函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

函館とロシア料理

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 函館では、ロシア料理がはやった時代は大きく2度あったように見受けられる。最初は幕末から明治初期、2度目は大正期から昭和初期にかけてである。
 函館、すなわち日本に初めてロシア人が居留したのは、1858(安政5)年のロシア領事団である。同時に函館にはロシア海軍の軍艦も頻繁に出入りし、乗員たちが上陸した。料理の具体的な内容は別として、彼らが日常領事館や軍艦内で食べていた料理を一応ロシア料理とすれば、函館における、すなわち日本におけるロシア料理は、ここに始まったわけである。彼らと接触を持つ日本人がまずそれを体験したものと想像される。
 1859年に来函したイギリス領事ホジソンは、奉行や各国領事とロシア海軍士官等を招いて正餐会を開いた。正餐は「ロシア風」にふるまわれたと書いてあるのがおもしろい。メニューをあげてみると、スープ、鮭の蒸し焼き、野菜つきの羊肉コートレット、脂身を刺した鶏の胸肉、ケイパーソースのかかった羊の足、野生の鴨と鵞鳥のあぶり肉、タルト、クリーム、コーヒー。それにシャンペンやキュラソー酒等飲み物も供されたが、日本人たちが非常によく食べて飲んだのには、ホジソンも驚いたようだ(多田実訳『ホジソン長崎函館滞在記』)。
 1863年前後にオープンした「ロシアホテル」は、函館で第一号、すなわち日本で最初のロシア料理店でもあったといえよう。場所は当時「大町居留地」と呼ばれた埋立地で、現在は相馬倉庫が建っているあたりである。ロシア人ピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフと妻が経営するこのホテルの食堂には、コックとして複数の日本人が雇われていた。彼らは当然ロシア料理のレシピを学んだことであろう。また、ここではパンも焼かれたが、その技術を覚えた日本人従業員が後にパン屋を開業している事実もある(「函館新聞」明治12年9月7日付け)。
 それから経営者の妻ソフィヤは今の海岸町のあたりに、約3500坪の土地を借りて牧場にしていたらしい。牛や豚を飼って、牛乳や豚肉などの食材を自ら調達していたのである。当時の居留外国人たちも、彼女から肉や牛乳を買っていたそうだ(A.H.バウマン「A.ゲルトナーの日記」『地域史研究はこだて』25号)。
 ホテルの主人は1871年に東京での布教を開始するニコライ神父のために上京し、その年、その地で亡くなった(グザーノフ著、左近毅訳『ロシアのサムライ』)。残された妻ソフィヤと番頭のパラウーチンが、日本人スタッフとともにその後もホテルを切り盛りし、1879(明治12)年まで経営が続けられた。20年弱にわたるこのホテルの存在は、函館に少なからぬ影響を残したものと思われる。
 五島軒は1886(明治19)年にフランスで修業したコックを雇って開業した(「函館新聞」明治19年7月9日付け)。それ以前にロシア料理を出していたと言われているが、それを示す同時代資料はない。店主となる若山が明治17年に「森善」という別の西洋料理店で働いていたという記録もあり(『北海道立志編』明治36年)、今後の調査が必要である。1912(大正元)年頃に店の看板を英語からロシア語に取り替えたという記事があるが(「函館新聞」大正元年10月11日付け)、この時にはロシア料理を出していたものと思われる。当時、北洋漁業が好調で、港にはたくさんのロシア船が入った。漁場への行き帰り、多くのロシア人たちが函館でつかの間の休息を楽しんだのである。彼らが買い物をしたり、食事をしたりするので、函館の商店街にとってはいいお客様であった。第二のロシア料理ブームの始まりである。
 五島軒で修業したコックがいたというレストラン「鞍馬軒」(1909年開業)や「ライオン」も大正時代から第二次世界大戦が始まるまで営業していたが、どちらもロシア料理で名をなしていた。その当時の新聞には「ロシヤ料理/独特ザクースキとロシヤスープ/クラマ軒」、「精養軒の黒パンとライオンのビフテキ」といったような広告が頻繁に掲載されていた。五島軒は今も営業を続けているが、鞍馬軒やライオンが戦後復活できなかったのは、誠に惜しかった。
 なお、ロシア革命を逃れて亡命してきた、いわゆる「白系ロシア人」の店があったことも函館らしい。大正から昭和戦前期、銀座通りにはロシア人が経営する「チョコレートストア」があったというし、松風町にはズヴェーレフの経営になる喫茶店「ヴォルガ」があった(『近代函館』昭和9年)。またカムチャツカから来たプシューエワ母娘もロシア食堂を開いていた(「異国流亡」『経済往来』1974.8)。十字街にはオスモロフスキイ経営の食料品店があり、「カルバサ(ソーセージ)」が人気を博していた(「函館新聞」大正15年4月2日付け)。市内の至る所にロシア人の「パン売り」が見られたことも函館の風物であった。
 第二次大戦後は、ロシア人の血をひく吉田和子さんが1980年に始めたロシア料理店「カチューシャ」が特筆できる。オホーツク市で貿易商を営んでいた先祖は、パルチザンによって財産を奪われ、命からがら函館にやってきた。お祖母さんから教わったロシア料理のレシピが吉田さんの宝物だそうだ。

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「函館日日新聞」(明治42年11月3日付け)掲載の露西亜パンの広告

「会報」No.23  2003.7.1 2003年度第1回研究会報告要旨(その2)