函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

高須治助来函のなぞ

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 今年は、文豪プーシキンの生誕200年にあたり、ロシアでは、記念のシンポジウムが開かれるなどずいぶん賑やかだったようだ。
 ところで、日本で初めてプーシキンの作品が翻訳されたのは『大尉の娘』(但し抄訳)であった。『露国奇聞花心蝶思録』という題名で、明治16年に出版されたが、たしかロシア文学の翻訳としても初めてのはずである。訳者は、高須治助といい、東京外国語学校魯語科を中退した人であった(写真は明治11年の外国語学校時代の高須、「小島倉太郎写真帳」より)。
 この高須が、明治16年2月から1年近く函館に逗留して、2つの仕事をしている。1つは、「函館繁昌記」(原書は漢文体だが、岩波書店の日本近代思想大系『風俗 性』に読み下しが収録されている)という、いわば、函館の風俗案内書の執筆で、もう1つは、明治16年10月4日から12月10日まで、「函館新聞」に「露文和訳 三重比翼の空衣」という題名でフランス小説のロシア語版からの翻訳を掲載した。この時代に、しかも地方新聞に、ロシア語からの翻訳が掲載されているのは、特筆に値するのではないだろうか。
 ところで、N先生から「どうして高須治助は函館に行ったのでしょうか」という質問を受けたのは、もう7年も前のことだったが、今も依然、なぞのままである。
 高須自身は、繁昌記の中で「余有事来航此地、遂留焉」と書いている。いったい、どんな「事」があったのだろうか。岩波前掲書の解説によれば、彼は明治13年魯語科中退後、大蔵省の翻訳課に勤務したが、意に満たない生活を送っていたのだという。しかも、繁昌記の序によれば、文士を志していたという。だとすれば、役人生活から抜け出そうと、旅に出たのではなかったろうか。
 では、なぜ函館だったのか。一つの可能性として、ここに知り合いがいたからという答えはどうだろう。
 東京外国語学校の同窓、小島倉太郎である。小島倉太郎については、秋月俊幸氏の「小島倉太郎少年の魯語学遍歴」(ナウカ社『窓』28号)が詳しいが、明治14年に学校を卒業して、翌年に開拓使函館支庁記録課外事係に採用されていた。
 函館新聞に口を利いたり、何かと面倒をみたのではと思うのであるが、皆様からの情報をお持ちする次第である。

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「会報」No.13 1999.10.25