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母国ロシアへの郷愁(3) 1925年北サハリンから脱出したペトロフスキー家の軌跡――少年時代の思い出と第2次世界大戦で日本軍の捕虜になって――

2019年3月18日 Posted in 会報

グリゴーリィ・スメカーロフ/小山内道子 構成・翻訳

はじめに

 ロシアの「10月革命」後、「シベリア出兵」を続けていた日本軍は、1920年の「尼港事件」後、この事件をめぐるソ連政府への賠償交渉等が妥結する1925年5月まで北サハリンの「保障占領」を行った。日本占領軍と親密な関係を保っていたペトロフスキー家は日本軍の撤退が迫った1925年2月に亜港を脱出した。『会報』No.37では1925年の日本軍砕氷船による脱出そのものと小樽到着時の新聞記事、また脱出にいたる10月革命後の状況と日本軍占領期間中のアレクサンドロフスクとペトロフスキー家をめぐる事件等を紹介した。次の『会報』No.38ではフィリップ・ペトロフスキーの流刑囚上がりという出自と大資産家・事業家として成功したキャリア、本稿の主人公コンスタンチンの誕生とフィリップに溺愛された彼の「幼年時代の思い出」を叙述した。本号では乗馬をこなし、荷車を引く馬を御するようになった少年コンスタンチンが愛おしい故郷の思い出として綴った情景と、北サハリン脱出後約20年を隔てた第2次世界大戦中の日本軍と対峙することになったコンスタンチンの体験を描く。残念ながらコンスタンチン11歳以降の一家のエミグラント生活10年の記録はブランクのままであるが、エピローグはコンスタンチンの長男ニコライ(ニック)とスメカーロフ氏の出会いである。

