函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

ロシアとロシア人

2012年4月24日 Posted in 会報

工藤精一郎

 隣りの大国ロシアのことは、日本では残念なことだが、ほとんど知られていない。そこで歴史上の大きな事件を瞥見しながら、ロシアとロシア人について考え、ロシア理解の一助としたい。
 まず建国伝説だが、原初年代記によると、西暦850年頃ドニェプル河畔のキエフ付近に東スラブ族(現在のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)が農耕を営み、水路ビザンチンと交易を行っていた。ところが収穫期になるとスキタイ、ホロペツ等の遊牧民に襲われるし、交易船が掠奪される。これが毎年のようにくりかえされた。そこで長老たちが集ってワリャーグ人(ヴァイキング)を招くことにした。「わが国は広大であり豊かであるが、秩序がない。来りて君臨し、われらを領せよ」それを受けて武将リューリクが手勢を率いて乗りこみ、請われるままに支配し封建国家のようなものを作り上げ、遊牧民の襲撃を防ぎ、交易船の安全を守った。これがキエフ公国リューリク王朝の成立である。
 ここから考えられるのはロシア人は本来農耕民族で強者に支配されるのを望むということで、これがツァーリ幻想となるのである。
 次にキリスト教の受容である。四代目ウラジーミル聖公の時代になると、封建国家の宿命で、国が大きくなるにつれて秩序が乱れはじめて、国民を団結させる精神的中心が必要となった。そこで聖公はビザンチンからキリシア正教を入れて国民の精神のよりどころとし、ビザンチンの王女と結婚して自分の権威を高めた。聖書普及のためキリール文字が入り、キリスト教文化と共にロシア文化発展の基礎となった。こうして国が大きく飛躍しようとしたまさにその時に大きな不幸に襲われ、キエフ公国は壊滅した。
 1230年代のモンゴルの襲来である。強力な騎馬軍団モンゴルの前に平原国家キエフ公国はひとたまりもなかった。モンゴルは1243年キプチャク汗国をつくって居座り、以後240年間にわたりロシアを支配し、しぼり上げることになる。この間にロシア人がロシア人として生き残ることができたのは、モンゴルが宗教には手をつけなかったことと、ロシア人の強い忍耐心ニチェヴォの精神があったからにほかならない。
 モスクワ公国。北の森林地帯に逃れたリューリク一族のイワン・カリータがモスクワ河の畔にクレムリン(城塞)を造り、モンゴルに恭順な態度をとりながら、しだいに勢力をのばし、モスクワ公国を築き上げた。イワン三世の時代(1460年代)にはもうモンゴルに対応し得る国力に達していた。そしてビザンチンがオスマントルコに滅ぼされたので、皇帝の姪ソフィアと結婚し、ギリシア正教の総本山をモスクワに移し、モスクワを第三のローマと称し、ビザンチン皇帝の紋章双頭の鷲を自分の紋章とした。1480年イワン三世はついにロシアをモンゴルの桎梏から解放した。このモスクワ公国もイワン四世(雷帝)の死をもって幕を閉じることになる。そして15年におよぶ空位の内乱時代が始まる。これはツァーリ幻想、民衆の力の大爆発、強烈な国土愛などロシアの要素が表面に出た史上最も興味ある時代であるが、1613年ロマノフ王朝の成立をもって終った。
 ロマノフ王朝は徳川幕府と重なり、約300年つづくことになる。大きな流れは、ピョートル大帝とエカテリーナ女帝の西欧化政策によって、その恩恵に浴した貴族知識階級と元のままの民衆に二分化され、これがロシア発展に大きな歪みを生み出すことになるのだが、ここでは抑圧された民衆の大爆発について考えてみることにする。これがおもしろいことに100年周期で発生するのである。
 まず1670年のステンカ・ラージンの乱、当時はスウェーデンとの戦争が国民生活を圧迫し、忍耐は限界まできていた。ドンコサックのステンカ・ラージンの反乱に農民暴動が合流し、国を二分する農民戦争となった。スローガンは「全ロシアを政府の役人と農奴制から解放する。」この反乱は2年間つづいた。
 次は1770年のプガチョフの反乱。この頃もロシア・トルコ戦争の重圧で民衆の忍耐は限界をこえていた。ドンコサックの首領プガチョフが反乱を起し、ピョートル三世を名乗って農民解放を叫び、農民暴動が合流し、2年間にわたる農民戦争となった。エカテリーナ女帝はピョートル三世の皇后だったが、夫を排して女帝となった。ピョートル三世は難を逃れて民衆の中に生きているという噂が民衆の間にひろまっていた。ツァーリは神に命じられた存在で民衆を守ってくれる。悪いのは取巻きの役人どもだ。これが民衆のツァーリ幻想である。
 1861年アレクサンドル二世は、時代の流れを見て、上からの農奴解放を行った。これがガス抜きとなって100年周期は30年ほどずれた。そして1905年に日露戦争が契機となって第一回革命が起ったが、これは不完全燃焼となって、1917年第一次世界大戦を機に十月革命という大爆発が起った。
 こう見てくるとロシアの歴史は、建国以来培われたニチェヴォの精神が忍耐の限界を越えると強者による救いを夢想して大爆発を起す。この大きな抑圧を大きな爆発のほぼ百年周期の繰返しであったことがわかる。これがロシアとロシア人の来し方である。

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講演中の工藤精一郎先生

(2001年11月10日の講演会より)

「会報」No.19 2002.1.22 2001年11月10日の講演会より