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ブロニスワフ・ピウスツキと函館の漁業家・稲川猛治

2020年9月 6日 Posted in 会報

沢田 和彦

 ポーランドの民族学者ブロニスワフ・ピウスツキは、1866(慶応2)年11月2日1にロシア領リトアニアのズーウフという町に生まれた。1887(明治20)年、ペテルブルグ大学法学部在学中にロシア皇帝アレクサンドル三世暗殺未遂事件に連座し、サハリン島に15年(後に恩赦で10年に減刑)の徒刑となった。この牢獄の島でピウスツキはギリヤーク(現ニヴフ)とアイヌの言語を習得し、その民族学的調査を行った。刑期を終えた彼は、ウラジオストクのアムール地方研究協会の博物館勤務となる。やがてペテルブルグのロシア科学アカデミーからサハリン先住民の資料収集を委嘱され、エジソン発明の蝋管蓄音機(録音、再生に用いる蝋製の円筒)とカメラを携えて再度サハリンへ向かった。ピウスツキは先住民とその文化の擁護者となり、南サハリン東海岸アイ・コタンのアイヌの酋長バフンケの姪チュフサンマとの間に一男一女をもうけた。

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ピウスツキ(1903年、函館の井田侾吉写真館)

 1905年6月、日露戦争による日本軍のサハリン占拠の直前にピウスツキは妻子を残して島を脱出し、極東ロシア、日本、アメリカを経て翌年ガリツィア(オーストリア・ハンガリー領ポーランド)に帰った。ヨーロッパでは、しかしながら、アイヌ研究は正当に評価されず、学位をもたぬピウスツキは定職を得ることができないで、困窮生活を余儀なくされた。1914(大正3)年末、第一次世界大戦勃発によりロシア軍のガリツィア進駐が現実味を帯びてきたため、彼はウィーンへ逃れる。さらに中立国スイス、次いでパリに移る。そして1918年5月21日、セーヌ川のミラボー橋のたもとで水死体となって発見された。失意と孤独と亡命生活に疲れた末の自殺とされているが、死の真相は今なお明らかではない。それは、実弟ユゼフ・ピウスツキの指揮下にポーランドが悲願の独立を達成するわずか半年前のことであった。
 ブロニスワフ・ピウスツキが日本列島を訪れたのは、1902年8~9月の間の3週間(函館)、1903年7~10月の3カ月間(北海道調査旅行)、1905年10~11月の1月半(神戸)、そして1905年12月中旬~1906年8月3日の7カ月半(東京、横浜、長崎)、の都合4回である。
                 
 サハリンを去った後もピウスツキを島に結びつけていた人間が、アイヌ人家族以外に二人いた。一人はナイブチの千徳太郎治である。千徳は1872年に日本人の父と樺太アイヌの母との間にナイブチで生まれ、北海道江別市対雁(ついしかり)に移住した後、そこから引き揚げて来た、いわゆる対雁アイヌである。ピウスツキは彼にロシア語を特訓した。
 千徳が日本滞在中のピウスツキに送ったキリール文字表記のアイヌ語書簡が3通残っている。1通目は1906年6月4日付のもので、ピウスツキの手紙を受け取ったこと、バフンケが漁場の番屋を日本人に取り上げられたこと、今後の生活がどうなるのか、様子を確かめるために彼が東京へ行ったこと、チュフサンマは女児を出産し、ピウスツキに会いたがっており、再婚していないことを伝えている。バフンケはロシア領時代に建網漁を許可され、日本人から資本を得て多数の日本人漁夫を使役していたが、日本領になると先有権を認められず、建網漁を禁じられた。彼らが再度建網漁を許可されるのは1909年のことで、バフンケはセラロコ漁場での鰊・鱒・鮭漁を許可されている。また同年10月に「土人惣代人」制度が設置され、バフンケは豊原支庁の土人惣代人に任じられた。彼は1919年に亡くなった2。
 千徳の2通目は1906年6月15日に書いたもので、2月4日付のピウスツキの書簡を今受け取ったこと、チュフサンマには男の子一人と女の子一人がおり、再婚せず、ピウスツキを待っていることを伝えている。3通目は8月11日付のもので、神保から書簡を受け取ったこと、自分は前年に2回東京のピウスツキへ手紙を送ったこと、函館で千徳のおばの夫である日本人が裁判にかけられたので沢が函館へ行ったこと、バフンケからの言伝として、ピウスツキの持ち物を昨年コルサコフまで運んだが、イノガワが帰ってしまった後だったので、また持ち帰ったことを伝えている3。
 3通目の「神保」は、地質・鉱物学者で東京帝国大学理科大学鉱物学講座の教授にして日本地質学会会長をつとめる神保小虎(じんぼことら)のことである。この年の6月から10月までサハリンの北緯50度で日露両国による国境画定作業が行なわれたが、神保は日本側委員の一員としてこの作業に参加し、50度線地域の地質と地理を調査した4。彼はアイヌ語を巧みに話した。「沢」は漁業家・沢克己のことだろう。この人物は大阪・岸和田の出身で、同志社で学び、ロシア語と中国語ができた。1891-1892年頃ウラジオストクに渡航して、かの地の宮本商店の支配人として働き、その後は達者なロシア語を生かして露領漁業の開拓に従事し、日本人の漁業権の獲得やその施設経営に成果を収めた。函館に来たのは1897年頃のことである。沢の住む函館市青柳町の小路は「露探小路」と呼ばれたが、逆に彼は密かに日本軍部のために働き、国権主義者・内田良平と親密な間柄にあった5。また「ピウスツキの持ち物」とは、ガラスの食器、スウェーデン製の瓶数個、小さな桁網数個などである6。3通目の手紙はピウスツキの日本出立後に書かれたので、日本からガリツィアへ転送されたのだろう。
                 
