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「棒二森屋デパート」と在函亡命ロシア人

2020年9月 6日 Posted in 会報

倉田 有佳

 今年1月31日、函館で150年の歴史を持つ老舗デパート「棒二森屋」が閉店した1。昨今、地方の百貨店閉店のニュースは珍しくないが、昨年開道150年を迎えた北海道にとって「150年」の歴史の重みは格別だ。
 「棒二森屋」は、大分出身の初代渡辺熊四郎2が創業した洋物店「金森(かねもり)渡辺合名会社」と、近江商人で知られる滋賀県の出身荻野清六が始めた「荻野呉服屋」(屋号「棒二」3)が合併し、函館大火の翌年、昭和11(1936)年に誕生した。呉服店ではなく、「洋物」店がデパートの発祥とは、いかにも開港都市函館らしい(小池田清六『棒二森屋物語 幕末から平成までの百五十年の歴史』2019年)。
 さて、10数年前のことになろうか、「棒二」の四代目社長を引退された荻野清氏とお会いする機会を得た。荻野氏は、ズヴェーレフ家4の姉妹が生まれ故郷の函館を再訪したことをご存じだった。そのためであろう、筆者に対して、クリスマス商戦の新聞広告にズヴェーレフ家の姉妹を起用したことがある、というお話をされた。「捜せばどこかにあるはずだが」、とおっしゃってくださったのだが、「自分で捜してみます」、と大見えを切ってしまった。記事は未だに見つかっていないため、あの時荻野氏の御厚意に甘えていればよかった、と今は後悔している。
 ところで、ガリーナさんとオリガさんの父クジマ・ズヴェーレフは、ウラル山脈に近いクングール(現ペルミ地方の主都)に生まれた。ロシア革命後の内戦期には白衛軍に徴兵され、反革命軍として戦ったが、1922、3年頃にはハルビンに避難していた。同地でペルミ出身の女性と結婚し、1927年頃に室蘭に定住した。函館には1933年頃移り住んだ。当初は函館駅からほど近い繁華街大門で喫茶店「ボルガ」を営んだが、昭和9(1934)年の函館大火で被災し、その後は洋品店「コジマ」を開いた。しかし、父クジマはスパイ容疑で逮捕され、1943年1月獄死した5。
 広告に登用されたのは、美人姉妹だからと思いきや、荻野氏によれば、大黒柱を失い経済的に困っていたことを知っていたため、少しでも役立てば、との思いからであった。
 「棒二」の二代目社長の渡辺熊四郎(1894-1975年)は、革命で家族と生き別れ、図らずも亡命者となったサファイロフ6を「長く援助していた」。今では「あまり知られていない」(清水恵『函館とロシア その交流の軌跡』)と言わざるを得ないが、当時の新聞(『北海道新聞』(1958年10月3日(写真)、同1959年8月10日)には、渡辺社長が晩年のサファイロフを物心共に支えたことが詳しく紹介されている。
 この二つのエピソードを、亡命ロシア人を祖母に持つ和子さん(洗礼名カーチャさん)に話すと、「叔母もボーニさんと関係があったのよ」、という予想外の返事が返ってきた。確かに、『函館日日新聞』(1929年12月7日)には、「女の細腕一つで六人の子を養ふ 夫に死別した悲しみの涙を耐へて 未明から深更まで賃仕事に励む ロシア婦人の母性愛」と題し、18歳になる長女栄子さんが「森屋百貨店に女店員となって」、ロシア人の母を助けていることが報じられている。カーチャさんによると、もう一人の「叔母八重子さんも金森のエレベーターガールをしていた」。八重子さんはとりわけ美人だったようだ。二人が勤めていたのは、「ボーニ」となる前、「金森百貨店」時代のことである。
 「ボーニさん」の呼称で親しまれた老舗デパートの歴史は閉じた。しかし、その社長が、地元函館に暮らす亡命ロシア人の身を案じ、経済的に支援していたことは、函館の人たちだけでなく、ロシア交流に関わる人たちの記憶に長く留めたいものである。

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左が渡辺社長。右はモスクワを親善訪問し、革命で生き別れとなった娘から預かってきた手紙と写真を手渡す日中友好協会函館支部原理事長。大いに喜ぶサファイロフと日本人の妻(中央)(『北海道新聞』1958年10月3日)


1 アネックス館は「函館駅前ビル」として営業中(函館市公式観光情報 はこぶら[https://www.hakobura.jp/info/news/11083.html](2019年5月31日閲覧)。
2 初代渡辺熊四郎は、明治11(1878)年に黒田清隆長官がウラジオストクへ実地見聞に向かう際に同行が許された函館商人5名のうちの一人(『棒二森屋物語』15頁)。
3 二本の天秤棒のことで、一本は担ぎ棒、もう一本は普段は杖だが、何かのときにはスペアとしての役目を果たす。これは近江商人の用意周到さの象徴であり、「しんぼう(辛抱)」の精神にも通じることから、荻野の店の屋号とした(『棒二森屋物語』27頁)。
4 当会創立10周年記念シンポジウム(2003年)にガリーナさん(1933年函館生、6人兄弟姉妹の次女)をサンクトペテルブルクからお招きし、2007年にはキューバ在住のオリガさん(1940年函館生の末っ子)を迎えて報告会を開いた(『函館とロシアの交流』2004年、『函館日ロ交流史研究会2007 特別報告会報告書 函館で生まれ育ったロシア人 オリガさんを迎えて』2008年を参照されたい)。ズヴェーレフ家のことは、小山内道子会員が「会報」で報告している(「故国に帰った白系ロシア人の運命 ―ガリーナ・アセーエヴァさんに出会って―」「会報」13号、「ガリーナ・アセーエヴァさんに再会して」同19号、「ガーリャさんの東京・横浜滞在を共にして」同25号、「函館に縁の深いズヴェーレフ家の人たち ―キューバからオリガさんを迎えるに当たって―」同30号。「会報」は当会ホームページ(http://hakodate-russia.com/)からご欄いただけます。
5 小山内道子「ガリーナ・アセーエヴァの歩んだ遠い道のりをたどって」『函館とロシアの交流』函館日ロ交流史研究会発行、2004年、30-41頁。
6 清水恵「最後の「低い緑の家」―サファイロフの晩年」『函館とロシア その交流の軌跡』函館日ロ交流史研究会発行、2005年、315頁。

「会報」No.40 2019.6.23 会員報告