新しい石炭鉱区と夏の別荘

 1921年、僕が8歳になった時、ペトロフスキー家は新しい石炭鉱区の採炭を始めた。新しい事業はロシアの伝統に従って祈祷とささやかな祝宴を行ってから始められた。家から炭鉱までの舗装していない道路は狭く、いくつも丘を越えて続いていた。この道を荷車を曳いた馬で往復した。この地域にはあちこちに道路があって、いろいろな村へと通じていた。この辺りは一面に草木が密生していた。クマやその他森の動物たちがよく道路を横切って行くのを見ることが出来た。新しい鉱区は数か所あり、丘の傾斜地に露出していた。その傾斜地の間の峡谷に僕たちの夏の別荘があった。この別荘の周りには野イチゴ、キノコ類、野の花々があふれ、小川にはニジマス類がうようよ泳いでいた。僕は夏をこの場所で過ごすのが好きだった。夏の期間2か月は親戚の二人を除いて僕たち家族全員がこの夏の別荘で暮らした。子供たちはこの期間を思い切り楽しんだ。両親には既に5人の子供がいた。それに僕たちは両親の許しを得て自分の友達をここへ招くことが出来た。冬になると、この別荘の生活は全く閉ざされてしまうのだ。しかし、深い雪の中でも炭鉱の作業は続いていた。
 迷子になる恐れがあるばかりでなく、クマに出くわす危険があるから僕たちは一人で森へ行くのは用心して避けていた。幸い夏の間クマは大変穏やかだった。食べ物が十分あったからだ。野には木の実が、川には魚があふれていたのだ。たまたまクマが人間に出くわすことがあっても、クマは人間を襲わずにおとなしく立ち去ったのだ。何の心配もなかったとしても、新しい炭鉱の開所という大事な行事が行われた時は、子供たちは屋内に留めておかれた。
 ある時、僕は丘の上のコケモモの実が熟したのを取りに家を飛び出した。僕はこの野生の木の実が大好きだった。木から直接取って食べると特別美味しかった。お日さまは高く輝いていた。あたりはしんと静まり返って、静寂を破るのは木々のそよぎと小鳥の鳴き声だけだった。僕はコケモモを堪能して顔を上げると、僕の向かい側の灌木の根元にクマが後ろ足で座り込んで僕と同じように木の実をむしゃむしゃ食べているのが見えた。どうしたらいいのだろう? そっと立ち上がって家まで走って帰ろうか? もちろん、僕はクマに殺されたくないと思った。それにクマは血に飢えた残忍な獣ではないと何度も聞いたことがあった。僕は決心して、じっと座ったままクマはこれからどうするのだろうと注意して見ていた。やがてクマは食べるのを止めて、何かぶうぶう唸りながらゆっくりと灌木の裏を流れている小川の方へ歩き出した。灌木があったから僕の場所から川の方は良く見通せた。僕は自分の行動が正しかったことのご褒美として、クマが小川の中ほどにある岩に穏やかに腰かけているというもう一つ珍しい光景を見ることが出来た。そして突然クマはさっと手を伸ばして魚を捕まえ、そのままそれを飲み込んだのである。
(この続きには祖父から聞いた話として、大戦前、ある士官が仲間内の話から自分はクマと1対1で格闘して倒してやると宣言し、シャンパン1ケースを賭けて実際闘って瀕死の重傷を負い、クマは仲間が射殺したという事例が詳しく紹介されているが、割愛した。)
 1921年には僕は既に馬をしっかりあやつることが出来るようになり、馬車に馬を付けて夏だけでなく、冬にも採炭地への小型の馬車輸送を手伝うことが出来るようになっていた。採炭地で鉱夫たちがよく働いていたお陰で僕は冬期にも炭鉱を往き来していた。いつだったか1月末の神現祭期(キリストが洗礼を受け、神の子として現れた記念日)に、ペトロフスキー炭鉱にある森の別荘へお祝いに招く客たちをそり馬車で運ぶ役目を特別に僕にやらせてほしいと祖父に願い出た。祖父は最初ダメだと言ったが、祖父は僕には甘かったので、説得して許可してもらった。