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ドロシェーヴィチ『サハリン(監獄)』に描かれたKh.P.ビリチ

2012年4月25日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに
 近年、筆者が研究対象としているフリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ(Хрисанф Платонович Бирич)に関する最初の発表の場は、当会会報23号「研究ノート」(2003年)であった。以来、研究成果は、様々な場で発表してきたが※、集大成と言うべきものは、昨年11月末、筆者が在籍する北海道大学大学院博士後期課程「研究論文II」として提出した「来日ロシア人漁業家ビリチの生涯-流刑の島から大いなる北の海へ」(A4判62頁、未刊行)である。現在は、この論文を基に、博士論文の執筆に取り組んでいるところである。
 さて、当地函館は、漁業家時代のビリチが足跡を色濃く残した地であり、函館でビリチと言えば、「サハリンの金持ち漁業家」、「堤商会」のライバル会社「デンビー商会」の幹部として知られている。しかし、ビリチの全生涯を振り返ってみるならば、19世紀半ば、ヴォルィニ県ザスラフスキー郡シェペトフカ村で生まれ(生年については、1857年、1859年もしくは1860年、1863年と諸説ある)、青年期以降は、准医師、サハリンの流刑囚、サハリン南部の漁場の経営者、カムチャツカの「デンビー商会」漁場の監督官であり同商会が経営する缶詰工場の経営者、ウラジオストクの商人、そして臨時プリアムール政府全権代表としてカムチャツカを統治した政治家などと、様々な側面を持っていた。
 そこで、本稿では、函館で良く知られている「サハリンの金持ち漁業家」となる直前の、流刑地「サハリン島」時代のビリチの姿を、ドロシェーヴィチ『サハリン(監獄)』を通して紹介したい。

描かれたビリチ
 流刑地サハリンの実態を世に広めたのは、何と言っても作家チェーホフの『サハリン島』である。その中で、ビリチについては、移住囚「ビリチ某」として触れられている(第12章)。しかし、人間ビリチに肉薄し、ビリチの本質を見事に描いたものは、チェーホフ来島から7年目の1897年にサハリン島を訪れた社会・政治評論家で劇作家のV.M.ドロシェーヴィチ(1865-1922)の『サハリン(監獄)』(Дорошевич В.М. "Сахалин (Каторга)". М., 1903)を置いてほかにない。
 ドロシェーヴィチは、ちょうどマウカに出張中だったビリチと、偶然にも同じ宿、しかも隣の部屋に泊ることになり、図らずもビリチと深く関わることになった。自著『サハリン(監獄)』には、「ビリチ」という小節まで設けている。
 描かれたビリチは、背が低く、おしゃれには関心がなくみすぼらしい格好をしており、チョッキには、時計ならぬ犬でもくくりつけられそうに「大きな」鎖を付けた中年男である。
 ドロシェーヴィチによって描かれた外貌からは、品性は感じ取れないが、ビリチ自身はインテリ(知識階級)を自称し、教養ある人(=ドロシェーヴィチ)と知り合えたことを喜び、自分の妻が専門学校出で、現在は漁場に住んでいることを話す。と同時に、日本からの漁船到着が遅れているため「何千もの」損益を被ったと愚痴る。ちなみに、ドロシェーヴィチによると、「何千もの」は、ビリチの口癖だった。ドロシェーヴィチは、早くもビリチが俗物であることを見抜いている。
 乞われもしないのに、まるで影のようにドロシェーヴィチの行く先々に付きまとい、宿では大酒を飲んだビリチが、嫌気がさすほどしつこく、そして途切れなく話を続け、特に監獄に対してはすざましい罵倒の言葉をのべつ幕なし吐いた。だが,ドロシェーヴィチは、これはビリチなりの暇つぶしだろう、と軽く受け止めている。
 2人で話している時、ビリチはドロシェーヴィチの膝をぴしゃりとたたく。かと思えば、フロックコートをつかんでほうりだす。はたまた自分の煙草の吸いさしをドロシェーヴィチの小皿の中に投げ捨てる。このように、ビリチは無意味で無遠慮な振舞いを繰り返すのだが、ドロシェーヴィチは、この行動は、ビリチが、「あたかも毎秒毎に相手に対して、自分とあなたとは平等で「遠慮なく」ふるまってもよいということを証明しようとしているかのようだ」と捉えている。
 描かれたビリチから察するに、ビリチが最も憎悪したのは、平然と怠惰な生活を送る自堕落な徒刑囚たちだった。食らって、飲んだくれ、何にもしないでいるろくでなしどもへの鞭打ちは当然だと豪語した。同時に、ろくでなしどもへの懲罰が何ひとつないことに憤慨し、これでは徒刑地ならぬ、ろくでなし奨励の場だ、と怒りを露わにし、ドロシェーヴィチに対して、ろくでなしとは何なのかを世間に知らしめてくれ、と頼んでいる。

