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補遺―1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦「アレウト号」の遭難をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 今年3月に発表した拙文「1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦『アレウト号』の遭難をめぐって」は、以下の一連の事件を取り扱ったものであった。

(1)1877(明治10)年11月、ニコラエフスクからウラジオストクに航海中のアレウト号、暴風のため流され瀬棚沖において座礁する。死傷者はなく、62名全員が救出される。
(2)同年12月、アレウト号乗員送還のため、ウラジオストクよりアブレク号来る。62名中49名を同号に乗艦させ、残り13名は座礁したアレウト号および搬出物看守の目的で瀬棚に残す。しかし、この収容作業中、今度はアブレク号の13名が暴風のため本船に戻れなくなる。結局、アレウト号の看守役13名と、本船に戻れなくなったアブレク号収容隊の13名、計26名が瀬棚に残留する。アブレク号の13名はその後間もなく函館に移動。アレウト号の13名は瀬棚にて越冬。
(3)1878(明治11)年、4月、再び送還船来る。艦名はエルマーク号。函館でアブレク号の13名を乗船させて後、瀬棚沖に投錨。アレウト号の13名を収容しようと、本船から大型カッターで上陸。全員を乗せて本船に戻る途中に転覆。12名の死者を出す。

 その際、わたしが用いた資料は以下の4点であった。

(1)救助されたアレウト号仕官が開拓使及県令に宛てた手紙
(2)開拓使がアレウト号の瀬棚沖漂着、救援について報告した公文書
(3)ソ連国防省海軍本部が瀬棚における水夫埋葬について作成した報告書
(4)後日アレウト号を引上げた函館在住ジョン・ウイルの回想録
 さて、この一連の事件真相解明の難しさは、「3隻のロシア軍艦が事件の渦中にあること」と「上述4点の資料間の記述に齟齬が多いこと」にある。わたしは執筆段階で、さまざまな可能性の示唆を試みたものの、「...この遭難事件に関してはまだ不明な点が多く、今後の研究の進展が待たれる...」と結ぶよりなかった。死亡した12人も不詳であった。
 ところが、最近、瀬棚町を訪れた知人がカメラに収めてきた「アレウト号慰霊碑」を見てわたしはあっけにとられた。12名の死者は不詳どころか、慰霊碑の下部には9人の姓名がロシア語とカタカナで併記され、「外3名不詳」と刻まれているではないか。しかも、9名の内訳は、アレウト号乗組員6名、エルマク号3名となっているではないか。「12名の死者の中には、カッター船を漕いでアレウト号残留者を迎えにいったエルマーク号の船員も含まれていたのではないか」という、執筆時のわたしの仮説は、仮説でも何でもなく、すでに周知の事実だったのである。

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瀬棚町のアレウト号慰霊碑

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1972年、アレウト号慰霊碑建立時の「露国軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑」と町長(当時)の声明文を刻んだ銘版

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1988年、新たに加えられた「遭難者名碑」
 
 それにしても、執筆時に1972年建立のこの記念碑を自分の目で確認せず、また、瀬棚町が所蔵する関係資料も未見であったことが悔やまれてならない。昨年、わたしは瀬棚町役場に電話で取材を行なったのだが、そのとき得た回答は「12名の死者は不詳、関連書類は喪失」というものであった。このときの瀬棚町役場の対応を恨むつもりはない。今後の調査・執筆にこのような過誤のないよう、今回の失策を肝に銘じる所存である。

 さて、アレウト号に関するこれまでのわたしの研究の経緯を簡単に説明して、今回、あらためて瀬棚町役場に問い合わせてみたところ、以下のことが判明した。

(1)アレウト号慰霊碑建立の1972(昭和47)年当時は、「露国軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑」の銘版と、慰霊碑建立規成会代表として当時の町長の名が署名された声明版だけだった。
(2)しかし、1988(昭和63)年になって、新たに死者9名(外3名不詳)の名を刻んだ「遭難者名碑」が設置された。これは、ソ連邦地理学協会沿海州支部学術書記(当時)ア・ヒサムトジーノフによる町長宛嘆願によるものである。ヒサムトジーノフは嘆願書の中で、死者9名の姓名を明らかにしている。

 このことは、わたしが使用した先述の4資料の外に、新たな関係資料が極東ロシア史の分野で精力的に活動するヒサムトジーノフ氏によってロシア側で発見されたことを暗示している。アレウト号にまつわる一連の事件の真相解明は、そう遠くない未来に果たされるかもしれない。わたし自身であれ、他の研究者であれ、その真相に一歩ずつ近づくのは誠にスリリングな経験であろう。

*この補遺を記すにあたり、慰霊碑の写真を提供くださった当会会員の桜庭氏と、ヒサムトジーノフの嘆願書の存在を調べてくださった瀬棚町役場総務町民課の加賀谷さんに厚くお礼申し上げます。また、本編を執筆する際には、北海道立文書館の宮崎美恵子さんに多大なご協力をいただきました。ここにあらためて記してお礼申しあげます。

「会報」No.27 2004.10.8