 もう一人、千徳の手紙で言及された「イノガワ」、あるいはピウスツキの手紙のやり取り中に何度か登場する「T.イナカワ」がいる。ピウスツキは長崎のラッセルを通じてイナカワと連絡を取ろうとした。ポーランド系ロシア人革命家ニコライ・ラッセル、本名スジローフスキイはアメリカに亡命し、その後ハワイに帰化した。彼は、日本に送られたロシア・ポーランド俘虜兵士に革命思想を鼓吹する目的で、1905年5月30日に来日した。7月に神戸に移って、俘虜の慰安のために日本人正教徒が創刊した露文週刊紙『日本とロシア』の編集権を握り、革命思想を鼓吹する内容に変えていった。そのかたわらラッセルは各地の俘虜収容所を巡回し、ロシア・ポーランド兵と直接話し合った。1906年1月末に彼は長崎へ移る7。前年の第一次ロシア革命の挫折の後、多くのロシア人革命家がサハリンやウラジオストクから日本に亡命して、長崎がその拠点となった。ラッセルはかの地で同志を糾合し、露文新聞『ヴォーリャ』(自由)を創刊した。
 ピウスツキの1906年12月3日付のラッセル宛書簡にはこうある。
  「イナカワの手紙を同封します。この人物には私の推挙で『ヴォーリャ』を送っていたのですが、彼の現住所へ、もし彼が移っていなければ、サハリンへ転送してくださるようお願いします。[中略]イナカワに私の荷物をサハリンからあなたに届けるよう頼んであります。かの地にある写真機はペトローフスキイのもので、残りは本ですが、それを私は受け取りたいのです。」8
 一方ラッセルは1907年2月3日付のピウスツキ宛書簡にこう書いている。
  「イナカワ宛のあなたの手紙は、直ちにサハリンのコルサコフへ郵便で発送しましたが、かの地に彼がいるかどうかは分かりません。」9
 ピウスツキは二葉亭四迷(本名・長谷川辰之助)を通じてもイナカワと連絡を取ろうとした。ピウスツキの日本滞在中、二葉亭が最も近しい人間だったことはよく知られている。1908年3月9日付の二葉亭宛書簡にピウスツキはこう書いている。
  「友人のT・イナカワ(かれはあなたのかつての教え子の山口の友人です)の消息がわかりません。かれはサハリンと函館に住んでいました。幾度かかれに手紙を出しましたが、返事がありません。」10
 「山口」は山口為太郎(ためたろう)のことである。この人物は陸軍少尉になった後、東京外国語学校(第二次)露語科で二葉亭らからロシア語を学び、1900年に第一期生として卒業した。卒業後は外務通訳生としてコルサコフ領事館に勤務。その後芝罘(チーフー)在勤を経て、1906年からウラジオストク勤務となった11。山口はコルサコフ時代にピウスツキと交流があった。
 その後ようやくピウスツキはイナカワと連絡が取れた。ピウスツキのラッセル宛書簡(年月日不明)にはこうある。
  「イナカワが手紙をよこしまして、彼は函館にいます。すばらしい若者で、我々の解放運動に心から帰依しており、リュドミーラ・アレクサンドロヴナ・ヴォルケンシュテインの教え子です。彼の住所は、函館市青柳町44番地です。私は彼にサハリンから、ほとんど大部分が本である私の荷物を入手してくれるよう頼みました。もし彼があなたに送ってくれば、どこかの営業所を通じてオーストリアのロイド汽船か、個人的にこちらに来る人たちに託すか、あるいは義勇艦隊で発送してください。」12
 「リュドミーラ・アレクサンドロヴナ・ヴォルケンシュテイン」はハリコフ県知事の暗殺事件に加わったかどで逮捕され、ラドガ湖畔のシュリッセルブルグ要塞監獄の独房に13年にわたって禁固、次いで1897年にサハリンへ徒刑となった。1902年に刑期を終えてウラジオストクに移住。そして「血の日曜日」事件1周年の1906年1月23日にかの地でデモ行進が行われ、その先頭を歩いていた彼女は銃殺された。
                 
