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函館ロシア人墓地――墓碑のないロシア人をめぐって

2019年3月18日 Posted in 会報

倉田有佳

 函館の街の西の端にある「外国人墓地」は、日米和親条約が締結され(1854年)、半年後の開港が決まっていた函館の港を視察に訪れたペリー艦隊の一行の中の水兵2名が死亡し、彼らの埋葬場所として提供したことに端を発する。この一帯が正式に外国人墓地に定められたのは、米、英、デンマーク、ロシア、ポルトガルの在函五カ国領事が開拓長官に外国人墓地の永久保全を求める願書を提出し、それが認められた明治3(1870)年のことだ。
 現在、外国人墓地の土地を所有するのは函館市だが1、「ロシア人墓地」、「ハリストス正教会墓地」、「プロテスタント墓地」、「カトリック教会墓地」はそれぞれが柵で仕切られており、墓地の管理は各教会で行っている。
 墓地は海を眼下に望む高台にあるため、天気の良い日の眺めは実にすばらしい。夏には、タクシーや徒歩でやって来た観光客が、柵の外から墓地を見て回る姿をよく見かける。だが、ここに眠るロシア人やポーランド人2の親族が墓を訪れることはほとんどない。それに代わるかのように、近年は毎年5月になると札幌からロシア総領事館の方々が同胞の眠る墓地にやって来る。ロシア極東大函館校のロシア人教師や日本人教職員が加わり、墓地清掃を行うためだ。今年は5月26日(土)に実施され、清掃後は、函館ハリストス正教会長司祭のニコライ神父による祈祷が行われた。

 函館出身の考古学者馬場脩(1892~1979年)は、『函館外人墓地』(図書裡会、1975年)の中で、ロシア人墓地に現存する43基3の墓碑について写真入りで紹介している。最も多くを占めているのは、ロシア海軍の水兵・士官・乗組員の墓で、1859年から1869年にかけて亡くなった人たちだ。最初の墓が建てられた1年ほど前にロシア領事館が函館に開設されている。領事館が国の予算(海軍もしくは外務省予算)で建てたのだろうか、同じようなサイズのカマボコ型の墓石が、墓地の真ん中の通路を挟み、入口の右手に横二列で整然と並ぶ。人目を引くのは、26歳の若さで亡くなった息子(アンドレイ・ポポフ海軍少尉候補生)の死を悼んだ母親が、息子と同僚の水兵のために巨大な自然石を運んで来て造ったと言われている墓だ4(【写真1右】)。

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写真1

 そして第二のグループは領事館関係者の墓で、入口から向かって左手上方に、横一列に3基並んでいる。函館山側のバス通りに最も近い場所にあるのが領事館付属聖堂の読経者として来函し、その後、開拓使立函館露学校のロシア語教師となったサルトフ5の墓で(【写真2】左)、その下に医師ヴェストリ6の墓(【写真2】中央)、さらにゴシケーヴィチ領事夫人エリザヴェータの墓(【写真2】右)へと続く領事夫人の墓だけが際立って新しいが、それもそのはずで、墓は1993年に建てられたものだ。。

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写真2

 故厨川勇神父の回想によると、1864年に夫人が病死すると、領事館の敷地内(現ハリストス正教会敷地内)に埋葬された。1907年、明治40年の函館大火で正教会の木造の聖堂は全焼してしまう。仮祈祷所はすぐに造られたが、聖堂再建の目途がたつのはロシアの婦人から多額の寄付が届いてからのことで、1914年からようやく焼け跡の整理が始まった。厨川少年は当時小学4年生、10歳になったということで、午前零時から始まる復活祭への参加を初めて許された。まさにその夜、聖堂の焼け跡で少年は白骨を発見したというのである7。
 白骨だけでなく、旧聖堂の焼け跡の右側に当たる場所にレンガ様のもので築いたパン焼きかまどの中からは、婦人の革靴が出てきたため、大騒ぎとなった。聖堂の工事監督に当たっていた河村長補祭は、東京のニコライ堂に打電したが、セルギー府主教からは「丁重に埋葬せよ」との返電があっただけで、何人の白骨であったかは発表されなかった8。
 当時、白骨の主は領事の「令嬢」と考えられた。というのも、明治20-30年頃古い信者の間には、初代領事ゴシケーヴィチが在任中令嬢を失い、その葬儀当日は町内の呉服屋から黒布を買占めて、聖堂の外部をそれで覆い、式後貧者に配布したという伝説めいた話が伝わっていたからだ9。この他、大火で焼失する前の聖堂の右側には、金色の地に黒で描いた主の磔の高さ三メートルにも及ぶ大十字架が置かれてあり、これが令嬢の記念碑だと言われていた。白骨の発見された箇所はこの十字架の直下に当たる10、と馬場脩は断言するが、その一方で、「聖堂の床下に埋葬した」11、とも記している。どちらが正しいのか判断しかねるが、現段階では、旧聖堂の右側、つまり現在の信徒会館の東側12、で発見されたと考えられているようだ。
 さて、ロシア人墓地に改葬するために、白骨と遺品の納棺に立ち会った大工アレキセイ、佐藤正兵衛は、婦人靴が大人物であったと馬場に語っていた13。従来の令嬢説に多大な疑問が投げかけられることになるが、その疑問が解かれるのは半世紀以上も先のことだ。
 1969年5月に市立函館博物館で開催された展示会に来場したバンドウーラ在札幌ソ連総領事に馬場はこの疑問点を質す。すると総領事は一時帰国中に本国ソ連で調査し、ゴシケーヴィチ領事とエリザヴェータ夫人の間には子供がなかったことが明らかにされた14。これを以て、白骨の主は「夫人」のものとされた。
 しかし、ロシア人墓地の改葬場所は相変わらず不明のままだった。厨川神父は、改葬の事情を見ていたのは、当時中学4年生か5年生で、聖堂にしょっちゅうあそびに来ていた馬場脩だった15、と語るが、その馬場ですら、1975年に出版された『函館外人墓地』の中では、移葬に立ち会った人たちは既に物故しており、「その箇所は今日も依然として不明の状態にある」16、と記している。
 領事夫人の改葬場所が特定するのは、1989年のことだ。札幌のロシア人信徒ニコライ・シャルフェフ(1916.10.28~1989.4.13)17が亡くなると、札幌には正教会専用墓地がないため、函館のロシア人墓地に土葬することになり、墓地を二メートル足らず掘ったところ、上手の土の中から白骨が出てきたのである。こうして1993年5月、改葬から80年目にして墓碑聖成式が行われたのだった18【写真3】。

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写真3 在函館ロシア帝国領事ゴシケーヴィチ夫人 エリザヴェータ・ステパノヴナ 1864年9月3日没 享年43

 ロシア人墓地に埋葬されている第三のグループとも言うべきは、20世紀に入り、ロシア革命や国内戦争の混乱の中で日本に避難・亡命し、函館で生涯を終えた人たちだ。1934年から1944年にかけて亡くなった7人の墓は、墓地のほぼ中央部にある。カマボコ型の墓石が多いが、八端十字架の立つ墓もある(註36参照)。
 土葬に最低必要な区割り面積がおよそ「半坪」だったのだろうか、これ以下のものはない。例外的に広い区割りは、毛皮商として成功し、1934年に亡くなったドミートリ・シュウエツの「5坪」で19、ここには個人のレリーフが付いた墓所が建つ(【写真1】左)。
 
 なお、日本人男性と結婚した亡命ロシア人女性は、夫と同じく「ハリストス正教会墓地」に眠っている【写真4】20。

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写真4 山側から見たハリストス正教会墓地

 このほかに、ロシア人墓地に埋葬されたが、墓碑のないロシア人もいる。なぜ墓碑が残っていないのか。一つの可能性は、立てられた木柱が朽ち果てたことだ。馬場脩は、大正4(1915)年10月6日に函館港で死亡(心臓麻痺)した露国義勇艦隊インディギルカ号船長タフイフスキー21の名前を挙げ、墓跡が見つからないのは、木の墓標が朽ち果てたためと推測している22。同じようなことはプロテスタント墓地でもあったようで、北海道新聞函館支社の貝澤記者(当時)は、5-6年前にプロテスタント墓地に埋葬されたインド船のセーラーを葬ったという一番新しい木の墓標はすでに朽ち果てて、文字さえ判読できなかった、と記事に記している23。
 それ以外にも、厨川神父が語るように、当時の子供たちの悪ふざけで木柱が抜かれた可能性も否定できない24。
 ロシア人墓地に埋葬されたものの、墓碑が残っていない人たちに光を当てたのは、当会会員だった故菅原繁昭の論考「失われた墓碑銘―函館のロシア人墓地」(当会会報27号、2004年)だ。参考にしたのは、「連合国人墓地調」25である。そこに列挙されている名前から、現在は墓碑のない12名をピックアップし、氏名、死亡年月日を表にまとめた。このうち4名については、『函館新聞』(以下、『函新』とする)と『函館毎日新聞』(以下、『函毎』とする)に報じられた記事から死因などの周辺状況を補足している。
 
