函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

ハバナで出会ったオリガ・ズヴェーレワさん

2012年4月24日 Posted in 会報

髙木浩子

出会い
 函館のズベレフ家の消息については、函館日ロ交流史研究会の『函館とロシアの交流』に掲載された次女のガリーナさんと小山内道子さんの報告に詳しい。ここで、再びズベレフ家について触れるのは次の理由による。
 ガリーナさんは1943年に姉兄3人と大連に旅立っており、それ以降1957年にソ連で再会するまでの母、祖父、2人の妹の日本での生活についてはほとんど知られていない。しかし、それを語れる人がいる。その人はズベレフ家の末っ子でガリーナさんの妹オルガさんである(筆者はオリガではなくスペイン風のこの呼び名に馴染んでいる)。
 筆者とオルガさんの出会いは偶然だった。筆者は、ハバナの海岸から大勢のボートピープルがフロリダを目指していた1994年に、勤めていた国立国会図書館からハバナにあるアジアオセアニア研究所に派遣されたが、そこで通訳をしてくれたのがオルガさんだった。彼女が函館生まれで、父上が戦時中にスパイ容疑で収監され獄死、戦後ソ連に帰ってレニングラード大学に進学し、キューバの留学生と出会い結婚、キューバに移り住んだことを聞いた時は驚いた。キューバに来てからは、ハバナ大学でロシア語を教えていたそうであるが、ソ連邦の崩壊とともにキューバにおけるロシア語のニーズが減ったため、日本語教師および日本語通訳に転じた。翌1995年春、彼女は"国際交流基金の海外日本語教師のための短期プログラム"で38年ぶりに来日した。
 東京でもニコライ堂や住んでいた落合の家の跡等思い出の地を訪ね歩いたが、5月にはいっしょに函館に飛び、松風町の家の跡、通った大森小学校、父上のお墓のあるロシア人墓地を訪ね、ハリストス正教会では受洗者名簿も見ることができた。それは、彼女自身はもちろん同行した私にとっても忘れられない感激的な旅であった。そこで、帰国するオルガさんに家族の物語をまとめるよう勧め、ここで紹介する彼女の手記を送ってくれたが、私信として手元で眠っていた。
 昨年、インターネットで偶然、函館日ロ交流史研究会のホームページを見つけ、『函館とロシアの交流』を送っていただき、ズベレフ家に関するガリーナさんと小山内さんの報告を発見した時の驚きと喜びは忘れられない。長年、探し求めているものに出会ったと思った。その後、小山内さんから、追加情報もいただいて、10月、オルガさんにこれらの資料を届け、もっと詳しく彼女の物語を聞くため11年ぶりにハバナに飛んだ。いくら離れているとはいえ、オルガさんがガリーナさんの日本訪問を知らないのは奇妙に思われるかもしれない。しかし、残念ながら、ロシアもキューバも郵便事情が甚だ悪く、驚くに値しないことなのである1。ハバナへの直行便はなく、メキシコかカナダで1泊しなくてはならないから2日がかりである。
 ハバナではオルガさんの家の直ぐ側のホテルに1週間滞在し、毎日、持参した報告を読み語り合った。そこで、彼女は、沢山の写真を見せてくれた。それらは、彼女が函館から東京、ソ連を持ち歩いた貴重な写真だった。特に私が心を打たれたのは、室蘭であいついで亡くなったヴェーラ(お母さんと前夫ヴォルコフ氏の娘)とヴォルコフ氏の葬儀の写真で、後に再婚することになるオルガさんのお父さんをはじめとする亡命ロシア人の仲間が棺の脇に立つお母さんを取り囲むように写っていた。オルガさんに追加情報を含め、私信を公開したいことを伝えたところ快諾を得たので、ここに紹介する。オルガさんの日本語力はすばらしく、ごく一部補足したが、ほぼ原文のままである。

両親のこと
 ガリーナさんたちが大連に渡るまでの戦前戦中の家族の事情は、オルガさんは幼かったので、直接の記憶はないようであったが、お母さん、おじいさんから断片的に聞いていたようである。以下、「 」内はオルガさん直筆の手記。