 さて「イナカワ」とは、函館の漁業家・稲川猛治(竹治)のことである。彼は1896年に創設された薩哈嗹(サガレン)島漁業組合の職員で13、ロシア語通訳だった。「函館市青柳町44番地」の所有者は樺太漁業家・村上祐兵で14、稲川は村上の養子になっていた。稲川は論文「時局破裂後の露都に於ける水産界の片影」の冒頭でこう自己紹介している。
  「元コルサコフに居住し、薩哈嗹島出稼漁業者の代表者たること数年、屢々日露漁業者の間に介在して内外交渉の任に當り、後年露人の租借漁場賃借のことに加はり営業をなしたりしが......」15
 薩哈嗹島漁業組合は1896年に「コルサコフ商店」という名の組合商店を開設し、これは主にロシア人を顧客として相当繁盛した。また邦人出漁者がコルサコフ港でロシア官憲から漁場免状の下付を受けるのに時間を要し、漁期を逸することが度々あったので、組合は私設外交を図り、稲川らが流暢なロシア語を活かしてロシア官憲の上層部と親密な関係を築いて、免状は速やかに下付されるようになった16。稲川は一時「数十名の徒刑殖民を雇役し」17たというから、あるいはその折にピウスツキやヴォルケンシュテインと出会い、革命思想に触れたのかもしれない18。前記『日本とロシア』紙をコルサコフから発注する、1905年11月23日付の「桟橋脇酒保」稲川の手紙が残っている19。

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薩哈嗹島漁業組合商店職員(左端が稲川)

 稲川はロシアの水産業界視察のために、1903年10月末に函館を出発して、ウラジオストク、モスクワ経由で翌年2月中旬、即ち日露戦争勃発直後にペテルブルグに到着した。彼は各所で歓迎され、ウラジーミル・ブラージュニコフやピョートル・シュミットと面談した。ブラージュニコフはハバロフスク総督府漁業主任官、シュミットはかつて朝鮮・サハリン島漁業調査会長をつとめた博物学者で、『サハリン島の漁業』(ペテルブルグ、1905年)の著書がある。稲川はこの二人とは既にコルサコフで面識があり、シュミットの東京の農商務省水産講習所訪問記を日本語に訳出している。ブラージュニコフの名はピウスツキの論文「サハリン島アイヌの経済状態概説」に、またシュミットの名は「サハリン島の先住民」にそれぞれ登場する。つまり、この二人はピウスツキと稲川共通の知人だったのである。稲川はその後ベルリン経由で帰国した20。
 ロシア科学アカデミー文書館ペテルブルグ支部所蔵のレフ・シュテルンベルグの個人フォンドに、稲川が1906年の正月前に函館の自宅からペテルブルグの「ワシーリエフスキイ島の大学付属民族博物館」宛に送った2通の絵葉書が残っている。後に〈北アジア民族学の泰斗〉と仰がれるシュテルンベルグは、「人民の意志」党復興のために活動して逮捕され、1889年にサハリンに送られた。ピウスツキが民族学の途に進む手助けをしたのは、他ならぬこの人物である。1901年にシュテルンベルグはペテルブルグの帝室科学アカデミー人類学・民族学博物館勤務となった。
 絵葉書の1通はシュテルンベルグ宛で、クリスマスと新年の祝辞を述べ、「機会がありましたら、私の住所をあなたの友人のピウスツキにお伝えください。」と書き添えている。もう1通はピウスツキ宛で、同じくクリスマスと新年の祝辞を述べ、「ニュースを書いてください。いかがお過ごしですか。[中略]弟さんによろしくお伝えください。」21と書いている。だがこちらの葉書は名宛人には届かなかった。稲川はこの時ピウスツキが日本にいることを知らなかったのである。ピウスツキは稲川からの連絡を待っていた。ピウスツキは自分の荷物をサハリンのアイ・コタンの家族のもとに残してきたので、稲川から家族の情報も得たかったのだろう。但し、ラッセルや二葉亭、シュテルンベルグがこのアイヌ人家族のことをどの程度把握していたのかは不明である。