 このたび筆者が函館のロシア人墓地を取り上げるのは、昨年度の当研究会の総会で、「ロシア人墓地」に埋葬されている人たちの氏名や死因、死亡に至った状況などをまとめることを活動の一つとして提案したからある。いずれは当会ホームページ上で情報を発信してゆきたい。というのも、近年のロシアはインターネット環境が整い、多種多様な情報をネットで検索ができるためだ。長年音信不通となっていた学生時代の旧友を検索サイトで探り当て、数十年ぶりに連絡を取り合うようになったとか、何気なく自分の苗字を「検索」してみたら、一族が作成するサイトに行きついた、などという話も耳にする。数世代前の親族が函館で亡くなったらしい、といった程度の曖昧な情報しか持たない人たちに、何らかの情報が届けば幸いである。
 また、諸事情により墓参に来ることができない人たちには、函館の正教会や函館市によって墓地は美しく保たれており、年に1度、札幌のロシア領事館や函館在住ロシア人が墓地清掃を行い、遠い異国の地で亡くなった同胞を偲んでいると伝えたい。
 だが、第二次世界大戦中は、外国人墓地は荒れ放題で、戦争直後は特定宗教禁止などで、函館市も手を入れかねていた。これが1956年以降、ロシア人墓地に近い船見中学校の生徒会が校外活動として毎週当番制で清掃し、特に彼岸(春)とお盆(秋)には、全員で清掃するようになったのである26。
 1959年7月3日、フェドレンコ駐日ソ連大使が船見中学校を訪問し、大使から生徒に感謝の印にソ連の切手アルバムが贈られた。校長室には、大使が色紙にしたためた『飲水思源』が飾られた27。

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写真5(28) 校長室でのフェドレンコ大使(右)

 ところでこの頃の墓地は、花壇の木柵様の囲いしかなく、自由に出入りができた。ロシア人墓地は墓石がベースにちょうどいいとばかりに、そこで野球をする人たちもいた29。現代の感覚では不謹慎な行為だが、何事にも大らかな時代だったと言えよう。
 だが、14学級、全校生徒712人だった船見中学校も30、市の東部や北部に人口が移動し、1977年4月には船見中学校と愛宕中学校が統合し西中学校が開校した31。船見中学校の当時の校長の発案で始まった外国人墓地清掃は、西中学校には引き継がれなかったようである。折しも、函館市による外国人墓地周辺の整備や定期清掃が始まった。各墓地には鉄製の柵がめぐらされ、門扉に施錠されるという現在の姿が出来上がっていく。
 こうしたロシア人墓地と函館の人たちとの関わりも掘り起こし、ロシア人墓地に眠る人たちの情報と併せて発信してゆきたい。ゆくゆくはロシア語に翻訳する必要があろうが、本稿ではその手始めとして、これまであまり注目されてこなかった墓碑のないロシア人について表にまとめた。基本資料は正教会のメトリカの「死亡」欄で、そこには「永寝月日」「埋葬月日」「生前ノ属籍、身分、姓名」「性別」「年齢」「病症」「葬儀執行者ノ姓名」「埋葬地」が記載されている32。西暦換算を間違えたのだろうか、「連合国人墓地調」とメトリカで没年が1年ずれているものがあるが[表No.8、9、11]、本稿ではメトリカに則った。
 地元紙は、『函新』、『函毎』、『函館日日新聞』(以下、『函日』とする)の三紙に当たった。メトリカと地元紙から、12名の他にも墓碑がない埋葬者が少なくとも8名ほどいたことが判明した(表のNo.の前に※印を付けた)。

