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今日の醜女は明日は美女か ―米原万里の著作を読んで―

2012年4月22日 Posted in 会報

白畑耕作

 通訳...異なった国語を話す人や言語の不自由な人などの間にたって訳して、互いの意思を通じるようにすること。また、その人。通弁、通事(日本国語大辞典・小学館)。
  通事...通訳のことをさし、訳語 (おさ)ともいう。『日本書紀』推古天皇十五年七月条に「大礼小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利為通事」とあるのを初見とする。―略―
 中世の通事は、遣唐船や朝鮮に渡航した国王使船に座乗し、外国船の通訳を行うとともに外交折衝の事務を担当した。―略―幕府から給禄をうけ、海外の使節が渡来したときには応接の役にあたった。豊かな教養の持ち主が多く、単なる通訳業務に終始せず、外交折衝で重要な役割を演じたことが少なくない。また、文化人として一般の尊敬を集めていた(国史大辞典・吉川弘文館)。
 これを見ると、昔から通訳というのはそれ相当の知識と人格と豊かな人間性を持ち合わせた人間で、外つ国の人々と、言葉を通じ、互いの文化や経済は勿論のこと外交折衝までもその肩に掛かっていた。今日でもその働きは変わってはいないし、これまで以上に幅広い分野の世界で活躍しているのだろうと思う。
 「Oさんの陰嚢の鞘膜腔を触診した結果、腫瘍らしいシコリが確認されましたので、さらに綿密な検査を要します。」と伝えているのだが、その文が相手に伝わらない。それが何度も聞き返されるうちに、ある女性通訳者は、意を決して大使館中に響きわたる声で「えーとですね、Oさんのキン○○のしわをですねえ......」と怒鳴っていたのであった。そして、今までの苦労が嘘のようにスンナリと通じてしまった。―中略―相手に合わせて適切な訳語を用いなかった私が悪かったのである、と。
 このような例文が随所に出てくるこの本は、95年第46回読売文学賞・随筆紀行賞を受賞した『不実な美女か貞淑な醜女』という通訳論集(?) ある。著者は米原万里といい、ロシア語会議通訳者で、エッセイストでもある。履歴をみると、80年設立のロシア語通訳協会初代事務局長を務め、95年~97年会長。92年、報道の速報性に貢献したとして日本女性放送者懇談会SJ賞を受賞している。昨年には『魔女の1ダース』で講談社エッセイ賞を受賞している。今年の2月には『ロシアは今日も荒れ模様』という随筆を出版している。
 『ロシアは今日も・・・・』の帯には「驚天動地が日常茶飯事、途方もなく過激で、底なしにズボラな人々の棲む国をまるはだかにする、爆笑エッセイ」とあるが、そんな文句とは裏腹に、確かに異文化の異なる接点を緊張と喜劇の繰り返しの中からユーモラスに紹介し、読者を独特の世界に引き込んでしまうが、色々な話題とエピソードを紹介しながら現在日本の抱えている問題を政治から教育に至るまで冷静に捉えている。
 同時通訳者の苦労などは私などは多分そうだろうなと思う程度であるが、『不実な...』を読むと、例えば原子力の会議では「原子力に関する入門書を読み...会議のテーマ関連の論文を辞書や原子力辞典、参考書首っ引きでなんとか読み...顧客の説明を受け、その会議で出てきそうな専門用語を必死で覚え、それでも会議前夜から心配でろくに眠れず...」また「近視矯正手術を受けに訪ソする患者さんに付き添って検査と手術の現場に立ち会ったこともある...眼球の構造と各部品の名称を必死で丸暗記したものだ。」ついには、裏千家の家元に同行して「モスクワ大茶会で・わび・さび・一期一会」の概念を伝える仕事、等々。筆者は、これは、ごくごく平均的な通訳者の人生なのであるとあっさり述べてはいるが、単に努力だけではない何かを持ち合わせているとしか思えない。
 解説者が述べているが、エリツィン大統領とのエピソードなどを読むと、努力、大胆さ、繊細さ、諸々の人間的要素と素養を兼ね備えた人だと感じざるを得ない。あの大江健三郎氏は「言葉の戦い、また和解の物語」と。井上ひさし氏は「言語そのものの本質にぐいぐい迫っていく研究」と称賛されているという。
 『ロシアは今日も...』ではロストロポービッチ、ゴルバチョフ、エリツィンとの実体験を通してロシアという国をわかりやすく紹介し、下手な解説者や解説書は足元にもおよばないなと思う。
 筆者は通訳とは一種の必要悪のようなものではないか、という。
 「陛下の通訳をした、大統領の通訳をした、首相の...」とやたら威張ったり、自慢して回る人がいるが...どんなえらい人、どんな有名人を通訳したからって、通訳自身がエライわけではない。逆にどんな極悪人、破廉恥漢、下らないヤツの通訳をしたからって、通訳自身が極悪人、破廉恥漢、下劣とは限らないのだもの―まさにあたりまえのことではあるが、しかし現実には通訳者に限らず老いも若きも、男も女も随分最近の日本人には多いパターンではなかろうか。浅ましいこととは思うが。
 また、通訳する上でてこずるのは外国語から日本語への転換よりも、日本語から日本語への翻訳であるという。「...たしかに言葉は過去の世界観、人間観を濃淡の差はあれ引きずっているもので、差別観が染み着いた言葉を意識的、無意識的に使い続けることによって、差別観を拡大再生産し、差別される側の心を傷つけ続けることに、なんとか終止符を打ちたいという心情は痛いほどよく分かる。しかし...差別の現状と差別意識を克服しないまま、単に臭いものに蓋をする式の姑息な言い換えにうつつをぬかしているとしか思えない場合が多い」と。このままでは使いたい日本語を自由に使うことができなくなるのでは、なかろうか。特に日本の文化を伝える芸能や過去の歴史を的確に伝えなければならない分野の中にその影響が大きいと思われる。日本の文化の低俗化に拍車をかけている気がしないでもない。言語の専門家である著者が危惧するのは当然のことである。「言葉は、民族と文化の担い手なのである。その民族が、その民族であるところの個性的基盤=アイデンティティの拠り所なのである。だからこそそれぞれの国民が等しく自分の母語で自由に発言をする機会を与えることが大切になってくるのだ。」と述べているが、自分の国の言葉を大切にしない人々のいる国が栄え発展するはずがないのである。
 現在のロシアと日本の関係を知るのには極めてわかりやすい著作である。単に通訳の苦労話だけではく、通訳の相手を観察することによってそれぞれの国の現状や人間が的確に把握されている。
 日本各地を講演して、日本人聴衆に「エリツィンは本気で領土返還を考えている」と思わせて、帰国後半年ほどして、千島列島に遊説し「日本には絶対に一平方センチたりとも引き渡さない。」と発言してしまう大統領。しかしその大統領でさえ、日本人記者には冷たくても、米原さんには絶対の信頼をおいているという。解説者は「将来エリツィンが北方領土返還を決断するとしたら、米原さんとの交遊が脳裏にないとは言い切れない。」と。
 日ロのこれからの交流には、米原氏のような考え方や視点を持った人たちの働きが大切なのだろうなと思う。そして現在の日ロの関係を理解するには極めて適切な資料ではなかろうかと思った。

「会報」No.8 1998.6.22 読後感想