 稲川猛治と沢克己についてご存知の情報や資料がありましたらご教示ください。
(電子メール:sawada@mail.saitama-u.ac.jp


1 暦は新暦で統一した。
2 葛西猛千代『樺太土人研究資料』私家版、1928年、5-6、17、126丁。田村将人「白浜における集住政策の意図と樺太アイヌの反応」『北海道開拓記念館研究紀要』35、2007年、94頁。バフンケが亡くなる2年前に、彼を含む3人のアイヌから聞き取り調査を行ってまとめたのが次の本である。樺太あいぬ族酋長ばふんけ・あといさらんで・しべけんにし説述、青山樹左郎編『極北の別天地』豊文社、1918年。
3 荻原眞子(おぎはらしんこ)(解説)、丹菊逸治(翻刻、訳注)「千徳太郎治のピウスツキ宛書簡―「ニシパ」へのキリル文字の手紙―」『千葉大学 ユーラシア言語文化論集』4、2001年、213-223頁。Сэнтоку Тародзи. Письма Брониславу Пилсудскому // Известия Института наследия Бронислава Пилсудского. № 4, 2000. С. 92-93.
4 志賀重昂「大役小志」『志賀重昂全集』第6巻、志賀重昂全集刊行会、1928年、75頁。『日本地質学会史 日本地質学会60周年記念』日本地質学会、1953年、31、39、45頁。
5 「露探! 売国奴!」『函館新聞』1904年2月10日。黒龍会編『東亜先覚志士記伝』下巻、原書房、1966年、798頁。南北海道史研究会編『函館・道南大事典』国書刊行会、1985年、477頁。
6 Письма Б.О. Пилсудского во Владивосток (1905-1909 гг.) // Рубеж: Тихоокеанский альманах, № 5, 2004. С. 364.
7 桧山真一「ニコライ・ラッセルの知られざる手紙」『ロシア語ロシア文学研究』21、1989年、80-82、86頁。
8 Пилсудский, Б.О. Письма Н.К. Судзиловскому (Русселю) // Известия Института наследия Бронислава Пилсудского. № 3, 1999. С. 28, 29.
9 Руссель, Н. (Судзиловский, Н.К.) Письма Б.О. Пилсудскому (1906-1907 гг.) // Известия Института наследия Бронислава Пилсудского. № 3. С. 38.
10 『二葉亭四迷全集』別巻、筑摩書房、1993年、162-163頁。
11 外務大臣官房人事課編纂『外務省年鑑 大正2年』1913年、313-314頁。『東京外国語学校一覧 従大正4年至大正5年』東京外国語学校、1915年、105頁。「山口副領事略歴」『浦潮日報』1917年12月28日、2面。佐藤勇編『東京外語ロシヤ会会員名簿』東京外語ロシヤ会、1952年、2頁。G.A. Lensen. Japanese Diplomatic and Consular Officials in Russia: A Handbook of Japanese Representatives in Russia from 1874 to 1968. Tokyo, Sophia University, 1968, pp. 61, 91, 210; 野中正孝『東京外国語学校史 外国語を学んだ人たち』不二出版、2008年、422、426、449-450頁。
12 Пилсудский. Письма Н. К. Судзиловскому (Русселю). С. 33.
13 加藤強編『樺太と漁業』樺太定置漁業水産組合、1931年、179頁。
14 宮城勇『函館市街明細図附録 地所所有主明細鑑完』魁文舎、1903年、40頁。
15 稲川竹治「時局破裂後の露都に於ける水産界の片影」『大日本水産会報』285、1906年5月、3頁。
16 加藤、前掲書、190-194頁。
17 稲川、前掲論文、3頁。
18 ヴォルケンシュテインの以下の論文は、北日本とサハリンの漁場で数年間労働者として働いたインテリの日本人からの聞き書きによって日本の漁場の労働者の悲惨な状態を描き出したものだが、「インテリの日本人」とは稲川である可能性が高い。Л. В. Японские рабочие на рыбных промыслах северной Японии и южного Сахалина // Русское богатство, 1901, № 8. С. 88-108.
19 社会史国際研究所所蔵社会革命党文書マイクロフィルム 519-7、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター所蔵。
20 稲川、前掲論文、3-11頁。稲川猛訳「露国水産学者の我水産講習所観」『大日本水産会報』238、1902年5月、30-34頁。同239号、1902年6月、26-30頁。稲川猛訳「日本輸入の露国産魚類」『大日本水産会報』245、1903年1月、10頁。
21 Дударец, Г.И. Эпистолярное наследие узников сахалинской каторги (по письмам Л.Я. Штернберга, И.П. Ювачева и других политических ссыльных) // Известия Института наследия Бронислава Пилсудского. № 8, 2004. С. 110.

「会報」No.40 2019.6.23 会員報告