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 この20名の情報から、当時の函館とロシア(ソ連)の密接な関係が浮かび上がってくる。この時代の函館の街の空気も感じ取れる。
 最も多い死因は病死(13件・65%)だった。肺炎、感冒、結核、胃癌と、感染症で亡くなる人が多かった。市内の病院に入院し、院内で亡くなった人もいた[No.1、8、13、※15、18]。病死者の中には乳幼児もおり[No.※1433、※15、※20]、函館に暮らす亡命者とおぼしきロシア人女性の幼子も含まれている[No.※16]。
 事故死(3件・15%)では、海に転落・溺死、船上での転落死、上陸後の殺傷沙汰と様々だが、アルコール(ウオッカの類)による泥酔が事故の直接の引き金となっていた[No.3、6、12]。
 埋葬された時期が10月中旬以降、11月に多いのは、この時期カムチャツカ方面の漁場からの切り揚げ船が、漁獲物や生産物を函館で陸揚げするためだ。
 当時の様子について、函館出身の亀井勝一郎(1907~1966年)は、次のように回想している。1917年のロシア革命前の函館は、「とくに義勇艦隊と云って、北洋やアメリカ廻りのロシア商船が四五隻も入港することがあったが、その時の街の祭日気分はいまでも忘れることができない。青や黄の煙突を持つ当時の巨船が、港を圧して入港する有様、髭の濃い水夫達や漁夫達(彼らの或るものは妻子をひきつれていた)が直ちにボートをおろして、桟橋に向かって歓呼しながらやってくる情景は、何か恐ろしく然も楽しいものであった」34。
 1913年11月14日付『函新』は、函館税関では、漁期になると数千人のロシア人が往来するため、商船学校嘱託の露語教師浪江良平を講師に招き、税関職員に対して翌年3月までの4か月間、毎日午前11時から1時間、露語講習会を開くことになった、と報じている。
 街で買物をするロシア人が大勢いたため、「函館の商店の看板には日本文字とともに大抵ロシア文字でかかれ、店員は片言まじりにロシア語を話した」35。ロシア人によるロシア語の個人レッスンの広告(『函新』1913.12/12)や、ハリストス正教会でロシア語の夜学を開催することになり、申込者は30名以上に及んだことを伝える記事もあり(『函毎』1916.12/6)、学習層が広範に及んでいたことがよくわかる。
 ところで、ロシア人墓地への埋葬は「土葬」だった。これは、正教会が土葬を基本としているからで、教会の司祭によって葬儀や埋葬が執り行われた。自殺者で、雇用主のリューリ商会に遺体が引渡され火葬36に附された人もいた[No.※7]。正教会では、自殺者は自分の意志で神に背いたと見なし、原則として自殺者のためには奉神礼(祈祷)を行わない37。この他にも自殺者が1名いたが[No.※10]、メトリカに記載がないため、墓地に埋葬されたのかどうかは不明である。
 船内で病死(肺結核)した女性の遺体を船で引取り、塩漬けにしてウラジオストクに赴く予定であったと報じる記事もある[No.4]。メトリカから同人が墓地に埋葬されたことを確認できるが、腐敗処理された遺体が船でロシアに送られるケースもあったのだろうか。
 埋葬されたロシア人の出身地は大いに気になるところだ。オホーツク出身らしき者[No.18]、中国との国境に近い沿海州のイマン(現ダリネレーチェンスク) [No.11] といったロシア極東の出身者もいれば、カスピ海沿岸のアストラハン[No.4]やウラル山脈の西方のヴャトカ(現キーロフ)[No.12]のように、遠方の出身者もいた。朝鮮系ロシア人漁夫もいた[No.2]。
 
 埋葬された人たちの特徴が明らかになったところで、墓碑が残っていない理由を筆者なりに考えてみると、まず、その多くが、カムチャツカの漁場での季節労働を終え、ウラジオストクに戻る途中函館に寄港したロシア人だった。家族を伴ってきた人もいたが、大半は単身での出稼ぎ者だ。葬儀や埋葬は遺族が関わるのではなく、基本的には雇用者(リューリ商会やデンビー商会)が、場合によっては領事館が引き受けたと考えられる。木の十字架は立てられたが、恒久的な墓(墓石)を建てるには時間も費用もかかる。雇用者はそこまでは行わなかったのだろう。
 埋葬時期は、切り揚げ船が函館に入港する晩秋から初秋に多かった。木柱は海からの潮風を受け、冬には雪に埋もれ、10年も経てば朽ち果ててしまった。時には、嵐や強風によってどこかに飛ばされたり、自由に立ち入れた墓地にはいたずら少年が入り、木の十字架を引っこ抜いて行ったかもしれない。いずれにせよ、墓を見守る遺族や近親者が近くにいないため、それに気付く者もなく、やがて人々の記憶から消えていったのではなかろうか。
 彼らの埋葬場所の特定は、領事夫人の埋葬場所を「領事館関係者の墓の近くが選ばれたに違いない」38、と厨川神父が推理したようにはいかないだろうが、いずれ明らかにされるものと期待したい。

