函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

ガーリャさんの東京・横浜滞在を共にして

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

出迎え
 モスクワからのSU583便は2003年12月4日定刻10時55分に成田空港に着いた。2日前の電話連絡が最後だったので、実際に姿を見せるまでは気が気ではない。ところが、ガーリャさんが到着ロビーに現れたのはかなり最後の方で11時40分だった。ともかく「元気で無事到着」にほっとして、2年余ぶりの再会を喜び合った。
 10歳の時日本を離れて60年ぶりに全く違った日本にやって来たのだから、ガーリャ(敬称を略す)の思いはどうだったのだろう。私には、その思いに共鳴するゆとり、気遣いがたりなかったかも知れない。今振り返ると、「ガーリャさん招待」の道のりは結構たいへんだったからともいえよう。日ロ交流史研究会の10周年記念シンポジュウムへの異例の招待がほぼ決まったのが5月、早速電話をかけてまず健康状態を確かめると、問題があったので(白内障だった)、早速の治療をお願いし、次の電話では子ども時代の函館、東京などの生活を隅々まで思い出して、お兄さんたちにも伺っておいてほしい、また、ありったけの写真を探し出してほしいと頼み、追って手紙で、「報告文」作成のお願いと共にたくさんの柱とすべき項目を書き送った。眼の治療が終わった8月初旬にはパスポート申請をしていただき、函館の事務局では清水さんを中心に倉田さんの協力で一番難関のビザ取得のための「招待状」作成にとりかかった。日ロ間では航空券があっても未だに個人が自由に旅行することはできない。私たちの研究会が財政基盤の弱い民間組織であるところが招待者として障壁になるのでは、と懸念されたが、案外すんなり通ったのは嬉しかった。最後に航空券を日本の会社で購入し、ペテルブルグの提携会社で受け取れるように手配して準備が完了したのは11月下旬だった。つまり、たっぷり半年間皆で努力した結果である。
 リムジンバスで品川へ移動し、ホテルへチェックインした後しばし休憩してから遅い昼食をとる。東京ではわずか2日ほどしかないが、まず最初に一番大事な思い出のニコライ堂を訪ねることにした。ガーリャが函館の小学校から転校して学んだプーシキン初等学校は、当時このニコライ堂の敷地内にあったのである。

ニコライ堂(東京復活大聖堂)
 御茶ノ水駅に着いた頃には、冬の日は陰り始めていた。通用門から中へ入れたが、懸念したように大聖堂の扉は開かなかった。教会の事務所に伺って事情を話していると、奥のドアが開いてニコライ司祭が出て来られ、「ペテルブルクからいらしたのですか?特別に開けてさしあげましょう」と案内してくださった。こうして、ガーリャは大聖堂の中でしばし祈りを捧げ、プーシキン学校時代に思いを馳せることができたのである。
 私たちはプーシキン初等学校のあった場所を確かめることにした。正門を出て右に折れてぐるりと大聖堂を回って、正門前の通りと平行に走っている通りに出た。この通りには普通のビルがいくつも建ち並んでいるが、角から二つ目のビルの辺りにプーシキン学校の建物があったそうである。学校の出入り口はこの裏通りにあったことになるが、「幅広い美しい階段」が学校から教会の中庭に設置されていたのである。

銀座
 私たちは大仕事を終えた気分で銀座へ向かった。午後6時過ぎの銀座はたいへんな賑わいだった。人波に揉まれつつ三越まで「銀ぶら」し、くたびれたので、「カフェ・不二屋」に腰をおろす。ガーリャが注文したのは何と「あんみつ」だった。函館時代にお母さんが年に1、2回作ってくれた思い出の味だという。驚いたことに、ガーリャには銀座もお馴染みといってよい場所だったのである。プーシキン学校に居た頃、お父さんが上京すると必ず銀座に連れてきてくれて、文房具を買ってくれたり、レストランで食事をさせてくれたそうである。亡命ロシア人は概して生活レベルが高かったのだろうか...
 8時過ぎに品川に戻った私たちは夕食は軽く済ますことになり、ガーリャの希望でお蕎麦屋さんに入った。そしてガーリャはここでも60余年ぶりの蕎麦つゆにいたく満足したのである。

セント・モア(サン・モール)学院
 2日目は横浜探索の日となった。プーシキン学校の後転校したセント・モア学院とその頃住んでいた家を訪ねたいのである。私は事前に調査できなかったので、横浜市と神奈川県の教育委員会に電話して尋ねてみた。しかし、なかなか分からず、県庁の学事振興課というセクションでようやく兄弟校だったセント・ジョセフ学院の消息が分かり、そこでセント・モア学院の電話番号を教えていただき、横浜へ向かった。
 学校は意外に分かりにくく、ずいぶん歩いてやっとたどり着いた。ガーリャは「セント・モール」と発音するので、聖トマス・モアの名を冠していると思っていたが、現在校名はカタカナでは「サン・モール・インターナショナル・スクール」とフランス語読みになっていた。シスター・カーメル理事長が私たちに会ってくださったが、学院はアイルランドとフランス共同のカトリック系ミッションスクールで、戦後は1948年に再開された。生徒名簿は残念ながら戦前の分は消失したそうである。最近の名簿からロシア人らしい名前を2、3拾い上げてくださったが、全く馴染みのないものだった。ガーリャの時代との一番大きな違いは、学校が現在男女共学なっていることで、幼稚園を有する1年から12年までの一貫校で多様な国籍の生徒が集まっているが、日本人は「帰国子女」が多いそうである。カーメル理事長は校内も隈無く丁寧に案内してくださった。ガーリャはとても満足し、得意げな様子だった。数年前サンフランシスコからカーチャ・パンチューヒナ(注)が横浜を訪れて、やはりセント・モア学院を捜したが、見つけられずに帰ったと聞いていたからである。

鷺山とイリイン家
 次にガーリャたちが住んでいた「鷺山の家」を捜すことにした。学校を出ると、昔ガーリャたちが歩いて通学した道をたどることになったが、ガーリャの記憶が不確かな上、周囲の様子も変化しているので、雲をつかむような感じだった。大分歩いて、何とか高台の「鷺山」にたどり着いたが、岡の上はかなり広くて細い道が何本か通っている。何軒か「この家だと思う」という場所立ったが、確定できない。向かいにイリイン家があれば間違いないということになり、向かいの階段を上ってみた。そして奇蹟が起こったのである。私たちの後から上がってきた女性に尋ねると、その方がイリイン家の長男ヴィターリさん(故人)の2番目の奥様であることが分かり、ガーリャたちの家も確認できたのである。奥様は私たちを招じ入れてもてなして下さり、イリイン家の様々な物語を語ってくださった。ガーリャは天国のパパが引き合わせてくれたと感動しきりだったが、私にとっても感銘深い横浜の1日となった。
 3日目は「来日ロシア人研究会」で報告と交流の1日を過ごし、4日目は清水・倉田さんが合流して午前中皇居周辺を散策し、午後いよいよ函館へと旅立ったのである。

注)カーチャ・パンチューヒナは、戦前釧路で洋服屋をやっていたパンチューヒンさんの娘さん。ガーリャの姉ターニャの同級生でプーシキン初等学校で学んでいた。戦後アメリカに移住したが、1997年ペテルブルグを訪れ、皆に再会した。現在の姓はドウダーエフ。

「会報」No.25 2004.6.24