函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

私とロシア

2012年4月22日 Posted in 会報

本間孝太郎

 私は現在日本輸出入銀行で極東ロシア向け融資を担当しております。勤めは東京ですが、函館生まれの函館育ち、日本人である前に函館人であると自負している者です。とは言っても、高校卒業以来現在に至るまで十年以上も首都圏暮らしをしており、函館へは年に数回休暇や正月に帰る程度ですから、大人の目で世間を見られるようになってからは、函館の様子をつぶさには見ていないため、現在の函館の状況をよく分かっていないというのもまた事実です。
 函館日口交流史研究会と知り合ったきっかけは、函館大学の永野先生の御紹介で、同研究会のミッションが今年8月中旬にユジノサハリンスクを訪れるに際し、5月末にユジノサハリンスクヘ出張したときの体験なり街の様子を話して欲しいとの御依頼があって、市役所内の市史編さん室を訪問したことでした。私の母は函館で会社を経営しており、私は長男で事実上の後継者にされていて、将来的には函館に戻ることになるため、今のうちから出来るだけ様々な人達との人脈を築いておくという意図もあり、引き受けさせてもらいました。
 今般、11月7、8日に行われた函館日口交流史研究会主催の研究会と市民セミナーの感想文寄稿を仰せつかりましたが、函館の現状に疎い私にとっては今回のセミナーはその具体的な内容よりも自分自身と函館及びロシアとの関わりを改めて考える機会となりましたので、その辺のことを書いてみたいと思います。
 これまでの私のロシアに対する思いは、ひとえに憎悪と憧れのアンビバレンスでした。私は1966年生まれで、その4年前にはキューバ危機が起こり、70年代にデタントは在ったものの正に冷戦の真っ只中で子ども時代を過ごしました。子どもに冷戦の真の意味は分からなくとも1976年9月、小学校のグランドで体育の授業を受けていたその真上を強烈な炸裂音と共にミグ25が降下していくのを目の当たりにするとやはり何となくソ連は不可解な不気味な存在だったのだと思います。
 中学生、高校生と物心が付いてくると、ソ連共産主義(実はこの実体はよく分かっていなかった)に対する憎しみは頂点に達し、深夜、ラジオのダイアルをひねっているうちにソ連極東放送の反米プロパガンダ放送が入ったりすると義憤に駆られたものでした。これは特に私の亡き父親の影響が強かったのですが、社会人となり、多少は会社経営の難しさも分かってきた今にして思えば、一経営者として先代より営々と築かれた資産を引き継ぎ、それなりの苦労もして維持経営してきたものを、「革命」などというクーデターで勝手に取り上げられ、「みんなのもの」にされてしまうという思想など到底許されるものではなかったのだろうし、現在の私も同感です。
 その一方で、父がロシア民謡のファンであったことから、私の家にはペーター・ラガーというドイツ人バスの歌うロシア民謡のレコードがあり、小さい時からボルガの舟歌、ステンカ・ラージン、ポーリュシュカ・ポーリェといったロシア民謡に親しむと同時に、ジャケットの歌詞のロシア文字を眺めつつ一体この文字は人が読めるものなのか、特にшは燭台のようだし、бもワーグナーチューパのようで、どう発音するのか想像を働かせつつレコードを聴きながら一所懸命文字を迫った記憶があります。その後やはり家にあったレコードで、ショスタコービッチの『森の家』をはじめ、チャイコフスキー等々のロシア音楽に触れていくにれ、ロシアの芸術に対する尊敬の念が深まっていったわけです。
 この二つの感情の対立がロシア語習得の欲求となり、大学の第2外国語は、迷わずロシア語を選択しました。因に父は息子がロシア語をやると「赤化」すると思ったのか、猛烈に反対しました。
 冷戦が終結し、共産主義が崩壊した現在、このアンビバレンスの解消は当然のことですが、自分でも不思議なのは、現在のロシアに対し憎悪の念が全く残っていないことです。つまりその憎悪とは社会主義、共産主義即ちソ連に対する憎悪であってロシアに対するものではなかった。そしてロシアに対しては常に憧れしかなかったわけです。そして今感じるのはソ連に対する憎悪も冷戦によって「作られた憎悪」であったということと、旧ユーゴ諸国を始めとし、世界各地の紛争は冷戦に関わらずいかにこの「作られた憎悪」によるものが多いことかということです。
 今回のセミナーでロシア人ゲストの美しいロシア語の音を聴きながらこのようなことを考えつつ感じたのは、函館にはハリストス正教会がある、旧ロシア領事館もある、ロシアは日本の隣国で、函館は昔からロシアとの交流は盛んだったという、函館に住んでいる時は当たり前すぎて意識されなかった歴史、あるいはこれまで冷戦の陰に隠れてしまっていた歴史を再認識し、これから普通の交流をしていかなければならないし、それが我々の世代の使命なのだろうということでした。

「会報」No.6 1998.1.8