 当時の新聞の死亡記事の見出しには、「露助」、「露スキー」、「露人」が見られる。春と秋に大挙して押し寄せるロシア人への受け止め方は、年齢や関わり方によって様々だったことだろう。「一旦酔ってしまうと彼らは何をやるかわからない」、と亀井勝一郎が回想するように、彼らの行動は函館の人々を驚かせ、些細なことから起こる衝突は、頻繁にあったに違いない。だが、「露助」という表現が他の表現に比べ、特段侮蔑的に使われていたとも言い難い。
 「子供ごころにも、ロシア人といふ人種をつぶさに眺め観察する機会に恵まれた」と自負する亀井勝一郎が、「いつも楽しく心に想ひ出す」情景は、革命前に目にした「親しみ深く愛すべきロシア人。凡ゆる間断を破って握手しうるロシア人。野放しで粗暴ではあるが、深い泉からこみあげてくるような笑をもつロシア人」39であったことを最後に触れておく。


1 国有地(未開地)だった外国人墓地の土地が、市に無償で移管(付与)されたのは、昭和10(1935)年のこと(『自昭和10年4月至昭和11年3月 函館市議会議決書(昭和11年度各市予算ハ除ク)』函館市役所、36-37頁)。事前に拓殖省から函館市長に対し、「一応現在の管理者に異存の有無や希望条件等があれば調査するよう」文書が届き、グリーキ チャーチ墓地管理者のハリストス正教会は長司祭白岩徳太郎名で、「これまで通り無償で貸付されるものであると受け止め、移管に異存はない」、と市長に回答している(「外国人墓地処理ニ関スル件」『墓地関係書類』函館正教会、函館市中央図書館蔵)。この『墓地関係書類』には、「市立函館図書館」の便箋に墓地関連の様々な文書を手書きで写したものが収められており、小さく「1986.4 整理」の記載がある。「市立函館図書館」は2005年に「函館市中央図書館」に名称変更。
2 2009年にポーランド大使館員、ポーランド人と日本人の研究者が函館を調査に訪れた。埋葬者の名前からポーランド人か否かを判断し、函館の「ロシア人墓地」にはポーランド人の可能性の高い墓が4基あると結論付けた。ポーランド政府の事業として日本全国で実施された調査の結果は、エヴァ・パワシュ=ルトコフスカヤ(代表)・稲葉千晴編集『日本におけるポーランド人墓碑の探索』(ポーランド文化・民族遺産省文化遺産局、ワルシャワ、2010年)にまとめられた。
3 「43基」の中には、明治8-9年にロシア人墓地に埋葬された日本人信徒8人の墓(うち2基は墓碑が判明できない)を含む(『函館外人墓地』125-128頁)。
4 『函館外人墓地』87頁。
5 1974年9月には、サルトフ死後百年を記念する記憶祭(パニヒーダ)がロシア人墓地で行われた(『北海道新聞』1974年9月9日)。
6 註2の調査結果により、ポーランド人と結論付けられた一人。
7 厨川勇「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」『地域史研究はこだて』20号(1994年)、100-108頁。
8 馬場脩「ガンガン寺」『函館異人談』豆本海峡1、棒二森屋発行、1974年、54頁。
9 「ガンガン寺」55頁。厨川神父も「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」で、同様のエピソードを語っている。
10 同上。
11 馬場脩「函館外人墓地 外人実業家四天王の末路と秘密結社・解剖」『はこだて』(市立函館博物館館長石川政治編)第1巻第2号、1975年、61頁。
12 『函館ハリストス正教会史 亜使徒日本の大主教聖ニコライ渡来150年記念』函館ハリストス正教会、2010年、30頁。
13 「ガンガン寺」56頁。
14 同上、56-57頁。エリザヴェータ夫人はゴシケーヴィチとは再婚で、前夫(陸軍少佐)との間には息子(ウラジーミル)が一人おり、函館に連れて来た。1865年に領事が離任する際、この息子もサンクトペテルブルグに戻った。
15 「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」106頁。
16 『函館外人墓地』79頁。
