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アニワ湾のムラヴィヨフ哨所とサハリン問題の発端 ―ここにおいてロシアと日本は遂に隣人となった―

2012年4月24日 Posted in 会報

トリョフスビャツキー・アナトリー

 ロシアの東方進出はある歴史的時点まで他国の国益に直接触れることはなかった。開拓者たちが進出していた地域には国家を持たない先住民族が住んでいたからである。
 状態が転換期を迎えたのはロシア人がアムール流域に進出し、開拓を試みた17世紀の半ばの頃であった。その地域にダウール人など満州人と親戚関係にある先住民族が住んでおり、隣の清国はそれに対し自分の潜在主権を意識していた。繰り返されるロシア人と満州人の衝突は1689年のネルチンスク条約により治まり、両国は勢力範囲を確定した。その後1世紀半にわたってロシアの進出はアジア大陸の北東方面に向けられるようになった。それとともにロシア人のカムチャツカから千島列島沿いの南下は日本に不安を抱かせることになる。ロシア人の千島の南下こそが幕府の北方政策を積極化させ、その結果サハリンの南端部や南千島は日本の支配下に置かれることになる。17世紀の清国と同様に、江戸幕府はロシア人の国境付近への出現を自分の勢力範囲への侵入や国益に反することとして過度に受け止めていた。幕府は北海道、千島、サハリンのアイヌ民族は太古から日本帰属であり、アイヌ民族が住んでいたすべての地域は日本国の主権下にあると考えた。(実際には国後・択捉の首長らは1731年に、サハリンアイヌの首長らは1812年だけに松前を訪れ、ウイマムを献上した)。
 19世紀の半ばに再びロシアと清国・日本との間に領土権をめぐる争いが起こる。今度は極東における欧米列強の外交的・軍事的な行動により国際情勢が急激に変化し、それは東シベリア総督ムラヴィヨフなどの帝政ロシアのエリートの一部に不安を感じさせた。アムール河口やサハリンがイギリス等の外国に占領されないように、ロシアはその地域を予防的に占領することにした。
 1853年4月11日にロシア皇帝のサハリン占領命令が下され、それに従ってネヴェリスコイ海軍大佐はサハリンにおける日本人の拠点であるクシュンコタン(現在のコルサコフ)のすぐそばにムラヴィヨフ哨所を築いた。それは西海岸の久春内に一ヶ月の間存在したイリインスキー哨所を除けば、ロシア人にとって島での最初の拠点となった。
 東シベリア総督ムラヴィヨフはサハリン占領の実施要領についてネヴェリスコイに「サハリン島南端に居住する日本の漁民に不安を与えてはならない。しかして彼らに対しては友好的な態度を示し、われわれのサハリン島占領は外国人の侵略を防ぐためであり、彼らはわれわれの保護のもとに、安全に漁業と交易を続けうることを説明せよ。」と指令を与えた(和訳:秋月俊幸、『日露関係とサハリン島』、筑摩書房、1994年、69-70頁)。
 興味深いのは、当時の文書やこの問題に詳しい歴史家(ファーインベルグ、クタコフ、アレクセーエフなど)の著作にはサハリンに居住していた日本人に関して「日本の漁民」「サマーハウス」(летник)「仮小屋」(времянка)など長持ちしない、一時的な存在の色彩を添える傾向があった。実際には19世紀半ばのサハリンをめぐる露日両国の論戦は植民地の所有権をめぐる争いであったといえる。ロシア側は最初からサハリン南部にあった日本人の漁場は植民地であったことを分からなかったか知らないふりだけをした。
 この争いの特徴は武力行使となる恐れが多分にあったにもかかわらず両国はユニークな方法で、すなわち「雑居」という形でそれを避けることにした。アニワ湾のムラヴィヨフ哨所はある意味で島における日露両国民の「雑居」への道を開いた。その「雑居」はたった8ヶ月しか続かなかったが、1867年に調印された樺太仮規則への第一歩になったといえる。その仮規則によってサハリン島は日露両国の所有となり、雑居が正式に認められることになった。

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唐太クシュンコタン之図(市立函館図書館蔵)

「会報」No.21 2002.7.10 2002年度第2回研究会報告(その1)