函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

石川政治「ソ連捕虜通信」から

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

 函館に居住して丸3年が経つが、市立函館図書館所蔵資料は膨大であり、ロシア関係資料に限ってもほんの一部を閲覧したに過ぎない。今回ご紹介する「ソ連捕虜通信」は、市史編さん室にさりげなく置かれていた市立函館図書館図書目録の索引をぱらぱらめくっていた時、そのタイトルが眼に飛び込んできたもので、まったくの偶然から閲覧することになった。
 これは、美しい赤色の表紙をした24頁から成る豆本(7㎝×5㎝)で、タバコ用にと現地の子供からもらった紙が帯として使われている。捕虜通信という名前から、質の悪い新聞紙に印刷されたものを想像していただけに、愛らしい豆本が油紙に大切に包まれて出てきたのにはたいへん驚かされた。
 さて、捕虜通信の基になっているのは、捕虜用郵便葉書で、平壌第47部隊で終戦となり、シベリアに捕虜として抑留された石川政治氏が、昭和22年夏以降過ごしたボルガ川上流のカマ川のほとりにあるエラブガ(ソルジェニーツィン著「ガン病棟」の舞台でもある)の第97収容所から函館に住む両親に宛てたものである。この5つの通信を、10年後の昭和30年12月、「ソ連から引揚船大成丸 舞鶴入港のラジオニュースをききつつ」、ガリ版刷りで再構成したものが「ソ連捕虜通信」で、奥付によると発行日は翌昭和31年4月29日である。
 内容は、ラーゲリ(収容所)での生活状況、ラーゲリで迎えた正月の食事や娯楽、物価、帰国状況などが詳しく書かれている。
 帰国後、石川氏自身が分析しているように、葉書はおよそ4~5ヶ月かかって父母の元に届いた。葉書をよく見てみると、この郵便物がウラジオストクの郵便局経由で日本に送られたことがわかる。ソ連全土から、様々な思いを乗せてシベリア抑留者の故郷の肉親に宛てられた捕虜通信の集積所が、ウラジオストクの鉄道駅と道路を挟んで向かい側に建っているあの郵便局であったとは何とも感慨深い。
 ところで、著者の石川政治氏は、大正12年に埼玉県で生まれ、現在の北海道大学水産学部の前身である函館高等水産学校を卒業し、北海道庁経済部水産課に勤務して間もなく、平壌で入隊、終戦後ソ連に抑留され、昭和23年8月に帰還した。帰還後、市立函館博物館に勤務し、昭和44年に3代目館長となった。
 「ソ連捕虜通信」は、70部刊行されたが、昭和31年5月8日付『北海道新聞』によると、かつてエラブガ収容所で労苦をともにした人々のグループ「エラ草会」の会員たちに配布したところ、当時の思い出を伝える小冊子として非常に喜ばれたそうである。
 この資料を補足する形で紹介したいのが、平成7年に石川氏が亡くなられた後、現在埼玉県にお住まいの夫人が回想録をまとめ、7回忌に当たる平成13年に発行された『ヒザラ貝の涙雫―石川政治回想録―』(非売品)である。
 先の捕虜通信は、「悲惨な食生活やひどい真相も書きたかったが、さしひかえて出した」ものだったが、帰還後、シベリアでの収容所生活について回想録をまとめている。散逸したものも少なくないようだが、現存するものは『ヒザラ貝の涙雫』に収められている。テーマは44項目に上り、うち10項目は食べ物と関連していたことからも、ラーゲリの厳しい生活環境が偲ばれる。
 また、『ヒザラ貝の涙雫』の巻頭には、昭和31年4月27日に五稜郭公園で戦友会が開かれた時の案内状、抑留中に描いたという絵6点、収容所での唯一の娯楽で日曜日は朝から晩までやっていたというマージャンのパイ、捕虜用郵便葉書のオリジナル、そしてソ連から帰還の際に持ち帰ったという黒パンが写真で紹介されているため、「ソ連捕虜通信」と併せて見てみると、一層興味深い。

25-02.jpg
捕虜通信より

「会報」No.25 2004.6.24 市立函館図書館所蔵資料紹介