函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

厨川勇氏の生涯と業績 ―ご逝去を悼んで―

2012年4月24日 Posted in 会報

小山内道子

突然の訃報とご葬儀
 厨川勇氏が亡くなられた。享年98歳だった。今年4月7日のことである。4月9日の『北海道新聞』に訃報と葬儀を知らせる公告が掲載された。全く予期していなかったご逝去である。今年お出しした年賀状には昨年同様1月下旬にお元気なご挨拶状を頂いていたし、2月27日のお誕生日にも昨年同様お花をお送りし、同居しておられるご長女の阿部恭さんから近影を伝えるお写真を頂いていたからである。是非近々上札の折にお訪ねしようと考えていた矢先だった。前日東京から戻ったばかりで新聞を見たのが午後だったことと、その日は既に断れない予定があったなどで葬儀列席は諦めることになった。厨川先生には是非お別れがしたかったが、もうお話の出来る先生にはお目にかかれないのだ。結局弔電を間に合わせ、翌日恭さんにお悔やみのお手紙と香料をお送りした。
 釧路ハリストス正教会発行の『道東教会報』5月号にピアニストで教会聖歌隊のリーダー役を務める(そのため厨川氏とは聖歌研修会などでご一緒する機会もあった)笠原茂子氏の「厨川神父永眠す」の追悼文が掲載された。以下、その中から紹介させて頂く。まず厨川神父とのご縁を〈笠原家はもともと函館教会所属でしたので、主人の曾祖母、祖母、大叔母達の埋葬式の時厨川神父様のお世話になり、また主人が小学校の時、堂役としてお仕えしたと聞いております〉と認めておられる。
 〈葬儀は4月9日午後6時に前晩梼パニヒダ、10日午前8時に聖体礼儀及び午前10時から埋葬式をセラフィム主教様の司梼、3人の神父・輔祭様(名前は割愛)の陪梼で司祭埋葬式が聖堂をうめ尽くすたくさんの参梼者に見守られながら厳格に執り行われました。
 埋葬式は3時間に及ぶご祈祷で、主教様と3人の神父様達によって四福音書が交代で長く読まれました。〉
 以上のように、葬儀は20年間函館教会の司祭を勤められた神品としてのもので、格式ある荘厳のものだったことがうかがわれる。

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福住のアパートで(1998年6月)

厨川先生との出会い
 厨川先生の約1世紀にわたる長いご生涯の内私がおつき合いさせていただいたのは、最晩年1998年93歳からの5年に満たないわずかな期間だけである。
 その頃私は「戦前の札幌における白系ロシア人の足跡」を調べていて、資料に散見される記録だけでなく、直にロシア人と交流のあった方々を捜し求めていた。1920年代後半から1945年の戦争終結までの期間釧路市でさえ10数人の白系ロシア人が住んでいたのだから札幌市にも、と予測を立てたが手がかりをつかむことが出来ずにいた。
 一番頼りになると思われた『札幌正教会百年史』には、わずかに1行シャルフェーエフ氏に言及した箇所があるだけで、意外にも信徒としての白系ロシア人集団についての記述は一切ないのである。ただ、この『教会史』によって厨川先生が1930年代からは札幌に住んでおられ、札幌教会の中心的な働き手であられたことが分かった。そこで、改めて1994年出版の『函館ガンガン寺物語』と北海道新聞に1995年1月、10回にわたって掲載された「私のなかの歴史」を読み返してみた。そして先生にお手紙を書いたのである。〈、、、先生のご本には、また新聞掲載の「歴史」にも現代のロシア人は殆ど登場しておりません。そこで先生が函館や札幌で直接間接におつき合いのあったロシア人について語っていただけないでしょうか。〉とインタビューさせていただくことをお願いしたのだった。
 2ヶ月ほども経ったある朝、突然先生からお電話があった。朗々たる元気なお声にまず驚いてしまう。しばらく入院されておられた由。早速お伺いする日時の打ち合わせをする。そして、数日後のお昼前札幌教会に近い福住のアパートを訪ねる。先生にはちゃんと計画がおありのよう外出の身支度をして待っておられた。初対面の挨拶などしばらくお話をしてから、タクシーでまず古い信徒で隣同士の親しいおつき合いもあったという窪田さんを藻岩山麓のマンションに訪ねる。戦前お姉さんが嫁いでいた釧路にしばらく滞在し、教会ではベロノゴフさんなどいろんなロシア人とおつき合いがあったというお話などをうかがう。ここで立派なお昼をご馳走になり、3時頃北東部の清田まで取って返し、やはり古い信徒の太田家にお邪魔する。太田家は夫人のお母さんである田村芳さんの父・田村末吉さんが、函館から移り住んだ札幌で最も古い信徒で、白系ロシア人を下宿させ、面倒を見ていたというユニークでたいへん興味深い方だった。この家族は『函館ガンガン寺物語』にも登場する。ここでも話が弾み、合間には先生ご自身の思い出も語られて、時間はかなり経過した。勧められるままに夕飯をご馳走になり、先生のアパートに戻ったのは、日もとっぷり暮れてからだった。次は函館の義姉97歳の石井ワサさんを訪ねましょう、という申し合わせをして、お暇した。とても長い1日だったが、いきいきと座談をリードされる語り口と人格からかもし出されるゆったりしたムードは、93歳というお年を感じさせず楽しいデートの思い出となった。
 先生のお考えでは、1920年代に増加した函館のロシア人は三つの系統に分けることが出来る(一部は革命前からも住んでいた)。一つは、カラリョフのようにちゃんとした会社に勤めたり、自ら会社を経営していた人たち。二つ目は、ラシャの行商をしたり、パンや菓子を売る小さな店やカフェをやるなど市内で何とか生計を立てている人たち。三番目は湯の川、団助沢の荒れ地を開墾し、農業に依存していた旧教徒や貧しい人たちである。1925年頃は100人以上はいたはずで、復活祭などには教会に何十人ものロシア人が集まっていたそうである。ただ先生ご自身は日常的にはカラリョフ家の息子たちと遊ぶくらいで、他のロシア人とは交渉はなかったのである。
 太田さん宅は、その後も独自に何回かお邪魔して、その成果は来日ロシア人研究会で「札幌における1930年代のロシア人模様」として報告し、また、北海道新聞文化欄に「札幌における白系ロシア人の足跡」として紹介させていただいた。
 因に、この頃の先生は手代木俊一氏監修による『明治期讃美歌・聖歌集成』(大空社)のハリストス正教会編執筆を担当しておられ、生き生きと仕事に励まれておられた。最近になって、先生のお名前も入ったこの立派な著作を見せていただいた。これも先生が残された大きなお仕事の一つなのである。