祖父はこの役にふさわしい一番従順な馬を選んでくれた。僕が馬丁の役をやることをお客たちに自慢できるし、皆も僕を羨ましがるはずだととても嬉しかった。僕は招いているお客さんたちを指示してそりに座ってもらい、皆をクマの毛皮でくるんだ。そして自分はそりの前に腰かけ(ここが普通御者の座る場所なのだ)、誇らしげに顔を上げて、お客さんたちを乗せてペトロフスキー炭鉱への道を進んで行った。目的地までの行程では何の事故も起こらなかった。馬は落ち着いて歩いてくれた。僕が通るまでに踏み固められた轍に添って馬を御して行ったのだ。神現祭を祝う別荘に到着すると、僕は馬を繋いで、どんな準備が出来ているかを見にお客の皆と台所へ行った。台所は非常に広くて、まず三つのかまどがあり、料理を作るのに使う場所が数か所ついていた。ハム、ガチョウ、カモの肉、ザクースカ(オードブル)用に薄くスライスしたサケの燻製があった。その他にザクースカ料理とメイン料理が数種類用意されていた。魚の煮凝り、温燻製の魚、チョウザメの茹で煮、サケ(赤い)のイクラとキャヴィア(黒いイクラ)の缶詰、このイクラの缶詰は氷が添えてあり、常に冷たく保たれている。いたるところにいろいろなピローグの美味しそうな匂いが漂っていた(ロシア料理には数多くのピローグの種類があるのだ―普通ピローグはイースト入りのパン生地に詰め物を容れてつくる。肉、魚、キャベツの酢漬けとゆで卵などなどである。甘いピローグにはいろいろなベリー類のジャムを容れる。
 このお祝いに招かれたお客には日本人の将校たちもいた。アルコール類の飲み物は彼らには非常に速く効くようだった。日本人たちが僕に一緒に飲もうと強く勧めた。僕はこのチャンスに乗じて、僕が好きなのは甘い飲み物だと言った。すると彼等は僕のためにポートワインを見つけてきた。そこで僕は生まれて初めてアルコール飲料を飲んでみたのだ。すると美味しかった。最初のグラスを空けるとまた注いでもらって、次々に飲んだのだった......
 祝宴は夜遅く終わった。ほとんどのお客さんはかなり酔っていたが、僕の祖父フィリップは酔わなかった。僕は父も足元がふらついているのに気付いた(しかし、僕の記憶では父が酔っていたのはこの時1回だけだった)。お客さんたちは10時ごろ帰っていった。道路の両側には深い雪が積もっていて、ダイヤモンドのようにキラキラ光っていた。空気は澄みわたってキンキンに冷え込んでいた。僕はよく覚えているが、僕達の教会の補祭と並んでそりに乗っての帰り道、僕は突然吐き出した。僕がお腹に詰め込んだものすべてをあっという間に補祭の聖衣に吐いてしまったのだ。僕は恐ろしく気分が悪かった。僕たちがどんな風に家へ帰りついたのか(補祭はどうしたのかもわからない)覚えていないが、ママが玄関の戸を開けたのは覚えている。そしてママが僕にアルコールを好きなだけ飲ませたと言ってパパに食ってかかっていたのも。パパは逆らうことすらせずに黙っていた。ママはそれから僕の周りをせわしなく動き回って世話をした。使用人たちもママに同情していた。しかし、僕には何の効果もなかった。僕はただ平安と安心だけをのぞんだ。騒がしさは耐えられなかった。
 翌日、僕はようやく昼食後に目を覚ました。健康状態はわずかに良くなっていたが、僕はひどく落ち込んでいた。家の中の空気は最低だった。そこで僕はアルコールとワインにはそれがどんなに美味しいものであろうと、僕が18歳になるまでは決して手を付けまいと自分の心に誓ったのであった。
(この後には美しい誇り高く気難しい競走馬に勝手に乗ろうとして、いろいろやってみる。ついには乗りこなせるようになったが、いい気になってどんどんスピードを上げ、ついには落馬した経験を詳述しているが、割愛した。

