら、シベリア抑留体験を語る会の証言講演や、高齢者講座指導などでご活躍中である。筆者は昨年、函館中部高校卒業以来53年ぶりに、先生と再会し、親交を復活させて頂いている。
 シベリア鉄道で、ソ連奥地に送られた抑留者たちは、天皇の命令により、自主的に戦闘停止したと理解し、戦争捕虜、俘虜と呼ばれることを嫌ったが、ソ連、ロシアの書物では、「日本人戦争捕虜」という用語以外の表現はない。
 ロシア奥地に、ハバロフスクを経由して、シベリア鉄道の貨車に詰め込まれて、輸送される日本兵たちが、子供たちから罵倒され、貨車に投石を受けて、義憤を覚えたことが、いくつかの抑留体験記に残っている。自分たちは、ソ連に侵攻したわけではなく、日ソ中立条約を一方的に破って、日本軍に攻撃したソ連が悪いと教えられていたので、義憤を覚えたわけである。しかし数年にわたり、抑留地の強制労働生活をする中で、ロシア人住民との交流も増え、シベリア出兵時に、日本兵がアムール州の一般住民を虐殺し、物品略奪したことを、住民から初めて教えられ、ロシア人が日本兵を恨む理由が、納得できたという証言が、いくつかある。

5.日ソ中立条約違反の相互主張

 筆者が2013年にハバロフスクを訪問したとき、あいにく極東ロシア軍歴史博物館が休館日で、入館できなかったが、代りに係員から入手できたロシア語冊子では、日ソ中立条約に違反したのは、そもそも日本だという記述があるのを、帰国後に発見して、大へん衝撃を受けた。
 原文を訳すと、「1941年のCCCPとの日ソ中立条約に違反して、日本軍部は、極東における我が方の船舶活動をさまざまに妨害した。中立海域において、ソ連船舶を妨害し、臨検を行い、ソ連船18隻が沈められた」。
 このように筆者は、日ソ中立条約に先に違反したのは、日本であるという教育が、ロシア国内で教えられていること、他方でロシアが日ソ中立条約を破って、満州に侵攻したという記述はないことを知り、歴史教育は、相互の主張を公平に見なければ、片手落ちの主張となると、改めて認識した次第である。なぜならば、第二次大戦末期に、日ソ中立条約を一方的に破棄して、ソ連が満州、千島列島に攻撃を開始し、その結果シベリア抑留の悲劇が生じたと、日本人は親たちから教育されてきたからである。筆者は、当該ロシア語冊子の記述は、旧ソ連時代から続く、プロパガンダ的記述で、船舶数も誇張があるのではないかと疑っていた。
 しかし、その後、東京の国会図書館で、関連資料による裏付け調査を行い、日本軍により攻撃を受けたソ連の船舶名と、発生場所を知ることができた。それにより、非難されるべき違反事項は、日ソ双方にあったと理解を改めた。
 日本軍の裏面史を国民に伏して、中立条約を破ったソ連が一方的に悪く、ロシア人は信用できないという固定的観念を、日本の為政者たちは国民に植えつけてきた。これでは、公平な視点から日ロ交流史を見ることはできない。またプーチン大統領が、2016年に表明したように、ロシア人が、第二次世界大戦に戦勝した結果、当然の権利として、千島列島、北方領土を保有したという、ロシア側の主張を改めさせ、領土「返上」をお願いすることは、望み薄であるという印象がある。多分ロシア人の多くは、北方領土支配は、シベリア出兵以来、ロシア領土を侵害し、最後に敗れた戦争への当然の代償と考えているのであろう。
 残念ながら、クリミア侵攻でも典型的に示されたように、ロシア人(政治家)とはこういうものであると語り伝えて、付き合わざるを得ないと思うが、そのように考えられることは、ロシア人にとっても不幸なことであろう。
 さて、日本が攻撃したソ連船舶とは何であったのか。1946年の、ソ連邦軍令部長報告の記述の他、最近のロシア人学者たちの著作から、判明していることはつぎのとおりである。
 旧ソ連の報告によれば、1941年の8月から終戦まで、日本は同盟国のドイツを支援する意図から、合計178隻のソ連船舶を妨害し、宗谷海峡を通過した数隻は樺太の大泊港に連行された。そのうち、明確に3隻に武力攻撃があった。
 真珠湾攻撃直後の、1941年12月14日には、香港で修理中のクレチェット、スヴィリストロイ、セルゲイ・ラゾが、陸上の日本軍から砲撃を受け、結果的に前2隻が沈没した。同じく同月17日に、木材運搬船ペレスコーブがボルネオ海で撃沈され、また同月24日から26日に、ミンダナオ沖で油槽船マイコープが日本軍から空爆を受けて沈没した。ペレスコーブについては、副船長ブターリンが、極東裁判で証言している。当然ながら、ソ連政府は日本に抗議文書を手渡したが、日本政府は言い逃れをして、謝罪することはなかった。これらの裏面史については、さらに、日本軍の行動記録などを調べて、裏付けを強化したいと考えている。

