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1875~1903年のサハリンにおける日ロの協力関係

2012年4月24日 Posted in 会報

アナトーリー・マンドリク

 ロシア極東漁業の発展史を考察する場合、サハリン漁業は、日本人とロシア系漁業者が肩を並べて漁業を行っていたという点で、特別の意味を持っている。19世紀後半以降ロシア人の移住が増え、ロシア人と日本人漁業者の接触が始まった。1855年1月(露暦)の日魯通好条約(下田条約)で両国間の修好関係が成立した。条約によってサハリン島は、「境を定めずに」として、日ロ住民の雑居地とされ、サハリン島の日本人漁業がそれまで同様続けられることになった。しかし、その後のサハリン島では、ロシア兵による日本人漁村の襲撃、定置網の破壊、強制移住などの事件が起きた。当時アニワ湾にはすでに多数の日本人漁業者が定住しており、多額の漁獲を揚げていた。
 両国の対立が続く中で、1875年榎本公使とゴルチャコフ外務大臣との間で樺太千島交換条約が調印された。この結果サハリン島は、ロシアに帰属し、千島全島が日本に引渡された。ただサハリンにおける日本人漁業者の既得権が認められ、日本人が引続きサハリン島に居住して漁業に携わることが可能になった。しかも日本人漁業者には免税特権が与えられ、税金は燃料用薪の伐採税、加工上の土地利用税に限られていた。
 交換条約後は、日本人漁業者のサハリン進出が活発になり、特にテルペニア湾では多数の漁区を取得した。このような日本人漁業者の急増に脅威を感じたロシア政府は、1899年12月沿海州における日本人漁業者の活動に対して新たな規則を制定した。それによると漁業者は毎年漁業権の更新が必要になり、ロシア漁業者には、漁区、漁船、漁獲量などで優遇措置がとられたが、日本人には、定住漁村が強制移住の対象となり、閉村が迫られるなど、ロシア当局の日本人漁業者に対する様々な締め出し政策がとられた。
 またこの時期は、セミョーノフ、デンビー、ゾートフ、クラマレンコ、ナデツキー、そのほかロシア系漁業者、あるいは企業がサハリンで本格的に漁業を始めている。これらロシア系漁業者の日本市場における活動について、詳しいことは清水恵さんの論文に譲ることにして、彼らは技術、労働力、生産物の販売面で日本市場に大きく依存していた。1904~1905年の日露戦争は、日本側の漁業生産を困難にしたが、ロシア側も日本市場を喪失して事業の縮小を余儀なくされた。こうした日ロ関係が戦後の日露漁業協約につながっている。
 今日は日露戦争までの時期ということで用意してきたが、日ロ漁業関係史を勉強するなかで、疑問にしてきた問題がある。それは戦争、革命といった両国関係がきわめて複雑で、様々な出来事に満ちていた歴史の中で続いたロシアと日本の漁業分野の協力(ソビエト期でも)、ないしは漁業関係が何らかの肯定的な成果をもたらしていたか、ということである。
 私の結論はいかなる時期でも、肯定的成果につながる協力関係が断ち切られたことはない、ということである。その理由は、第一に中央部、西部からきたロシア系漁業者が、極東海域の漁業開発のノウハウを全く持っていなかったこと、第二はロシア漁業家は、デンビー商会はじめ、水産物の販売は専ら日本市場に依存していたことである。これに近い関係はソビエト政権移行後も続いた。例えばソビエト政権初期の極東漁業では漁具の50パーセントが日本から輸入され、最初のカニ工船4隻は函館ドックで建造されている。当時両国政府の外交関係からは、想像できない活発な協力と交流がおこなわれていたのである。
 最後に今一度1855年の下田条約を想起して、未来永遠の友好を約束した条約の精神で、今後両国の人々、特に漁業者間の協力関係が続くことを期待したい。

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「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 研究会報告概要2