サハリンの夏、ルイコフスコエ村への家族旅行

 サハリンでは夏は素晴らしかった。同時に農繁期だった。重労働の農作業が終わると、若者たちは愉快に過ごしていた。ちょっとした宴会を準備して、踊ったり、歌ったりした。昼間の労働のように精一杯楽しむことに打ち込むのだ。そしてこの楽しい騒ぎはしばしば夜半に干し草の山で終わるのだった。そのことの後には多くの娘たちが妊娠することになった。僕は動物の場合、この行為がどのように行われるかを自然に観察していた。しかし、人類の見本の性生活に関する知識はこの年齢の僕にはまだなかった。どうやら僕にはまだこの時期が来ていないだと思った。実際、僕はいつもこの宴会には喜んで参加していたのだけれど。特に収穫期のこのお祭り騒ぎには街からも近郊の村々からも若者が大勢集まってきていた。この時は僕の大好きな馬の騎乗競争もあった。僕はロシアの民謡や伝統的なダンスを楽しみ、とにかくこの収穫祭のやり方そのものがとても好きだった。

 夏には僕たちの家族はほとんど毎年アレクサンドロフスクの街から40キロの距離にあるルイコフスコエ村の親戚のところへ出掛けた。その村には僕のママ、エレーナ・グリゴーリエヴナの両親サペーガ家の人たちが住んでいた。僕たちの家族全員がサペーガ家の人たち皆に会うのが待ちきれなかった。その当時は舗装していない40キロの道のりはなかなかきついものだった。ルイコフスコエ村へ到達するには馬に乗って1日中かかった。数台の荷車の隊列と共に美しい景色の峠を超えて進んだ。途中で馬車を止めて食事をした。そしてようやく日が暮れる頃、目的地に到着するのだ。
 もちろん、この旅行はぎっしりといろいろな出来事があって語りつくせない感じの充実したものだった。(自然の美しさ、タイガに居る珍しい動物との出会い等々。)僕にとっては時間は瞬く間に過ぎた感じだった。その上、ルイコフスコエでも僕たちをとても待ちあぐねていたのだ。この村では僕たちの訪問は一つの事件だった。村の人たち全員が(親戚の人たちだけでなく)僕たち家族を知っていたから、サペーガの屋敷の中庭に集まっており、そこには既にテーブルに多種多様な料理が用意されていた。飲んで、食べて、乾杯の言葉が述べられ、ダンスが始まり、実際、朝まで続いたのだ。明け方になって大人たちは寝室へと引き上げて行った。僕たち子供は長い旅行の後だったので、新鮮な空気の中でそれまでに既にちゃんと眠っていたのだった。
 村の生活は街の生活とは違っていた。村人たちは街の人間より早く起きて、農作業を終えるのは陽が沈んでからかなり過ぎてからであった。何人かは家畜の世話をしており、その他の人たちは畑で働いていた。僕は祖父と一緒に畑へ行くのが面白かった。僕は家の馬たちのためにエンバクを集めるのを手伝ったりもした。また、牧草刈りの大鎌の使い方を教えてもらうのも楽しかった。村の近くをゆったり流れている大きな川には魚がたくさんいた。夕方か朝早く僕は祖父とよく魚釣りをした。
 村の女の子たちは僕たち街の子に興味を持っていた。それで、僕たちは村の女の子のグループとよく遊んだ。男の子たちは面白くない様子で、僕たち街の子をしょっちゅうからかった。彼らは既にできている自分たち同士の関係に割り込まれたことが面白くなかったのだ。

アレクサンドルフスクの日本軍兵士たち

 日本は(北)サハリンに1個師団全体を駐屯させていた。アレクサンドロフスクには重砲兵隊と空軍が配備されていた。僕は生まれて初めて何台もの自動車と飛行機を見た。日本軍がやって来るまで島には自動車はたった1台だけだった。(シドニーでニックに会った時の話で、たった1台の自動車とはペトロフスキー家所有の「フォード」だったことが分かった。―G.S.)日本軍兵士は子供たちに対して優しかった。彼らは通りで子供たちにキャンデーや甘いお菓子を配ったり、銃剣や装填していないピストルなどで遊ばせてくれた。僕はかなり頻繁に兵舎へ出掛けて行った。いくつかの日本語の単語を覚えて、兵士たちと馴染みになって、遊んでもらった。上級士官たちは客好きの僕たちの大きな家を喜んで度々訪ねてきていた。この頃、街から12ヴェルスタの僕の家の炭鉱(スメカーロフ氏によると、実際は6ヴェルスタ=約6.5キロ)が再開したが、この炭鉱の良質の石炭を日本軍は喜んで買ってくれた。
 コンスタンチンは子供のころサハリンで観察し、親しんだ日本軍兵士たちと、既にその10年後、1930年代の中国で起こっていた彼らによる犯罪で見た日本軍兵士たちとの差異、その変貌ぶりに驚き、自分の子供たちに日本軍兵士たちについて生涯の終わりまでどうしてもうまく説明できなかった。ペトロフスキーは上海で暮らしていた時、同じ日本帝国軍の軍人たちによって行われた地元住民の大量虐殺の目撃者となっていたからだ。このような恐ろしい事件はハルビンでも、南京でも、その他日本軍が攻略したアジアの国々で繰り返されていたのである。
 
20年後、日本軍の捕虜となって

 コンスタンチンが誕生した時の状況そのものが彼の将来の職業を決めてしまった公算が大きい。幼児期からコンスタンチンは医術に興味を持っていた。祖父と父親には隠れて好んで医学の本を眺めたり、日本軍の診療所へ出掛けて行って医療器具を観察したりしていた。......その後何の巡り合わせか、ペトロフスキー一家はエミグラントとなり、一時中国・上海で暮らしていた時、うまくチャンスを見計らって家族に医者になりたいという自分の希望を宣言したのである。その当時アジアで最も権威ある教育機関は、英国領香港にある大学だった。しかし、この大学に入るには完璧に英語をマスターしていなければならなかった。家族はコンスタンチンの希望を承認した。明確な目的意識を持っていることと真剣さにおいて彼は祖父のフィリップに似ていたのだ。家族はただでさえ乏しい収入の中から青年を語学習得のためにイギリスへ留学させる経費を工面した。数か月後彼は香港大学の入学試験に合格できるだけの英語をマスターして帰ってきた。

