「日露修好150周年回航事業」に参加して
岸甫一
回航事業
2005年は日魯通好条約が調印され、日露間に国交が樹立されてから150周年というという年でした。これを記念して日露の次世代を担う青年150名を乗せて6月24日~7月5日、函館・下田など日露交流ゆかりの地を訪れる回航事業(日露青年交流委員会主催)が実施されました。リーダーである内田一彦外務省ロシア交流室長によれば、「この回航事業の目的は、日本とロシアの青年が、日露交流の歴史を深く知ることにより、日露関係の重要性を認識すること、船という閉ざされた空間の中で約2週間の間、生活を共にすることにより、密度の濃い交流を体験することにあった」。「ルーシー号」という富山伏木港とウラジオストクを結ぶロシアの定期航路船に乗船したのは、日本からはロシアについて学んでいる学生、伝統文化に携わる学生や青年、日露ゆかりの地の関係者など50名、ロシアからはおもに極東を中心に日本について学んでいる学生、文化芸能関係者、青年政策関係者、若手ジャーナリストなど100名。
セミナー資料の準備
私は、本研究会会員であり、市国際課職員の倉田さんを通して、ウラジオストクから函館に向かう船上のセミナー「函館に関わる日露交流史」の講師依頼があり、不安はありましたが、この機会に自分の研究視野も広げられると思い、蛮勇を振るって引き受けることにしました。4月~5月はセミナー資料作成のため、移転による一時閉館間際の市立函館図書館に毎週のように土日に通い、購入間もないデジタルカメラで画像資料を撮影しました。また、清水恵旧蔵書を清水正司さんからお借りできたことも資料の作成上、大変助かりました。
6月24日に日本人参加者は富山伏木港を出て、26日にウラジオストク着。その地でロシア人参加者と合流。私は勤務の都合で26日午後、飛行機で新潟空港からウラジオストク空港に到着しました。
日露学生会議
翌27日午前は、極東大学で日露学生会議。「日露交流150年、将来への提言」というテーマで日露学生の数名がスピーチをおこないました。ここでは船上の夜、一緒にビールを飲んだ東京外国語大学ロシア語専攻3年・福田祥君の、日露間の壁と可能性を過去にとらわれず率直に主張したスピーチの一部を紹介します。
「現在、日本ではロシアに関する情報が絶対的に不足していると思います。特に私たちくらいの年齢の若者達は、大学などでロシアについて勉強している人達を除いて、まったくと言っていいほどロシアについて知りません。また、ロシアのことについて報じるメディアは少なく、たとえ報じたとしてもほとんど政治的な話題ばかりです。
このような状況が蔓延しているということは、日本人とロシア人の間に立ちはだかる障壁であると思いますし、そのためにお互いが正しい理解に達することができなくなってしまうのであればそれは大変な損をすることになると思うのです。
私の友達の多くは、私がロシア語を学んでいることを知るととても驚きます。しかしそのあと、大体がロシアについて色々と質問をしてきます。もちろん私は知っている範囲でしか答えられないのですが、それでも興味津々な様子で話しを聞いてくれます。つまり、ロシアに関して興味を抱いてくれる人は確かにいるのです。きっかけさえあれば、ロシアと日本が学生・市民のレベルでより近づくことも可能だと思うのです。
そのきっかけの一つとして、私達の担っている役割は重要です。この事業を通して出来た友達や、手にした発見や感動のことは、必ずや周囲の人々にも伝えたいですし、そうしなくてはならないと感じています」。
その後、会場の参加者も含めて活発な自由討論を行ったが、筆者は残念ながら、この学生会議には出席できませんでした(ウラジオストクの日本センターのオリガさん、3年前にお世話になったドミトリーさんと、つかの間の面会のため)。青年たちの議論は「領土問題は一刻も早く解決して日露間の交流を飛躍的に促進すべきではないか、北方領土に両国の国民が共生することは可能か、ステレオタイプから脱却したイメージを日露双方が形成すべきではないか、文化交流を進めることが相互理解の早道ではないか」(内田)に集約されるという。
船上セミナー
