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ハルピンの白系ロシア人

2012年4月24日 Posted in 会報

ルスナク・スヴェトラーナ

 ハルビンの白系ロシア人という問題について、日日関係の一面として話したい。
 ハルビンの白系ロシア人の物語は、実に悲劇的である。白系ロシア人のある詩人は、将来、ハルビンがロシア人によって創られたことを覚えている人は一人もいなくなってしまうかもしれないと詩に書き残している。現在、ハルビンに白系ロシア人はたった一人しか残っていない。悲しいことが現実となってしまった。中国では、公式には、ハルビンがロシア人によって創られた街であることに触れていない。そのため、ハルビンの白系ロシア人の歴史は、ロシア時代のハルビンの最後の一ページと言えるだろう。
 ハルビンは国際的な街で、ロシア人のみならず、朝鮮人、ポーランド人、日本人、そして中国人が暮らしていた。1998年、ハルビンでは、大学の研究者達がハルビン創建100周年記念シンポジウムを開催しようとした。しかし、当局から許可されなかった。それは、中国当局は、ロシア人による中東鉄道建設以前から、そこには小さな町が存在していたと考え、ハルビンの町の起こりは中東鉄道建設開始以前からであるという立場をとっているためである。しかし、多くの歴史研究者は、満州を横断し、ウラジオストクと結ぶ鉄道建設が始まった時(1898年)を町の始まりと見なしている。ハルビンは、チ夕方面、ウラジオストク方面、大連方面の交通の要衝となり得る、戦略的に理想的な地点であった。数キロメートルに及ぶ鉄道付属地は、中東鉄道管理下にあったため、満州におけるロシア人の歴史は、鉄道に沿って発展したと言ってよいだろう。
 1898年~1917年までは、ロシアの普通の地方都市と同じ様にハルビンは発展し、初等教育機関から高等教育機関まで開設され、ロシアの行政機関の代表部が置かれた。1917年までに、ハルビンのロシア人人口は約7万人に達した。そして、1917年のロシア革命後、新しいロシアのハルビンの歴史、つまり、白系ロシア人のハルビンの歴史が始まった。当時中東鉄道総督であったホルワット将軍は、中東鉄道に共産主義者を入れないために、鉄道の管理権を中国側に譲った。
 1917年~1924年は、ハルビンの白系ロシア人の歴史の第一期と言える。この時代の特徴は、白系ロシア人の増大である。彼らの多くが中東鉄道沿線に住んだ。1924年、中国のロシア人人口は25万人を数えた。うち、ハルビンのロシア人は10万人に及んだ。1924年10月、中ソの話し合いの結果、中国は中東鉄道の管理権をソ連に返還し、中東鉄道の勤務者は、中国籍もしくはソ連国籍を有する者に限ることが法で定められた。その結果、ハルビンの白系ロシア人社会は、大きな打撃を受けることとなった。すなわち、ソ連国籍を取得したり、中国籍を取得する白系ロシア人が現れ始めたのである。
 1932年~1945年までがハルビンの白系ロシア人の歴史の第二期である。この時期の特徴は、「満州国」が建設されたことである。「満州国」時代、白系ロシア人は少数民族に位置付けられた。
 中東鉄道が「満州国」に売却された1935年以降、ソ連への帰還が始まった。帰還者の数は2万5千人に及んだ。他国へ移住した人達もいた。1930年、中国東北部のロシア人の内訳はソ連国籍者15万人、白系ロシア人10万人、中国国籍者1万5千人であったが、1934年には、ソ連国籍者11万人、白系ロシア人9万人、中国国籍者2万人となった。ハルビンだけでもロシア人は9万人にまで減少した。
 そして1945年、白系ロシア人の歴史は終焉を迎えた。当時、白系ロシア人たちは冗談で、今後ABCの選択、つまり、オーストラリア(A)、ブラジル(B)、カザフスタンなどのソ連の開拓処女地(C)(倉田:ロシア語で「ツェリナー」)に行くという3つの選択が迫られると言ったそうである。こうして、70年に及ぶ、満州におけるロシア人の歴史は幕を閉じた。