17 現時点で、函館のロシア人墓地で最も新しい埋葬者。同人の墓石には、1919年10月28日に亡くなった妻の母アリアドナ・パヴロワ・シャルフェワの銘もある。横に並ぶ八端十字架の立つ墓には、ニコライの息子と思われるアンドレイ・ニコラエヴィチ・シャルフェフ(1952.3.31~1980.2.6)の名が刻まれている。
18 「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」108頁。
19 「連合国人墓地調」『墓地関係書類』所収。函館正教会が、昭和24(1949)年3月28日付で大蔵省管理局長の照会に対して調査・回答したもの。
20 明治3(1870)年にロシア人墓地(グリーキ チャーチ墓地)が墓地として許可され、主として外国人の信徒を埋葬することになり、明治8(1875)年にハリストス正教会墓地が主として邦人信徒(日本人信徒)を埋葬することになった(明治8年9月18日「外国人墓地貸渡証書」『墓地関係書類』所収)。「外国人」の中心はロシア人だが、1861年に埋葬された元捕鯨船水夫でサンドイッチ諸島(現ハワイ諸島)出身のカトリック信徒の墓が1基ある。氏名は不詳(『函館外人墓地』102頁)。
21 ただし当時の新聞記事から、船長の名前は「ポタフィフスキー」、死亡年は大正14年(1925)が正しいと思われる(表のNo.※17参照)。
22 『函館外人墓地』79頁。
23 「百年のふるさと㉕ 函館外人墓地」『北海道新聞』1962年8月15日(夕刊)。
24 「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」106頁。
25 『墓地関係書類』所収。
26 元木省吾『函館郷土史話』函館郷土史研究会、1965年、113頁。
27 フェドレンコ大使に続き、1961年9月10日には駐日米国大使ライシャワーも訪れ、船見中学校生徒の墓地清掃に謝意が表された(『船見通信』第19号(1961年12月23日))。筆者はこれらのエピソードを船見中学校の卒業生で、はこだて外国人居留地研究会会長清水憲朔氏の談。
28 函館市立船見中学校生徒会編集委員会編『ふなみ』1960年3月。
29 当研究会世話人で元中学校教諭の中嶋肇氏の談。
30 創立十周年記念函館市立船見中学校『学校要覧 昭和32年10月』。
31 統合された西中学校も少子化により2018年3月に閉校された。
32 メトリカは個人の情報であり、取り扱いには十分な注意が必要で、本稿では、研究目的を越えた使用にならぬよう配慮した。当研究会に対して、戦前のメトリカのコピーを提供してくださった松平神父(故人)には感謝申し上げたい。
33 白軍兵55名とその家族を載せた「シーシャン号」がカムチャツカからウラジオストクに引揚げる途中、露国義勇艦隊「トムスク号」が暴風激浪をついて函館港外に現れたのは1922年11月8日のことで、子供が14人乗船していた。上陸許可がおりず、暖房装置のない不潔な船倉で寝起きしていたため病人が続出した。特に子供たちは防寒寝具の不足から、ほとんどが風邪に侵された。上海に向かう目途が立ち、傭船した「第二錦旗丸」で函館を出航するのは1922年12月13日のこと(倉田有佳「函館における露国艦船 1922年秋」『異郷に生きるII』成文社、2003年、187-199頁)。
34 「白系ロシア人」『亀井勝一郎全集』第13巻(講談社、1971年、27-30頁)所収。初出は1938年11月『月刊ロシア』(同上、555頁)。
35 同上、27頁。
36 他にもロシア人墓地には、商用で向かった先の上海で1939年8月に急死したバトゥーリンのように、同地で火葬された後、函館で埋葬された人もいる(『函館外人墓地』122頁)。バトゥーリンの妻アンナは、アルフレッド・デンビーの妻マリアの妹で、前夫はイワン・デンビー(岡田一彦「描かれたデンビー一族 ―幻の北洋の覇者―」『市立函館博物館紀要』第3号(1993年)、25頁)。
37 日本ハリストス正教会ホームページ[http://www.orthodoxjapan.jp/]
38 「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」108頁。
39 「白系ロシア人」27-28頁。 

「会報」No.39 2018.6.30  会員報告