「流刑囚上がりの農民」ビリチの苦悩
 1893年にペラゲア・ペトロヴナと教会結婚(正式な結婚)し、「流刑囚上がりの農民」という自由身分に昇格して少なくとも4年が経過していたが、当局の支配を受け続け、その一方で、長年の囚人生活の中で身についてしまった動作やしぐさから自分が抜けきれていないことを恥じ、いたたまれない思いをしているビリチの姿をドロシェーヴィチは描いている。
 ビリチとドロシェーヴィチの2人が町のメインストリートを歩いていると、突然、不意に角から顔をはち合わせるかのように管区長に出くわした。ビリチは瞬時に脇に飛びのけた。「あたかも電流が彼を捉え、頭からひさし付きの帽子を脱ぐのではなく、はぎ取った。」ビリチは狼狽し、ドロシェーヴィチに懇願する。こうしたしぐさを取ったことは書かないでくれ!と。そして、「ここでは多くの我慢をしなければならなかった!」と小声で、苦しげに言った。
 何よりもビリチを苦しめたのは、監獄や徒刑囚のつながれた足枷の音が日々の生活空間の中に存在していることであり、それがある限り、流刑地「サハリン島」から解放されることはなかったのである。
 ただし、こうした苦悩は、ビリチだけのものではなかった。そもそもドロシェーヴィチは、ビリチを取り上げた理由は、ビリチの監獄に対する考えが、元流刑囚が感じる典型的なものだと感じたからで、そうでなければ「彼の小さな身体には、ほんのわずかの注意を払うほどの価値もなかったであろう」、と語っている。チェーホフもまた、『サハリン島』の中で、「流刑囚上がりの農民」の苦悩について、ほぼ同様の指摘をしている。

むすび
 ビリチを「サハリン島」から解放したのは、日露戦争であった。ビリチは漁夫隊から成る義勇兵隊の隊長として闘い、捕虜となった後は、大尉相当の待遇で弘前のロシア人捕虜収容所に収容された。講和条約締結後、本国に帰還するが、サハリンに戻ることはなかった。
 日露戦争でロシアが敗北した結果、北緯50度以南のサハリンは日本領となり、サハリン南部で手広く漁場経営をしていたロシア人漁業家は、サハリンから手を引き、カムチャツカに進出した。ビリチもその一人であった。
 そして、「サハリン島」も、戦後のサハリン徒刑制度の廃止に伴い、流刑の島から解放されたのである。

※ 「Kh.P.ビリチの生涯-20世紀初頭のロシア極東と日本-」「ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア」研究会通信No.5 、「Kh.P. ビリチの生涯‐19世紀末-20世紀初頭のロシア極東と日本」『異郷に生きるIII』所収(成文社、2005年)、「弘前ロシア人捕虜収容所とKh.P. ビリチ」『異郷に生きるIV』所収(成文社、2008年)、「サハリンの元流刑囚Kh.P.ビリチの子供たちと日本の学校」『異郷』(来日ロシア人研究会会報第31号)。

「会報」No.31 2010.1.31