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元山のロシア人避難民(1922年秋) 函館港における「マグニット号」とその周辺をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

倉田有佳

 日本軍のシベリアからの撤兵の完了期日である10月25日の前後、当時日本の統治下にあった朝鮮の元山には9000人以上のロシア人が避難した。その大半はウラジオストクからスタルク提督に率いられた船団で避難した陸海軍人であった。朝鮮総督府内務局がまとめた元山のロシア人避難民に関する報告書『露国避難民救護誌』(1924年)には、「マグニット(函館より廻航せるもの)」との記述がある。そこで筆者は、当時の新聞(『函館毎日新聞』、『函館日日新聞』、『函館新聞』)を主な情報源として、この一件についてまとめてみることにした。
 そもそもマグニット号とは、シベリア艦隊所属の白軍砲艦(排水量750トン)で、メルクーロフ政権下でカムチャツカ、樺太方面でのパルチザンや日本人などの外国業者の略奪的な漁撈や木材伐採を取り締まるためにスタルク提督が派遣した特務艦であったが、友軍への弾薬、食糧、物資の海上補給にも当たっていた(関栄次『遥かなる祖国』)。
 日本軍のシベリアからの撤兵後、ペトロパヴロフスクでは赤軍勢力が著しく増加し、情勢が危険になると、同地の白軍とその家族全員はウラジオストクへ引揚げる決意をした。11月2日、マグニット号に白軍将卒等114名(140名とする記事も有り)が、同艦船の僚艦であり露国義勇艦隊所属貨物船のシーシャン号(総頓数1362トン)には白軍兵及び同家族約110名が乗り、約4年分の食糧を積込み出航した。しかし沿岸を巡回中暴風激浪に遭い、11月8日、函館港外に碇泊した。
 無線の故障から、ウラジオストクが赤軍に制覇された事実を一行が知ったのは函館入港後のことで、白軍将卒は赤化したウラジオストクに行くことに断固反対し、一方、船長と船員は、自分の身を案じると同時に家族をウラジオストクに残してきていたことから、ウラジオストクに戻ることを強く主張した。
 しかし、両者の反目は大きな騒動に発展したため、函館水上署では、危険極まりなく捨て置けぬとして強制退去命令を下した。それを受けて11月15日、マグニット号は白軍将卒170名を満載し、吹雪の中、スタルク船団が碇泊中の元山へ向かった。
 11月21日、スタルク提督は、海軍軍人、幼年学校生及び家族の約1970人を14隻に分乗させ元山を出航した。マグニット号は1日遅れて出航し、釜山で船団と合流後上海に向かった。
 さて、露国義勇艦隊所属貨物船のトムスク号(総頓数2715トン)は、10月18日、オホーツクの白軍交代員51名と乗客の計62名を乗せて同地を出航し、ウラジオストクに向かう途中、炭水補給のため小樽に寄港した(10月26日)。白軍将卒はウラジオストクの政変を知ると元山へ直行することを希望したが、思うように事は進まなかった。窮状を察した函館在住某ロシア人が出樽し、安全地帯に避難させるため小樽の船舶会社と傭船交渉を行うもののこれも成功せず、一同は絶望した。
 そのような中、アレクサンドロフスク港(以下亜港)には武装解除した白軍避難民が多数いることを聞き知り、下士官30名他は定期船永保丸で亜港に向かった(11月9日)。一方、将校等23名(うち3名は婦人)は、政情の鎮静化を待ち、当面は上海方面に亡命することを希望したため、露国領事館、函館と小樽の両水上署、道庁等で協議し、函館に碇泊中のマグニット号に移乗させることになった(一部シーシャン号に分乗)。これによりトムスク号は船長、船員、残留兵士9名をウラジオストクに送るのみとなったが、船長はマグニット号からの攻撃を恐れ、出航を渋っていた。しかし、11月15日にマグニット号が出航し、かつ、永保丸が亜港で日本の軍政署から人口増による食糧、住宅、職業難を理由に上陸を拒絶され小樽に戻るという知らせが入ると、11月16日、暗闇に乗じ、無断でウラジオストクに向けて出航した。
 11月下旬、在ウラジオストク露国義勇艦隊総支配人コンパニオンL.F.(後に日本に亡命、1924年に神戸で結婚、1934年に大連へ移住)等が来函し、義勇艦隊代理店を務めていたデンビー商会ダニチ支配人等と話し合った。その結果、シーシャン号はウラジオストクに戻すことで円満解決し(12月16日、ウラジオストクに向けて出航)、白軍将卒は傭船で元山もしくは上海方面等に送ることに決定した。
 12月初め、中国のロシア領事が旅券を下付する見込みが立ち、東京の露国大使館からは8000円が送金されたことにより、やっとのことで傭船契約を結ぶことに成功した。
 12月13日、白軍将卒170余名と亜港から小樽に戻った白軍兵を含む計約200名を搭載した第二錦旗丸が、上海に向けて出航した。途中、上海下流の呉淞(ウーソン)で、露国艦船十余隻が碇泊している横を通過した。これら元山からの艦船は、赤軍から帰順勧告が出されていたこともあり、長い間中国当局から上陸許可が得られなかった。第二錦旗丸の場合は、日本総領事館や露国領事館の助けを得て、到着から4日目の12月27日にようやく上海への上陸が許可された。
 ところで、上海にはロシア革命以前からロシア人の富裕層700名ほどが租界で暮らしていたが、避難民が大量流入した結果、上海には新たな亡命ロシア人社会が形成された。
 シーシャン号が出発した前日の12月12日付で、イリイン司令官から函館全市民及び函館在住ロシア人に対する感謝状が函館毎日新聞に届けられていることから、在函ロシア人、函館市民、場合によってはハリストス正教会と具体的関与があったとも考えられるが、事例に乏しいため、この点、今後も引続き調査したい。

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写真は船内で上海安着を祝う第二錦旗丸の一行(右からススロフ副官、イワノフ将軍、南勇太郎船長、イリイン海軍大佐『函館毎日新聞』大正12年1月10日付(9日夕)より)

「会報」No.22 2003.3.10 2002年度第3回研究会報告(その1)