函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

国際交流雑感

2012年4月22日 Posted in 会報

阿部義人

 私が初めて海外旅行を経験したのは、1991年10月の「ウラジオストク市民交流団」でした。初めて観るロシア・軍港都市ウラジオストクの街並みは函館と類似点が多く、歴史を感じさせるものでした。丁度、「グラスノスチ」が叫ばれ、新たな国創りの胎動が始まりつつありました。この訪問を通して、当選1期目の議員が中心になり、函館市への通訳招聘を実現することができましたし、1995年には私が関わっている社会人のバレーボールチームの交流派遣を実現することができました。その翌年には、ウラジオストク市からバレーボールチームが来函し、選手同士の交流は時間を忘れて深夜に及び、官製の交流とはひと味違った交流が繰り広げられました。
 2度目は、1992年7月に当時の社会党青年議員団会議の一員として、自治体議員の交流の糸口を見出すことを目的としてのソウル市の訪問でした。韓国国内の日本に対する感情も、現在とは大きく違い、相当厳しいものがありましたが、率直に過去の悲しい行為を反省し謝罪するところから話がはじまり、自治体首長・議員の選挙制度や報酬の話に多くの時間を費やしました。(当時ソウル市以外は任命制であり、地方選挙実施が大統領選挙の公約でした。)余談ですが、当時野にあった金大中氏の主宰する民主党にも立ち寄り韓国の改革に向けた息吹を感じることができました。
 3度目は、1995年に北海道平和運動センター主催の友好訪中団への参加でした。この訪中では2日目に交通事故が発生し、団員2名が不幸にも死亡し、事故処理で数日間上海市に滞在することとなり、素早い事故処理と中国国内の人脈を垣間見ることができました。そして、その翌年には遺族と共に現地で1周忌を営むとともに、前年訪問すべき都市を訪問することができました。特に南京では、「虐殺記念館」(現地では「屠殺記念館」)を訪れることができ、日本の忌まわしい過去に接し、胸の痛む思いをしました。
 5度目は、昨年、函館市の姉妹都市であるオーストラリアのレークマコーリー市をスポーツ交流団の一員として訪問しました。250名を越える老若男女の一団による訪問は、手作りの歓迎パーティや種目別の交流とすべてアットホームな雰囲気で心温まるものでした。
 6度目は、今年8月、北海道日中青少年交流協会の第9次訪中団の一員として青島・西安・桂林を訪問することができました。特に今年は、これまでの交流の集大成として、日中双方が浄財を集め、青島青少年活動営地(日本の国立青年の家に該当する)の敷地内に友好公園を建設することができました。また、今後は相互派遣により交流活動の発展を目指すことも確認できました。来年は、青島市から30名の青少年・指導者が函館港祭り開催期間中に来函することとなりました。
 このような私の経験ですが、議会でも何度か国際交流の必要性を訴えてきました。それは、国レベルの外交関係と違って、自治体の特色を生かして様々な交流活動を繰り広げることによって、人的な繋がりが広がり、経済面でのチャンスも生まれることもあると考えるからです。特に、自国以外の文化や歴史に接することは、未来を担う子どもたちにとっても重要な教育の一環と思います。
 こうした角度から考えれば、国際交流にはそれぞれドラマとシナリオが必要と思います。
 函館市はカナダのハリファックス市、オーストラリアのレークマコーリー市、ロシアのウラジオストク市・ユジノサハリンスク市と姉妹都市提携をしていますが、どの分野での交流を主体にするのか明確でありません。つまり、ドラマもシナリオもないと言わざるを得ません。また、交流の主体を担うのは官製ではなく自発的な市民の手によることも必要です。それを行政がサポートするという体制ができてはじめて交流の端緒につけるのではないでしょうか。
 ロシアとの関係では、経済面でのサハリンⅡ関連が注目を集めていますが、これも国際線を有効に活用した多方面にわたるユジノサハリンスク市との交流が活発化してこそ実現できるものと思います。一方、ウラジオストク市との交流は、航空路開設をめざす姉妹都市提携から大きく環境が変化してきています。
 日ロ交流史研究会による極東歴史研究所との研究交流活動は、ウラジオストク市との交流を実質的に担っているものと思いますし、ロシア極東大学函館校を交えた研究活動は、将来の交流活動のあり方として貴重なものと思います。継続は力なり。そのためにも研究交流のあり方は会員の関心に応えることが大切でしょう。私も微力ながら一会員として努力していきたいと考えています。

「会報」No.10 1998.12.8