6.おわりに

 以上、釈迦に説法とは自覚しながら、専門学者でない、市井の一研究者なりに、日ロ関係の裏面史を紹介させて頂いた。シベリア抑留については、ウラジオストク、ナホトカ、ハバロフスクを旅行した際に、日露戦争以降の、両国間の戦争記憶が残る地を訪問し、またシベリア抑留者の墓参体験も踏まえて、本稿を記述した。内容の乏しさを自覚し、読者諸兄のご批判を乞うものである。本稿が日ロ交流史の背景と知識を深めることの一助となり、意見交換の契機となれば幸いです。

参考文献

1.Ж.Б.Бежко,В.В.Карпов, Музей Истории Войск КДВО(極東軍管区赤旗軍歴史博物館)、1990、ハバロフスク。
2.西伯利出兵史:大正七年乃至十一年、参謀本部編、新時代社、1972。
3.松尾勝造、高橋治解説、シベリ出征日記、風媒社、1978。
4.西伯利出兵史要:菅原佐賀衛、信山出版、複刻叢書、1989。
5.原暉之、シベリア出兵―革命と干渉 1917-1922、筑摩書房、1989。 
6.土井全二郎、西伯利亜出兵物語、潮書房光人社、2014。
7.麻田雅文、シベリア出兵―近代日本の忘れられた七年戦争―、中公新書、2016。
8.富田武、シベリア抑留、スターリン独裁下、「収容所群島」の実像、中公新書、2016。
9.山中冬児、残悲多野:絵で見るシベリア抑留始末記、東京リブリオ出版、1997。
10.家永三郎、日ソ中立条約を日本は誠実に守ったか、中谷宇吉郎氏の批判に応える、歴地理教育、3(1)、1956年4月、歴史教育協議会、pp.4~8。
11.アナトリー・コシキン、熟柿戦略の破綻、日ソ中立条約を破ったのは誰か、人間社、1985。
12.ボリス・スラベンスキー、考証日ソ中立条約、公開されたロシア外務省機密文書、(訳)高橋実/江沢和弘、岩波書店、1996。
13.日本の対ソ陰謀―三十年の白い夢―、真相編集局編、人民社版、1948。
14.津田道夫、戦争責任と「北方領土」、現代の眼、現代評論社、18(8)、1997年、pp.82~89。
15.久保英雄、ロシア語最終講義、北方領土と日ソ中立条約、人文論集、No.59-2、静岡大学文学部、2008、pp.1~18。
16.高野晃、シベリア抑留者の足跡をたどる、2016年7月30、シベリア抑留体験を語り継ぐ会札幌、講演会パワーポイント資料。
17.ヴォストチヌイ発射場参考図  (http://www.voctokdrom.ru

(元JAXA参事、日本航空宇宙学会永年会員)

「会報」No.38 2017.3.31 会員報告