函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

Z・モルグン報告「日本兵の墓地調査と鎭魂集の発行」を聞いて

2012年4月24日 Posted in 会報

佐藤一成

 私も約2年間、シベリアに抑留された。終戦後から1947年(昭和22)7月下旬までである。シベリアの捕虜としては、一番短い期間であったろう。場所はイルクーツク市郊外で、第6収容所という収容所に入れられ、主力は近くの煉瓦工場で働き、一部はハルビン駅の石炭降ろし、街の水道工事、煉瓦積み、道路補修等の労働に従事した。
 1946年12月下旬、シベリア鉄道沿線でイルクーツクより西方のマリタという処に移動し、森林(いわゆるタイガー)に入り伐採作業をおこなった。直径1メートル以上の大木(主として松類)を2人引きの鋸で切り倒し、一部はベニヤ板の材料に、一部は薪にした。ここで初めて幕舎生活を経験したが、まさに冷凍庫の中の生活であった。
 翌1947年3月末、部隊はナホトカへ。4月初旬、祖国日本へ帰還した。全員無事、死者は1名もなかった。ただし、私は通訳であった為に7月下旬までナホトカに残され、日本兵帰還の手伝いをさせられた。7月27日、舞鶴港に上陸した。船から見た日本の姿の美しさは未だに忘れられない。
 モルグンさんの報告を聞きながら思った。ただ帰りたいの一念で働き続けたのに、その想いかなわずして、異国の丘に埋められた我が戦友の、この世の不条理に対する叫びが、今、地の底から聞こえてくるような想いがあった。
 60万からの日本軍将兵等が捕虜としてソ連に連れ去られ、そのうち死亡した者、将兵等合計6万1217名だという(ソ連「軍事歴史雑誌」1991年第4号 S・I・クズネソフ『シベリアの日本人捕虜たち』<岡田安彦訳>1999年9月刊、集英社)。今回のモルグンさんの調査・報告はその一部であると思われるが、それが一沿海州地方のものであるにせよ、我々日本人にとって感謝しなければならないだろう。
 モルグンさんがこのことに手を染めたのは、幼い頃から近くに居た大人達の中に、昔、日本人の捕虜が居て、ウラジオストクの街の色々な建物を建て、道路を補修したりして、働いてくれたということを聞いたことによるという。しかし、そのことを聞いた人々総てが日本人捕虜の実態解明に手を貸してくれているわけではないと思う。モルグンさんのお仕事が歴史研究であることも関係しているのかも知れないが、彼女の心の中にあるヒューマニズムの強い流れが、国境を越えた調査・研究活動を支えているのだろう。同じように、ロシア平和基金沿海州地方支部理事長ゴーリヤさん、更にこの墓地調査等の仕事に関わって、ロシア全土で草の根的に活動を展開して下さっている皆さんにもいえることであろう。厚く感謝申し上げたい。
 「鎭魂集」を作るにしても先立つものが無い。墓地調査の活動にしても政府からの財政援助を得るのが非常に困難になって来ているという現状の中で、「今日この活動を続けているということは、これは是非やり遂げなければならないという情熱に燃えた個人的努力の賜であると思います。私もこうした活動を成し遂げることを通して、私自身の研究を意味あるものにしていく決意を新たにしております。」と報告を終える際にいわれたモルグンさんの言葉に深い感動を覚えた。

「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル