函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

東洋を研究する後輩へ送るいくつかのアドバイス

2012年4月24日 Posted in 会報

F.B.デルカーチ(国立極東総合大学函館校)

 「日本人に送りたいメッセージ」といわれて、やっと悟った。実際に、そういうメッセージ等は一切ないということに。それより、日本からロシア人に言いたいことがある... 
   
若き友よ、よく聞け。
  この島国で何を探すか、行く前に考えるがよい。もし「なぜ」とか「何のために」という質問をする癖があれば、それは家に残してこい。もちろん日本語にもその言葉はあるが、日常生活では使われていない。その疑問を持たず、積極的に働いた人が経済の奇跡を起こし、そして国を今の不景気に導いた。ロシアではこの疑問が好きでなかった人も、日本にいる間に必ず浮かんでくる。
 日本人の心の秘密はなんだろうと聞く、お前だけに教えてあげよう。神と悪魔のぶつかった頭の痛みでできたロシア人と違って、日本人の精神はタマゴッチの醤油煮だろう。ロシアの大昔に消えたアニミズムという原始的崇拝が、日本のモダンな社会に生き続けている。
 テレビのCMを見れば、日本人にとって「心」というのは、人間自体よりも、日本茶から子供のパンパースに至るまで、物にあるという感じをどうしても、否めない。
 彼らは「タダシイ」、だから、無駄に腹をたてるな。この国には鏡に映ったおまえがいる。「心ってどこ」と自分自身に聞けば、その昔から育てられた癖以外に、その場所があるものか。愚かな我々人間は、外国に「心」を探し続けるのをあきらめて、実際にただ慣れたものを食べたいだけ。柔軟性をいくらもっていても、結局自分の立場を守る本能が勝つ。それによって、「平和をめぐる戦争」が起こり続ける。人間はありのままの世界を受け入れるまで力が足りず、どうしても相手に条件を言う。ここで、多くの人に「戦争は政治家が始める」といわれるだろう。信じるな。戦争の本当の理由は俗人の無関心にある。
 人と議論するな。日本食を黙って食べて、褒めるとよい。「日本の食べ物はどうですか」と聞く日本人は実際におまえの意見を聞きたいわけではない。儀式第一。人間社会では「挨拶的に」生きれば栄える。孤独に...
 アジアに生まれ育ったおまえは、自分がアジア人といえば、日本ではエキゾチズムに狂った変な外人にしか思われないだろう。ここで、「れんげはスプーン」と、いくら言っても信じる者が多くはない。自分の国の独自性にあまりにこだわる日本人は、おまえの国は違うと当たり前に考え、むしろ似たものがあれば驚くだろう。
 日本文化の色々なものを習おうとした時に、墨絵であっても、武道であっても、それに基本的なコンセプトがなく、従うべき規則しかない。極端に言えば、日本文化には理解することがなく、覚えるだけでよい。しかし、覚えて従えば、理解はある日、一瞬にくる。ここでもっとも大事な要因は時間だ。
 キリスト教文化の基礎の基礎は、「要石」の観念だ。だから、物の内部、本質から入る習慣があって、日本的な「形から入る」という表現さえもない。だって、ロシア語で「分かる」の語源は「入り込む」だが、日本語は「解く」だよ。恐らく、日本が受け入れた外国のものは(中国のものであっても)、形にしか存在していないらしい。
 驚くことにロシア人は、自分自身は「仏教徒」と思う日本人よりも、ものごとの無常をよく感じる。その観念は日本文化の中に入ったが、限定された範囲だけにしかとらえなかった。やっぱり、人はどうしてもきれいな絵しか見たくない。四季の変化に現れる無常ならいいが、全てを滅ぼす宇宙の絶対的な法則は、どうだろう。日本人は、逆に地上に「永遠の命」を手に入れようと努力し続ける感じがする。時々、あきらめの悪い人たちのことがうらやましくなる。しかし、様々な技術の進歩によって、人生を延ばした日本社会の深刻な問題を見ると、経済の荒れているロシアと、どちらの立場がいいのだろう、と思ってしまう。
 現代の人間は夢中で様々なゲームをやっている。「平和を守ろう」と叫ぶ我々は、看板をたてたり、世界に手紙を送ったりしながら、とても満足しているらしい。でも、あちこちで戦争が続き、また起きようとする。「自然を滅ぼすな」という我々は、大事な問題を解決しようと思っている。しかし、自然を滅ぼすのは不可能だとは気づいていない。滅ぼせるのは、我々が生きている具体的な環境だけだ。無限な自然は、人間が消えても、それに気づかないだろう。自己中心的な我々は、ただ自分の小ささを考えればどうだろう。
 そして、一番大事なこと。以上に書かれたナンセンスを早く忘れたほうが、身のためになるということである。

「会報」No.11 1999.4.1