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1938年に取得したコンスタンチンの医師免状

 1941年6月、ファシスト・ドイツがソヴィエト連邦攻撃を開始した時、コンスタンチンはサムライたち(日本軍人)が攻略した領土で行った暴虐の実例からファシストたちのやり方を知っていた。1938年、医師の資格を取得していたコンスタンチンはソヴィエト軍前線への従軍を志願した。英国連合軍で彼の志願について協議が行われ、基本的な準備が進められている間にも、日本軍の進撃は既に個々人の家の壁際までにじり寄ってきていた。1941年12月、イギリス軍王立軍医団所属のK.K.ペトロフスキー大佐は香港の防衛についていた。〈英国常備軍部隊とカナダ国民義勇軍の激烈な防衛戦の後、12月25日、香港は陥落した。その後続いた混乱の中で「南京強姦」を思い出させるように、勝ち驕った軍人たちを抑えがたい「人殺し」の欲望が捉えたのである。聖ステファン・カレッジ病院になだれ込んだ日本の軍人は、連続的にすべての負傷者を銃剣で切り殺した。止めに入った医師と看護婦にも同じ運命が待っていた。この大虐殺の後、軍人たちはすべての家具を打ち壊して、それを使って火葬用の焚火を起こし、そこへ死人を投げ入れた。恐怖で気が狂ったようになった看護婦たちを一つの部屋へ追いやって、そこに2日間閉じ込め、その間日本の軍人たちは絶え間なく彼女らを強姦したのである。〉(『第2次世界大戦百科事典。東洋における戦争、1941.6.~1942.5.』モスクワ、2007.p.119、スメカーロフ氏はニックが話した父親・コンスタンチンの体験談を聞いたことから本事典の相当する部分を引用している。)
 いつものようにペトロフスキーは運が良かった。彼は外科の手術中だったが、その時、銃声と日本語の罵声に続いて叫び声やうめき声が聞こえてきた。彼はまず頭に浮かんだことをやった。手術台の下に隠れたのだ。日本兵が病院から引き揚げていった後、彼の呼びかけに応答する者は誰も居なかった。周囲にはただ無数の死体だけが残っていた。
 コンスタンチンは香港からシンガポールに転戦した英国軍にいた。
 13万の兵士から成る英国軍は、結局のところ、予期せぬマレー半島北部から侵攻した数の少ない日本軍によって「東洋のジブラルタル」(シンガポールを英国人はそう呼んでいた。―G.S.)で包囲され、司令官パーシバル中将の命令で1942年2月15日、日本陸軍山下中将に無条件降伏し、日本軍の捕虜となった。この捕虜の中にペトロフスキー大佐も入っていた。そして有名な「タイメン鉄道」建設の死の部隊を体験したのである。
 〈日本軍はシャム(現:タイ)からビルマ(現:ミャンマー)への鉄道建設を決定した。征服したばかりの帝国の各地を結ぶためである。これはほとんど遂行不可能な計画だった。なぜなら、鉄道は熱帯雨林や高山、激流する河川を突っ切って建設しなければならないからだった。しかし、強制労働部隊として連合国の戦時捕虜が使われることになったのだ。蔑まれ、半殺しにされながら、飢えた病人状態の捕虜たちは収容所から次の収容所へと建設場所を移動させられながら、囚人的労働を遂行していった。感嘆すべきことだが、捕虜たちは恐ろしい犠牲を払ったが、この鉄道建設を完遂したのである。建設事業の期間中に連合国捕虜16,000名が死亡し、同様にこの建設作業に強制的に動員された沿線の土地から土地で駆り出された住民6万人も犠牲になった。かつての誇り高いシンガポール帝国陸軍の殲滅は、第2次世界大戦の最も嫌悪すべき犯罪のひとつとなったのである。〉(『第2次世界大戦百科事典―東洋における戦争、1941.6.~1942.5.』、モスクワ、2007、pp.121~122、前段同様引用はスメカーロフ氏による。)