「私の両親はロシアで起こった十月革命の亡命者でした。父の事は殆ど何も知りません。白軍の将校だったそうです。彼が日本に来る前どこに住んでいたか、また彼に私達の他に家族があったか、何も知りません。母に聞いた事がありますが、彼女の話では、亡命者の間では余り過去について聞かない事になっていたらしいです。それは、きっと亡命者は各自みんな色々な過去を背負っていたからではないでしょうか。
 エリク・マリア・レマルクのある小説の中で、たしか「凱旋門」という小説だったと思いますが、その主人公は亡命者で男性と女性の間の関係はベッドの関係の方が簡単に出来て、過去についてとても話しにくかったと書いています。きっと亡命者は逃れて来た所の事や残して来なければならなかった自分の家族について、自分の過去について話すのが辛かったのかも知れません。
 母はウラル山脈の近くのペルミ地方から来ました。母の父(私の祖父)はセレドニャーク(その頃のロシアの田舎の百姓はクラーク=富農、セレドニャーク=中農、べドニャーク=貧農の3つの階級に分かれていました。)で2回も銃殺されそうになったので中国に逃げて、ハルピンに落ち着いてから自分の家族を呼び寄せました。母は自分の母と弟ステパンと一緒にシベリアを通って中国に行く事にしましたが、旅行の途中で母の母がチフスにかかり亡くなりました。そのころ母は20歳くらいで弟は10歳くらいでした。母はシベリアに残って看護婦になりたかったが、小さな弟と一緒では無理だったので中国に行くことにしたそうです。だから、母は勉強するチャンスを無くし、無学で一生を送ることになったわけです2。
 中国ではいろいろな家でメードや子供の世話をする仕事をして働きました。そこで彼女は一番目の夫に会って結婚して、1925年頃、日本に行き、室蘭に住み、娘ヴェーラを産みました。しかし、ヴェーラと夫はあいついで亡くなりました。
 未亡人になった母は私の父に会って、好きになって、結婚して、6人の子供を生みました。1934年の函館大火の後、中国にいた祖父も、母の弟が病死した後、父の招待で日本に来て私達といっしょに住んでいました。1941年太平洋戦争が始まって、1943年、父がスパイ容疑で逮捕され、刑務所に入れられたので、母は姉や兄がいじめられるのを心配して、上の兄姉4人を中国の大連に送る事にしました。そこにはそのころロシアの学校(ギムナジア)があったからです。父が1944年1月7日に刑務所で亡くなり、1945年8月に戦争が終わりましたが、大連に行った姉兄との連絡がとれなくなり、私達は長い間、離れ離れに住むことになりました。」

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ズベレフ一家

函館の暮らし――思い出すこと
 オルガさんは1940年に函館で生まれた。1944年にお父さんが亡くなった後、戦中戦後の混乱期をお母さんは自分の父親と2人の子供とともに1954年まで函館で暮らした。そのころのことをオルガさんは次のように語っている。

「私は昭和15年に函館の松風町で生まれました。私の姉兄は、そのころ東京にあったロシア語学校で勉強していたので、末っ子の私が7月15日に生まれたことを喜びました。それは私の誕生日に家に帰って来る事が出来るからでした。しかし、それも戦争のせいで2回か3回しか来ることが出来ませんでした。
 一番上の姉は13歳、次の兄は12歳、その次の兄は11歳、その次の姉は10歳で中国に行ってしまいました。私と直ぐ上の姉はいつも姉と兄たちが帰って来るのを待っていました。父が亡くなった事も知っていましたが、何かの間違いで父はまだ生きているのではないかと想像したこともよくありました。
 私は父を全然覚えていません。ただ、お葬式の日、1月だったので、とても寒くて、誰かの肩の上に乗せられて、元町の下の方から坂を見上げている場面を今でも思い出す事がありますが、実際にその思い出はお葬式の時かどうか、余りはっきりしていません。もしかしたら、命日だったのかもしれません。
 戦争の事については余りよく覚えていませんが、函館の空襲を覚えています。それはもう戦争の終わる直前に近かったからだと思います。空襲がひどくなったとき私達一家(祖父、母、姉と私)は湯の川に疎開しました。そこで私の代母のクラフツォフ家が木苺の砂糖漬けを作っていましたので、そこの倉庫を借りて、どのくらいだったかは覚えていませんが、一時住みました。祖父は松風町に留守番する為に残り、母は行き来していたと思います。その家は丘の上にあって、冬になると、そこからそりで滑り降りるのが楽しみでした。その近くに日本の女性と結婚していた1人のロシア人(サファイロフ?)が住んでいた事を覚えています。彼はグズベリを栽培していて美味しい砂糖漬けを作っていたようです。彼の名は覚えていませんが、とても親切で教養のある人だったと思います。彼の家で初めて揺り椅子を見ました。彼の奥さんは病気だったと思います。その後、姉ナジェージダは学校に入る為母と一緒に松風町に帰ったので、私は後に残され、とても寂しくて、悲しかったのを今でも覚えています。その後、母が会いに来た時、私が母にすがりついて泣いたので母は置いて行くのが、可哀相になったので、家へ連れて帰ったと言っていました。」

