函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

青森のロシア人 ―ロシア革命~第二次世界大戦~ペレストロイカ

2012年4月22日 Posted in 会報

工藤朝彦

 1992年6月上旬、朝日新聞青森支局宛ての手紙の翻訳を依頼された。差出人はウラル地方スベルドルフスク市(現在のエカテリンブルク)在住のロシア人女性であった。女性の名前は、エリキーナ・イリーナ・ダニローブナといい、1942年2月15日に青森に生まれ、ロシア正教会で洗礼を受けた。父は、ロシア人で名はカザンツェフ・ダニイル・スティパノビッチで1894年生まれ、母は日本人でウメハラ・ヨーコといい、函館市の近くで1914年に生まれ、1935年にロシア正教徒となった。彼女にはクラビージャという姉とコンスタンチンという兄がいた。母は、1943年8月18日に亡くなり、一年後、父に連れられ中国のハルビンヘ渡った。1955年、ソ連に移るとともに姉妹は孤児院に預けられた。初等学校卒業後、身分証明書を交付されたが、国籍欄・出生地欄には斜線(不明)が引かれていた。
 教会の記録や戸籍が日本に残っているのではないか。彼女のこれまでの人生は無国籍、姉も同様である。姉のためにも、どうしても、出生の記録を手に入れたい、というものであった。
 早速、函館と盛岡のハリストス正教会に洗礼の記録について照会するとともに、青森市の梅原姓の戸籍を調べたが、ウメハラ・ヨーコの名前は見当たらなかった。しかし、偶然にもカザンツェフを知る伊藤さんという78歳の男性に出会うことができた。伊藤さんの思い出によれば、昭和初期に、当時青森駅前で洋服店を営んでいたべリコフというロシア人が、昭和13年にカザンツェフ夫婦を函館から従業員として招いた。カザンツェフの妻はもの静かな日本人でロシア人との結婚ということから、引け目を感じていたらしい。
 伊藤さんの証言を頼りに、カザンツェフー家をよく知っている複数の老人に会うこともでき、また、函館市に照会したり、北海道新聞社で記事として扱ってもらったが、出生の記録を捜し出すには至らなかった。
 しばらくたってから、私が勤務する役所で保管している戦前からの資料を探していたところ、「ウメハラ・ヨーコ」の死亡届を発見できて、「ウメハラ・ヨーコ」は実は「梅原ヤエ」で、北海道静内町に戸籍があり、兄一人だけが、北梅道奈井江町に住んでいることが分かった。
 また、函館ハリストス正教会の松平神父からは、「梅原ヤエ」と長女の「クラビージャ」の記録を発見できたという連絡を受けた。
 ある時、私が調査していることをロシア大使館から聞いたというロシア人のシュウエツさんから電話をいただいた。13歳まで函館に住み、父がカザンツェフと仲がよかったとのこと。
 期待していなかったが、まもなく盛岡ハリストス正教全からイライダ(イリーナの愛称)さんと兄のコンスタンチンの洗礼証明書が送られてきたのであった。
 8月末、イライダさんから感謝の手紙が届き、イライダさんと叔父・従兄弟たちの文通も始まった。
 青森を去ってから、カザンツェフは通訳として徴用され極東へ向かった。長男のコンスタンチンは天然痘で亡くなり、イライダは孤児院へ入り、重い病気を患っていた姉のクラビージャは修道院の付属病院で長い療養生活をすることになった。
 1954年から1960年にかけ、すべてのロシア人はハルビンから出ることになった。父カザンツェフは、自分の生まれ故郷ペルミヘ向かった。姉妹はハルビン時代の孤児院で世話になったスベルドロフスク市に住むロシア人に引き取られた。父に対し憎しみを抱いたこともあった姉妹は、若い妻を失い、息子まで亡くした人の心痛たるやいかなるものかを理解するようになった。70歳になったカザンツェフは、1964年、新しい妻をつれて彼女たちの所にやってきて、7年間一緒に生活を共にした後、亡くなった。その間、娘たちの身分証明書の出生地等回復のため努力を重ねたという。1987年のペレストロイカにより、イライダさんは書類探しを再開し、ロシア外務省に手紙を書いた。また、エリツィンが故郷のスベルドロフスクを遊説で訪れた際、嘆願書をこっそり背広のポケットに入れたという。
 ある時、ウラルマーシの工場従業員であるコマロフと話す機会があって、彼が東京でロシア語を学ぶ日本人女学生と文通している縁で、彼女と手紙で知り合い、朝日新聞の支局や函館のハリストス正教会に問い合わせるようアドバイスを受けたという。カザンツェフは、「当時、青森には、裁縫業の主人べリコフとその妻ニーナ、パナチョフ一家、フドゥーシキン一家などが住んでおり、北海道から青森へ移住したらしい。彼等はもともと、ロシア革命後の白系ロシア人であった」と言っていたという。
 私は、かの有名な野球投手ビクトル・スタルヒンは父母ともにウラル地方のペルミから革命を逃れ、北海道の旭川市に住むようになったことを思い出し、カザンツェフと同郷であることから、ひょっとしたらお互いに顔見知りの仲ではなかったかと想像をしてみた。
 パナチョフ一家の兄妹のことについて少し述べたいと思う。実はイライダさんから最初の手紙が来た1か月前の1992年5月、青森からの旅行者との思わぬ対面から、サハリン州ユジノサハリンスク市に兄のワレンチンが在住していることと、妹のエカテリーナも、ロストフ市に住んでいることが分かった。二人は盛岡に生まれ、昭和12年頃家族とともに青森に移住し、太郎・花子と呼ばれていたが、太平洋戦争の激化の中、亡命白系ロシア人という理由で、家族と日本を離れることを余儀なくされた。
 兄妹は小学校の旧友たち等の尽力で、それぞれ1992年と1993年に青森を訪問することができた。ワレンチンの青森訪問の翌年、1993年2月10日に兄妹の母が亡くなり、母が去ったすぐ後、母の妹であり当時青森で両親とともに、パンを売っていたターシャ・フドゥーシキンも75歳で2月20日に世を去った。
 また、シュウエツさんとお会いして、べリコフとパナチョフ一家が函館湯川に住んでいたことや、べリコフの妻ニーナが横浜に健在でいることを話してくれた。
 1995年8月9日、イライダと姉のクラビージャは、従兄弟18人の支援により、51年ぶりに故郷の青森を訪れることができた。北海道に眠る母親の墓参りもした。この年は、終戦から半世紀に当たる年でもあった。しかし、翌年5月、イライダは胃癌で亡くなったのである。悲しい出来事ではあったが、せめて一年前に、祖国を訪問できたことは、イライダさん本人にとり幸福ではなかっただろうか。
 このように、一通の手紙が青森に届いたことと、サハリンでの出会いが、戦後50年近く経て、ほぼ同時期に起こったことは、単なる偶然とは言い難い。現在も、エカテリンブルクの姉のクラビージャさんはロストフのエカテリーナさんとユジノサハリンスクのワレンチンさん兄妹と文通を続けている。

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後列左端がカザンチェフ夫妻

「会報」No.6 1998.1.8