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函館とロシア極東 ―原暉之氏の連載を読んで―

2012年4月22日 Posted in 会報

清水恵

 『しゃりばり』(北海道開発問題研究調査会発行)という月刊誌に、原氏が"「道」のロシア史 ウラジオストク物語"を連載中である。1995年10月(No.164)から始まり、すでに現在では22回を数えている。毎回充実した内容で、写真も興味深いものが多く、いつも色々な発見をさせられている。
 函館についてもしばしば言及されているが、ロシア極東という枠組みからこの町を見るのも、刺激的であった。ウラジオストクの開基(1860年)と函館の開港は同時代であり、二つの港湾都市が否応なく時代の波にさらされていくのがわかる。ここでは函館に引き付けて、二、三のエピソードを紹介したい。
 ウラジオストクが開かれ、最初にもたらされた輸入品は、函館で購入された物資であった。1860年秋、軍艦グリーデン号が食料品と家畜などを輸送したのである(No.168)。ロシアにとって函館は、極東経営のため、自国艦隊にとって不可欠な中継地であり、原氏も指摘しているように、領事館がここに開かれたのもこれをぬきには考えられない。
 さて、1878年、北海道では函館で初めて新聞が出たが、事実上ロシア極東最初の新聞は、5年後の1883年にウラジオストクで発刊された。その紙名も「ウラジオストク」というが、この新聞に函館在住の通信員が記事を送っていた(No.173)。小島倉太郎という函館県(開拓使廃止後に一時期「県」となる)の官吏で、ロシア語の専門家であった。彼は日本の話題を送る一方、「函館新聞」に「ウラジオストク」からの翻訳記事をのせ、情報の交換が行われていたのである。
 No.173とNo.175にはコレラの話題がある。上水道整備や衛生問題など近代都市として歩み始めたウラジオストクの悩みが、函館とだぶっているようでおもしろかった。1886年のコレラ流行で、函館では患者1,022名、死者846名の犠牲を出し、当時衛生局にいた後藤新平が来函、飲料水と衛生の問題を説いた。コレラの猛威に水道建設の機運も盛り上がり、1889年に完成した。
 一方、井戸水に頼っていたウラジオストクでも、1884年に上水道の改善問題が緊急課題として新聞に掲載された。しかし当局は出稼ぎアジア系住民の不衛生な居住地がコレラの感染源であるとし、衛生環境の抜本的対策に着手せず、彼らを移住させることで当面の解決を計ったのであった。
 病院はどうか。ロシア病院やその医師の功績により、函館には早くから西洋医学が根付いていた。1883年には従来の函館病院のほかに、貧しい市民の治療と娼妓の黴毒治療のために公立病院が作られた。それに比べウラジオストクは1890年当時、陸海軍の病院と公立黴毒病院があるのみで、一般市民用の病院はなかったという。両都市に公立黴毒病院があるのも、開港場の現実であろう。
 ウラジオストクの自国居留民を心配した日本政府は、独自に日本人医師を駐在させることをロシア政府に申請、1891年に実現した。ちなみに明治31(1898)年7月5日の「北海道毎日新聞」には、江差病院長の華岡清洋がその技術の優秀さをかわれウラジオストク在留日本人に招へいされて渡航したと記されている。

「会報」No.4 1997.7.10