 お父さんが収監されるまでは、比較的余裕があった生活も、亡くなられた後は相当、厳しいものであったようで、そのころの生活を次のように語っている。

「戦後はみんな苦労していました。函館では母は父が残した洋服屋をやっていましたが、店には古いものしかなく全然お金が入ってこなかったので、母は家を留守にして、よく商いに出ました。そのときは母が待ちどうしかったです。函館の港まで行って、青森から来る船を待って、それに母が乗ってきたかを確かめたりしました。
 家にはお風呂がありましたが、その風呂を使わないで家族そろって家の前にあった銭湯に行きました。ある日お風呂に入った後とてもおなかがすいて力が全然なくなったので母に抱かれて帰った覚えがあります。今から考えれば食料不足だったのでしょう。そのころは非常に生活が苦しかったと今になって思います。しかし、そのころはそれでいいのだと思っていました。私は普通、祖父が作った木製の下駄(それは日本の伝統的な下駄ではなく板の上に鼻緒代わりに革をとりつけたもの)を履いていました。私は日本の下駄が欲しかったが、それはなかなか手に入らなかったのでしょう。教会に行くときだけ靴を履きました。」

 しかし、戦後の函館の生活については楽しかったと語っている。

「私の少女時代はとても楽しかったです。家にはいつも自転車があって函館中を駆け回りましたし、相撲を見に行ったり、芝居を見に行ったり、映画を見に行ったりしました。函館の競馬を見に行ったこともあります。紙芝居も楽しみでした。戦後アメリカ軍が来たときは家にも来ました。そのころのアメリカの兵隊は戦争を体験した人達だったから人情があったような気がします。そしてその人達にかわいがられました。
 野球を見に行ったこともあります。ヴィクトル・スタルヒンが函館に来た時は、必ず家に来て、私達は母に買って貰えなかったお菓子を買って貰いました。随分かわいがって下さいました。母は父が生きていた時、いつもヴィクトル・スタルヒンを可愛がったと言っていました3。それはヴィクトルも父親を亡くしたからです。兄ミハイルの話では、私の父はヴィクトルの代父(名付け親)であったそうです4。それが本当であれば、私の父はロシアでヴィクトルの父親の友人であった事になります。」

横浜のインターナショナルスクール
 オルガさんは函館で幼稚園に入り、大森小学校に入学したが、お母さんが将来を心配してであろう、9歳頃、お姉さんのナジェージダとともに、横浜のインターナショナルスクールに転校させた。しかし、そこはなじめなかっただけでなく病気になり、函館にもどって大森小学校を卒業し、函館の遺愛女学校に進学した。その頃の思い出を次ぎのように語っている。

「大体私が9歳の頃、母は横浜にあったセント・モーアという修道女の女学校に私を入れました。その時までは大森小学校にいっていて、英語は全然出来ませんでした。その学校では何から何まで英語だったので、随分泣かされました。何も分からなく、数学だけしか出来ませんでした。私のすぐ上の姉が1年か2年前に横浜に行った時は、セント・モーア女学校は戦争で焼けて、建設中だったので、セント・ジョセフ学校で1学年をやりました。その学校は修道士が教えていましたが、殆どの修道士は日本語を知っていたので、生徒が分からない時は日本語で説明してくれたので、姉は私のように苦労しませんでした。
 横浜の学校に通っていた間、私達は御茶ノ水のニコライ堂の下の戦前ロシアの学校があった建物に住んでいたロシア人の家族(コイチェフ家)に預けられました。その建物の二階にはロシア正教の教会がありました5。そこから横浜まで通うのは大変でした。朝はいつも早く出なければならなくて、帰るのも遅かったです。
 学校には色々な国の子供がいました。私はロシア人だったので、そこでも差別されました。それに英語が出来なかったので、ますます差別される一方でした。だから小さい子供はすぐに言葉を簡単に覚えられると考える人が多いですが、私はそう思いません。今でもどんなに辛かったか思い出す事があります。そこで病気になったので、母は私を函館に連れ帰りました。1年間ぐらい病気のため学校を休んで自宅で療養し、そのあと4年生から6年生まで大森小学校にいきました。」