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左:1942年2月、日本軍の捕虜になったK.ペトロフスキー大佐
右:日本軍捕虜になったイギリス軍将校たち、1943年のクリスマスと推測される

 父親の捕虜生活を語ったニコライ・ペトロフスキーの話を聞いて私(スメカーロフ氏)が思ったのは、もしコンスタンチン・ペトロフスキーのような自己犠牲的な医師がいなかったならば、連合国戦時捕虜の犠牲者は更に増えたのではないかということだった。
 運命はペトロフスキーに試練を与え続けた。ビルマの囚人的労働が軍医の運命に降りかかった苦難の最後の連鎖ではなかったのだ。イギリス軍がその後ビルマに侵攻したため、日本軍は残りの捕虜をだるま船(幅広の平底の荷船)のロックした船倉に入れて日本へ移送していた。イギリス艦隊は敵船の摘発を行い、手あたり次第撃沈したのである。実に多くの捕虜が船倉に閉じ込められたまま、自国・イギリス海軍の攻撃によって命を落としたのであった。ところが、ペトロフスキーたち捕虜を運んでいた平底船の船長は、人道的な人間であることが分かった。捕虜を詰め込んだ船が海の底へ沈んでいったとき、船長は船倉のふたを開けることを命令し、捕虜たちを外へ出したのである。コンスタンチンはこの日本人船長のことを再々思い出す。そしてどの民族にも立派な人間がいることを皆に説明するのだ。捕虜たちは近づいてきた日本船の甲板に乗り移ることが出来た。そしてペトロフスキー大佐は終戦を広島市郊外の戦時捕虜収容所で迎えたのである。
 1951年、ペトロフスキーの家族は日本、中国、オーストラリアのうち、どの国へ移住するかの選択を迫られていた。コンスタンチンは結局オーストラリア・タスマニア島のクリニック主任になることに同意した。家族皆もこの島が愛する故郷サハリン島にたいへん似ていることから移住を決断したのだった。

エピローグ

 ペトロフスキー一家の長年にわたる諸国放浪の生活は彼らの生活様式にも反映されざるをえなかった。また、近親者のお墓もサハリン、日本、中国からドイツまで世界の各地に散在することになった。しかし、一家の各々が自分たちが経てきた不幸を「それが人生さ」とフランス人が言うように人のせいにすることはなかった。上述のように1951年、コンスタンチン・ペトロフスキーは両親、妹たちと共にオーストラリアのタスマニア島のランセストン市に定住し、市の病院の医師となった。タスマニアの自然、気候、そして歴史もペトロフスキーには彼らの故郷サハリンを思い出させた。この島で家族には新しい世代が誕生する。そして彼らはサハリンを両親の話によってのみ知ることになるのだ。コンスタンチンと彼の妻キャサリンの間には3人の娘と一人の男の子が生まれている。1959年生まれのこの男の子、ニコライ(ニック)・ペトロフスキーはやはり医学の道へ進み、フリンダ―大学教授で内分泌学の専門家となり、免疫不全、糖尿病、内分泌問題の治療ワクチンの開発に成功し、国際的に活躍する専門家となっている。
 そしてスメカーロフ氏の探索によって2013年10月、スメカーロフ氏とニック・ペトロフスキー氏との邂逅が実現したのであった。ペトロフスキー一家がアレクサンドロフスクを脱出してから88年の歳月が経過していたが、それ以前の約30年を含めてペトロフスキー家と北サハリンをめぐる歴史が語られ、記憶されたことは意義深いことである。

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スメカーロフ氏とニコライ(ニック)・ペトロフスキー氏との邂逅、2013年10月、シドニーにて

「会報」No.39 2018.6.30  特別寄稿