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幕末・維新期の日本史研究と極東状勢について

2012年4月22日 Posted in 会報

麓慎一

 幕末・維新期の日本を研究する場合、「外圧」の問題は極めて大きな課題である。この幕末・維新期の「外圧」は、従来の研究では、主にイギリスによる日本の「植民地化」の危機の問題として、捉えられてきた。確かにイギリスの対日政策が、幕末・維新期の「外圧」の重要な部分を占めていることを否定することはできない。
 しかし、19世紀の世界史的対立はイギリスとロシアの対立である点を否定する人はいないであろう。とすれば、これまでのイギリス中心の「外圧」に対する理解は、いささか問題を含んでいるのではないだろうか。そのような視角から、幕末・維新期のロシア問題、特に極東の状況をながめてみると、実に多くの事件や紛争が起っていることが分かる。「外圧」再考のためにこの点を二、三紹介することにしたい。
 たとえば、幕末期では、ニコラエフスクの問題がある。ニコラエフスクは、幕末期に都市化が進み、アメリカ人なども居住する国際都市となっていた。当時、箱館奉行もこの動向に注目し、幕吏を派遣するなどして情報を集めている。また、このような状況下で発生したクリミヤ戦争は、極東に英露対立を持ち込み、箱館が軍事補給基地として重要な役割を持つようになるのである。クリミヤ戦争以後、英露対立の構造は極東の動向を考える上で最も大きな要因の一つとなる。
 たとえば、第二次アヘン戦争が発生した時にも、幕府はイギリスが対馬を戦争の負傷兵のために利用するのではないかと恐れるのであるが、それはすなわち、英露対立がこの島に持ち込まれることを危惧したのである。周知のように、ポサドニック号事件(ロシアの対馬占拠事件) は、幕府の危惧を現実のものとした事件である。また,ロシアがアメリカに売却したアラスカの問題も、アメリカの極東進出を容易にした、という点で忘れることのできない問題である。
 一方、維新期では、先のニコラエフスクからウラジオストックにロシアの軍事拠点が移されることに注目しなければならない。この問題は、当時の日本の新聞にも紹介されている。軍事基地がウラジオストックに移される意味も日本側は十分に理解していたのである。そして、政府は実際にこの動向を調査しているのである。このような状況で起こったのが、普仏戦争である。この戦争によって、ロシアがヨーロッパにおける対立から解き放たれ、極東における勢力を一挙に拡大するのではないか、という懸念が維新政府を脅かすのである。そして、その拡大の方向は、樺太であり朝鮮なのである。これが、幕末以来の征韓論者たちに、征韓断行論を促す国際的背景となるのである。
 このように、幕末・維新期における極東の国際状勢の変化には、ロシア問題が常に関係しているのである。これまでの日本史研究では、このようなロシアの問題が「外圧」として組み込まれていないのであるが、この分野の研究は、おそらく幕末・維新期の研究において未解決であった問題に解答を与えてくれるであろう。
 最後に、この問題に関する史料を一つ紹介して、小稿を閉じることにしよう。その史料とは、明治三年五月に当時兵部大輔であった前原一誠が「大に海軍を創立すべきの議」として提出した建議である。
 (1)彼(ロシア―麓)曾て土耳其を取て地中海に突出し亜欧二洲を中断せんとする、英仏力を合て之に抗するを以て果さず、(2)近年黒龍江に沿ひ満州の地を取て我が北海道及朝鮮と境を接し、連ねて皇国支那朝鮮の北境に圧迫す、(3)今若海に突出して良港を得海事を整備するときは其大欲終に制止すべからず
 この史料には、兵部大輔前原一誠が海軍を創立しなければならない、と考えた国際状勢がよく示されている。傍線(1)ではクリミヤ戦争の状況が記され、これを受けて傍線(2)にあるように、幕末以来のロシアの南下と北海道と朝鮮の危機が問題となっている。その上で、傍線(3)のように、ロシアがもし「良港」を得たらロシアの南下は止めることができない、というのである。「良港」すなわち、この状況下では、ウラジオストックの軍港化を指しているのである。
 このように、海軍の創立、という面でもロシア問題がその動因の一つになっていることを強調したいのである。極東状勢を視野に入れることで、従来のイギリスの「植民地化」という「外圧」を問い直すことができるであろう。

「会報」No.7 1998.4.16