一家で東京へ
 1954年、オルガさんが遺愛女学校に進学した年の9月に一家は東京(下落合1-5-5)に移り住んでいる。洞爺丸台風の年である。東京でオルガさんは1957年にソ連に帰国するまで、経堂の恵泉女学園に通った。その頃の思い出やソ連に帰国するいきさつを次のように語っている。

「東京では目白に住み、毎日目白から新宿に出て小田急線に乗って、経堂の恵泉女学園に中学校を終えるまで通いました。とても楽しい時代でした。学校には広い土地があって野球場やテニスコートやバスケットコートなどがあって、友達同士で早く学校に来て、ソフトボールを練習しました。授業は午後3時までだったので、そのあとは学校の近くの写真屋さんのおばさんがよく写真を撮りに来たので、いまでもその写真を見てそのころの事を思い出します。
 東京には、そのころロシア人のクラブ6があって、そこには色々なサークルがありました。そこで私はロシア語を習ったり、マンドリンの弾き方を習ったり、コーラスに参加したり、演劇をやったりしました。そこでソ連の事情を聞いて、社会主義は素晴らしいシステムだと考えてました。そして、私の兄姉に会うためには、ソ連に帰らなければならない事も理解できました。
 母は自分の子供に会う為にソ連に帰る決心をして、1956年に高校を卒業したすぐ上の姉ナジェージダをソ連に送りました。一番難しかったのは私の祖父をソ連に帰るように説得する事でした。最後に彼も自分の孫達に会いたかったからソ連に行く決心をし、私達一家は1957年9月にソ連に帰りました。その年はモスクワで青年のフェスティバル(第6回世界青年学生平和友好祭)があったので、それに参加した日本の団体が帰国した船7に乗って、新潟からナホトカに行きました。」

ソ連へ帰国して
 ソ連国籍取得の詳しいいきさつはわからないが、ソ連政府からの働きかけもあったであろうし8、なによりソ連にいる子供たちと連絡がとれたことが帰国の動機となったのであろう。帰国に関しては、日ソの国交が回復した1956年に直ぐ上の姉ナジェージダがまず仲間と帰国し、翌年、残りの家族がナジェージダが落ち着いたロストフ・ナ・ダヌーへ帰国し、1943年に別れた兄姉たちと再会した。しかし、帰国後も生活は大変だったそうである。ソ連帰国後の生活について次のように語っている。

「ナホトカは建設中でした。ソ連の一番最初の印象は余りいいものではありませんでした。私はお米のご飯を食べるのに慣れていたので、その代わりに他の穀物が出てくると、余り食べたくありませんでした。ナホトカから汽車に乗ってモスクワまで行きました。長い間、夢見て来たモスクワに着いた時は嘘みたいな感じがしました。そこから、私のすぐ上の姉がいたロストフ・ナ・ダヌーへ行きました。
 まず、初めに驚いたのはみんなロシア語を話している事でした。日本では誰かが近くでロシア語を話している場合は、必ず私達の知り合いでしたが、そこでは、私達の知らない人もロシア語を話しているのです。長い間それに馴染む事が出来ませんでした。まず、最初に直面した問題は住居の問題でした。住む所がなかったから、部屋を借りて、そこに住み始めました。アパートを借りる事はその頃出来なかったからです。その後今はよく覚えていませんが、大体3ヶ月後2部屋のアパートを貰いました。その頃のソ連はモスクワやレニングラードのような大都市では食料の問題はありませんでしたが、ロストフ・ナ・ダヌーは大変でした。勿論、市場には何でもありましたが、値段が高かったので、何時もそこで食料を買う訳にはいきませんでした。それから年金生活に入る為に母は病院で掃除のスタッフとして6ヶ月働きました。
 私達がロストフ・ナ・ダヌーに着いてから上の姉達と兄達が来て、母は15年振りに、翌年夏休みに帰って来ると思って中国の大連に送った子供達に出会った訳です。子供の面影もない大人になった子供達でした。きっと、母は自分の子供達が色々苦労した事を聞いて随分辛い思いをしただろうと思います。何しろ13歳、12歳、11歳、10歳の子供達が、母の元から離れて、自分で自分の運命を決めなければならなかったのです。もし、近くに誰か経験のある人がいて相談に乗ってくれたら、どんな運命を選んだか分かりません。もしかしたらみんな日本に帰って来ていたかも知れません。その様な事を考えれば限りがありません。」