28日10時、いよいよ私の出番。船上セミナー「函館に関わる日露交流史」の時間。前夜、夕食を挟んでロシア語通訳の鍋谷さんと綿密に打合せをしたつもりでも緊張が走りました。講義内容は「Ⅰ箱館・蝦夷地とロシア人の出会い、Ⅱ箱館開港とロシアとの交流、Ⅲ日露交流全盛期の函館と露領(北洋)漁業」の函館で日露交流が活発であった3つの時期に注目し、アイヌの役割・地図の交換・ロシア語学習・翻訳・ロシア語入門書作成・ニコライの日本研究・ロシア語版函館案内・ロシア語版函館新聞・露領漁業での亡命ロシア人や日本人通訳の活躍など、経済的・文化的には函館では日露両国民が協力関係にあった事実を具体的に紹介しました。正味1時間程の話はアッという間に終わってしまいましたが、嬉しことに終了後、ロシア側のバルカノフ・セルゲイ団長から「自分も歴史の教師であり、興味深く聞いた」との謝辞をいただきました。同セミナー資料は函館日ロ交流史研究会のHPの「函館から見た日露交流史」で見ることができます。そのほか、船上では文化交流も活発に行い、ロシア人参加者は茶道、折り紙、能、書道、剣道などを体験しました。
船上セミナー
函館での交流
29日はロシア極東総合国立大学函館校の学生の案内で散策したり、ロシア人墓地で慰霊祭を行いました。私は午後の函館市長への表敬に参加し、夜は西波止場に停泊中の「ルーシー号」の船上レセプションに出席しました。
船上から函館港に下りるとき、上手な日本語で話しかけてきたイルクーツク国立言語大学2年のマリア・マリツェヴァさんは、日本の歴史に興味があるのだがイルクーツクには日本の歴史にかんする適当な日本語の本が無いというので、勤務校で使用している「日本史」の余っている過年度教科書1冊をプレゼントしたところ大変喜び、船上レセプションで返礼にイルクーツクの絵はがきとバッジをいただきました。彼女はこの回航事業から帰国して、「出発前には、日本の文化に触れる楽しみとともに、日本の学生とうまく会話できるか、共通点を見出すことができるか大変心配でした。しかし、私たちの間には異なる点より、一致する点がいかに多いかわかりました。今では、私たちはメールの交換をしており、今後ともこの世界でお互いを見失わないよう希望しています。......この航海の間、私はほとんど眠りませんでした。私たちにとって毎分、毎秒が貴重だったからです」と述べています。
マリツェヴァさんに「日本史」教科書をプレゼント
"将来への提言"
私は函館で一行と別れたが、学生たちは自らのイニシアティブで、その後の航海の途次においても学生同士で議論を継続し、最終寄港地である下田に到着した7月2日、日露学生による"将来への提言"を発表しました。内田ロシア交流室長は「(ロシア人青年は)日本に対しても固定観念を持っていません。青年間の交流が日露関係を動かす原動力となるかもしれない、という印象をもちました」と述べています。発表された"将来への提言"の中の「北方領土問題の理解を深めるため、この問題に関する共通認識を見出すことを目指します」の一文は、学生たちが船上で議論の末まとめた草案では「領土問題の解決に向け、共通認識を見出すことに務めます。」であった。この興味深い修正の経緯については、回航事業に同行した佐藤陽介『北海道新聞』記者による記事【次世代たちの提言】をぜひ読んでいただきたい。日露学生による"将来への提言"、『北海道新聞』の記事【次世代たちの提言】は本研究会のHPの「函館から見た日露交流史」に掲載されています。
終わりに
短期間とはいえ日露の次世代を担う青年と生活を共にできたことは、私にとって当初の目的であった「研究視野を広げる」のみならず、日露交流全体のなかで奥行きの深い立場に立たされていたような気がしています。"将来への提言"をまとめ上げて、立派に使節団の役割を果たした日露青年の今後の活躍を大いに期待すると同時に、本研究会や終始お世話になった岩城さん、菅原さんをはじめ日露青年交流センターの皆様から日露交流史の研究をさらに深める契機を与えて頂いたことに改めて感謝申し上げます。
「会報」No.28 2006.5.1 2005年度第2回研究会報告要旨
→船上セミナー「函館に関わる日露交流史」の資料は、こちら(日露青年交流センターへのリンク)をクリックしてください。