ベラルーシ政府の表彰と『函館ガンガン寺物語』
 心残りなことに函館を訪問するという2回目のデートは成立せず終いとなった。秋頃にでもという約束は、私が9月後半モスクワに出かけたこともあり、釧路―札幌―函館往復旅行はちょっと荷が重い感じで、その年はなかなか具体的に提案できないままとなってしまったのである。そして1999年には2月にずっと入院しておられた奥様が亡くなられ、先生も何度か入退院を繰り返されておられたため、一人暮らしを禁止されてご長女宅に引き取られたのだった。その間2、3回はお電話でお話したものの、最早「お見舞い」という感じの訪問しかなくなっていた。
 この年には先生にとって晴れがましく嬉しいこともあった。厨川氏が最も心酔している初代ロシア領事ゴシケヴィッチの妻エリザヴェータの遺骨を特定して埋葬、墓石を建て守ってきたことに対しベラルーシ政府と在日ベラルーシ大使館から感謝状を贈られたことである。授与の日にはクラフチェンコ大使自ら江別のお宅まで足を運ばれた。先生は20年ぶりに司祭服に身を包み、精魂込めて『函館ガンガン寺物語』に再現した遥かなる140年前の函館に思いを馳せつつ、歴史の恩返しとも言うべき賞状と記念品を受けたのだった。
 私が先生に最後にお会いしたのは2001年の春で、あの闊達さは失われていたものの、まだ函館やロシア人の話を2時間ほどもおつき合いくださった。残念なことに、予定されていた『函館ハイカラ物語』の執筆開始には至っていなかった。
 ご逝去後の6月末お邪魔して、恭さんから思い出や最後の日々のお話を伺った。恭さん宅での約4年間一度も病気もせずに過ごされ、寝込まれたのは死の1週間前からだった。風邪の症状が出て往診していただき、肺炎の診断だったが、穏やかな経過で亡くなられたのである。死の前日の午後、「恭、オレは明日死ぬからな」とおっしゃったという。
 恭さんの思い出。〈子どもの頃は父を変わった人だと思った。浅草オペラの田谷力三に憧れていた父は、歌詞を書いた紙を壁に貼り、ハモニカを吹き、そろばんを鳴らし、お菓子の缶を足で蹴りながら、3人の娘に歌を歌わせていた。学生時代は陸上をやり、短距離の選手。水泳は小さい頃からずっとやっていて、「土左衛門を助けて死にそうになった」こともあるし、スキーも得意で横津岳で滑っていて、片方のスキーをなくした友人に片方を貸して、自分は死ぬ思いをしたなどの逸話も多い。ここに来てから、私に「お前は常識的だなぁ。そんな常識的な生き方でお前は面白いか」と言われてしまった、などなど〉
 先生は戦前函館大谷高女の教員になり、8年間数学、美術、音楽を担当され、1934年の大火以後は札幌に転去して会社経営に参加された。1960年函館教会の司祭になられた後、函館有斗高の非常勤講師を約20年勤められ、数学、工業英語、倫理社会、美術を担当、合唱指導もされている。とにかく多彩な才能に恵まれ、好奇心旺盛で活動的なアイデアマンでもあられたと思う。だからこそ、あの素晴らしい『函館ガンガン寺物語』の筆力が生まれたのではなかろうか。江戸時代末から筆を起こしているが、叙述がとてもヴィヴィットである。著者がまるでその頃その場に居合わせて経験しているようである。この著書は函館の歴史を語る大いなる遺産として著者厨川勇氏の名と共に特に函館市において記念されるべきではなかろうか。
 この著書では教会が中心に据えられているので、世俗の文化史をカバーしなければ、というのが先生の願いだった。書き残されたものはないが、既に先生の頭の中には構想が形作られていたようにおもわれる。私が断片的に伺った中に、岡田氏による私設の函館図書館誕生物語があったし、ダンスホールや写真屋のお話もあったように思う。この稿を終えるに当たって、『函館ガンガン寺物語』と対をなす『函館ハイカラ物語』の執筆者が出現することを切に願い、期待したいと思う。
(司祭であられた厨川先生の追悼文としては、あまりにに一面的であるのかも知れませんが、教会以外のお仕事について私なりにまとめさせていただきました。先生のご長女阿部恭様にはいろいろお世話になりました。記して感謝いたします。)

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ベラルーシ大使館から感謝状を授与される

「会報」No.24 2003.10.1