 ソ連帰国後、大学に進学、キューバに渡るまでのいきさつについては次のように語っている。
「一応落ち着いてから私は学校に行き始めました。東京にいる時ロシア語を勉強していたのですが、実際には余りよく分かりませんでした。教室で先生が説明している時は全部分かるような感じがしましたが、家に帰って宿題をする段階になると、何も分からなくなって、とても苦労しました。ソ連の学校で9学年と10学年をやって、1959年に学校を卒業してから、1961年にレニングラード大学の入学試験に合格して、東洋学部の日本史科に入り、日本の歴史を勉強し始めました。勿論、私が日本語を良く知っていた事は入学する為の大きなプラスでした。
 大学では色々な知識を得て、沢山の友達ができて、とても充実した生活を楽しみました。私が2年生の時、ソ連にキューバから沢山の留学生が来ました。レニングラード大学にも十人ぐらいのキューバ人が色々な学部で勉強し始めました。そして、私は経済学部で勉強していた今の夫であるイダルベルト9と知り合い、彼の理想に惹かれました。なぜなら、ソ連に来た時の私の理想に合っていたからです。ソ連の青年達は革命が起こってから五十年も経っていたので、ずっと物質主義的になっていたのです。キューバではほんの一、二年前(1959年)に革命が起こったから、みんな熱心に社会主義こそキューバにある様々な社会問題を解決すると信じていました。しかし、結果的にはそうではありませんでした。その事について話す為には色々な国際事情や経済の知識を持っていなければなりません。ですから、その様な分析は専門家に任せましょう。
 イダルベルトと知り合ってから2年経った後で結婚して、1965年に大学を卒業してから2年間インツーリストというソ連の旅行会社でガイドとして働きました。1967年にキューバに渡りました。」

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左上からミハイル、ガーリャ、タチアナ、左下からナジェージダ、アレクセイ、オリガ

キューバで新しい生活
 また、キューバに着いてからの生活については次のように語っている。

「キューバに来てからは、スペイン語を知らなかったので、ロシア語を教える事になりました。そして、1990年までロシア語を教えていました。
 ソ連が崩壊してからキューバでのロシア語の必要性が全然なくなったので、転身を図らなければならなくなりました。その時ハバナ大学で松尾先生10の日本語教師養成クラスに参加して、私の頭の中に眠っていたが、使う機会がなかった為にもう話せなくなっていた日本語を呼び起こす機会が与えられたのは幸運でした。よく覚えていませんが、確か1990年の9月から私は日本語の授業を始めました。日本語のクラスは大学だけではなく、アジア会館(アジアの家)やアジア・オセアニア研究所などでもやりました。1998年に大学を退職して、今は時々、大学で教えたり通訳をしています。」
 
 オルガさんは、現在、ハバナ市内にご主人のイダルベルトと住んでいる。息子イダルベルトと娘グロリアの2人の子供がいるが、グロリアはメキシコ人と結婚しメキシコに住んでおり、イダルベルトもメキシコで仕事をしている。キューバはソ連崩壊後、未曾有の経済危機に直面し、一時期よりはましになったとはいえ、相変わらず、国民は窮乏生活を強いられている。10年前に行った時は外国人用のホテルを除くと一般家庭では長時間の停電が常態化していたが、今回もホテルの窓から停電して真暗な街を眺めるはめとなった。物不足も相変わらずで、街には古い自動車が走り、バスなどはいつくるかわからない有様である。
 でも南国のことゆえ太陽の光はまぶしく海は輝き、夜ともなると、あちこちでサルサの音も聴こえる。毎年やってくるハリケーンの被害も深刻で、私が帰国後1週間目に襲来したハリケーンでオルガさんの家も冠水した。好転しない経済状況に絶望して国を離れる若者も多いと聞いた。こういう状況の中で、キューバではエリートに属するオルガさんの暮らしもなかなか大変で、ロシアに帰国するのもままならぬのが実情である。
 オルガさんは17歳まで日本ですごし、ソ連(ロシア)ですごしたのはわずか10年、キューバに来て既に40年たっているが、国籍はいまだにロシアだそうである。彼女はどこでも異邦人だったのではないかと思う時があるが、その心情を次のように語っている。

「よく次のような質問をされます。「あなたの母国語は何語ですか」と。この質問に答えるのは案外難しいです。なぜなら私はロシアの家族の中に生まれ、初めて発音した言葉はきっとロシア語だったと思います。しかし、幼い時から私は日本の幼稚園に行き、その後日本の学校で色々な知識を得ました。外では日本の子供と遊んだり、喧嘩したりしました。でも、私は、外の子供とは異なっていたから目立ちました。それがとても嫌いでした。しかし、いまそのことを考えると、それが私の運命だったのでしょう。
 日本では金髪だから日本人になりきることが出来なかったし、ソ連へ行った後も私は外の人と違いました。服の着方から物の考え方も違っていました。」

終わりに
 オルガさんは、幼い頃をすごした函館をとても懐かしがり、10年前、函館を訪れた時も、函館は父のお墓もあるし私の故郷だと言っていた。17歳まで日本にいたとはいえ、その後、日本語とは遠ざかっていたに違いないのに、彼女の日本語はきれいで、いかにも少女時代に読んだらしく、『赤毛のアン』をまた読みたいと言っていた。
 10年前に日本に来た時は、オルガさんは残念ながら函館の小学校の友達や東京の恵泉女学園の友達と会うこともできなかった。今回、『函館とロシアの交流』を届けた時、10年前に研究会のことを知らなかったことを残念がっていた。彼女がまた来日できれば、友達にも会わせ、戦後の函館や東京の生活、またソ連帰国後の生活についてもっと聞きたいと思っている。


1 今回も小山内さんがペテルスブルグのガリーナさんから預かった手紙を私がハバナのオルガさんに届けたが、これが1番確実な通信手段である。現在は、ガリーナさんの息子とオルガさんのご主人のパソコンでメールの交信ができるようになったそうである。
2  オルガさんはこう表現しているが、革命後のハルピンへの逃避行にはじまり、日本亡命、2人の夫との死別、6人の子供の教育、ソ連への帰国をなしとげたお母さんは無学などではなく知恵と才覚にとんだ女性だったと思われる。
3 スタルヒンの父親が1933年1月に旭川で殺人事件をおこした時に、オルガさんの父親が北海道露国移民協会会長としてめんどうを見た可能性が高い。
4 スタルヒンの父親もオルガさんの父親もウラル地方出身の軍人であったようなので、オルガさんの父親が1916年にタギールで生まれたスタルヒンの代父となる可能性はあると思われる。
5  戦後、アメリカからニコライ堂の主教が派遣されることになった時、ロシア正教会との連携を望んでいたいくつかのロシア人グループは日本正教会を離脱し、大聖堂南石段下の「プーシキン学校」と呼んだロシア人学校の2階に祈祷所を設け、モスクワ総主教庁との関係を続けた。(『東京復活大聖堂修復成聖記念誌』1998)
6 現在、駒込のロシア正教会駐日代表部教会のある場所にあったという。
7 日本から参加した約150人の青年・学生たちはソ連船アレクサンドル・モジャイスキー号で新潟、ナホトカを往復した。
8 1946年9月26日、ソ連大使館は亡命ロシア人のソ連国籍復帰令を布告(高井寿雄『ギリシア正教入門』教文館1977)
9 イダルベルトは高校時代にキューバ革命に参加、革命後はしばらく税関で仕事をしたが、若い人に勉強させるべきであるというゲバラの進言で、ソ連に留学、経済学を学び、帰国後は経済企画の仕事についている。
10 松尾威哉氏は、キューバ政府の要請を受けて、1990年9月から3年間ハバナ大学で主としてオルガさんのようにロシア語教師からの転身を図らねばならない大学教授に対する日本語教育にシルバーボランティアとして携わった。(松尾威哉『キューバの光と影』)

「会報」No.28 2006.11.11 特別寄稿