 中国籍を取ったロシア人の運命は多様であった。戦後、ソ連に帰還する人がいる一方、米国への移住希望者も少なくなかった。ところが、当時米国は、中国系移民を大きく制限しており、実際には、白系ロシア人は中国人でないものの、中国籍を取得したが故に、米国移住はかなり難しかった。どうしても米国に移住したい人は、まずチリに行き、そこで米国へ行く可能性を待ち続け、かなり時間を経た後に米国に移住することができた。他方、中国籍を取得して中国に残った人達は、中国企業で働いたり、中国政府から年金をもらったりしており、さほどの苦労はなかったと聞いている。(倉田:ロシア人の血を8分の1引くという20代の中国人女性から、「文革時代」はロシア語を解することが周囲に知れると当局に密告され、投獄される恐れがあったため、家庭内では決してロシア語を使わなかったという苦労話も聞いているため、中国籍を取得して中国に残ったことが、他の選択肢に比べて楽な運命を導いたとは言い切れないのではないかと考える)
 さて、国際都市ハルビンは、様々な民族が共存した街であったという点からも興味深い。白系ロシア人が暮らした時代、22のロシア正教会があったが、カトリック教会、ユダヤ教会も建てられた。また、13の医学や技術関係の高等教育機関の他、ロシア人による9つの研究所(東洋学、農業、郷土史研究他)が開設された。また、ハルビンには、帝政ロシア時代の教育方式に則った音楽院(3校)、バレエ学校(2校)、そして、市民が誇る「ハルビン交響楽団」(団員約60人)があった。
 最も興味深いのは、アルメニア人、グルジア人、ユダヤ人、ポーランド人、ウクライナ人といった、ロシア帝国の様々な民族が民族協会を設立し、共生していた点である。1998年に中国で開かれた会議の席上、ある中国人学者が、ハルビンが国際都市として豊かな文化を作り上げたことは、ハルビンの誇りであると述べた。
 様々な民族が相互に影響を与えつつ、共生する中で得た経験は、ユーラシア主義思想の側面からも興味深い。司馬遼太郎は自著『ロシアについて』の中で、日本人がシベリアというプリズムを通じて見たロシア人について書いているが、ユーラシア主義者はこれと非常に良く似た考え方を持っていた。ユーラシア主義とは、1921年にプラハなど東欧の白系ロシア人の間で生まれた思想で、東からロシア史を眺め、歴史を再評価することの必要性を説いた。ユーラシア主義思想は、アジアに暮らす白系ロシア人にも影響を与えたと言われている。
 「満州国」にふさわしいイデオロギーを模索していた日本人も、ユーラシア主義思想には強い関心を寄せた。満鉄調査部の本間七郎氏、彼の上司の嶋野三郎氏および中野氏は、ユーラシア主義者の主な著作を日本語に翻訳した。彼らは、多民族国家の繁栄、つまり、五族協和の上にできた「満州国」の繁栄を考える上で、ユーラシア主義の基本的考え方に特に関心を示した。ユーラシア主義の共同宣言は、日本と「満州国」の共同繁栄の宣言として和訳された。ユーラシア主義者の影響を受けた嶋野氏は、これが今後のアジア人の解放の基盤となるべきであると考えるなど、ユーラシア主義者の思想は、満鉄調査部の知識人たちにかなり大きな影響を与え、新しい国造りに役に立つ思想と見なされたようである。
 東京大学の米重文樹教授は、ユーラシア主義者の思想は、1932年の「満州国建国宣言」にも影響を与えていると考えている。また、米重教授は、五族協和の協力の上に創られた平等な国家という思想は、当時の多くの日本人の目に非常に魅力的なものに映ったに違いないと述べている。しかし、ユーラシア主義者の夢、そして、彼らの影響を受けた日本人は失望する結果となった。実際は、「満州国」は関東軍の管理下に置かれ、理念とは異なり、平等ではない、一定のイデオロギーに支配されてしまった。
 どんなにすばらしい理念であっても、実現された時には期待通りにならない場合があるということに注意しなければならない。「満州国」の場合も然りである。
 近年、ロシアの政界では、ユーラシア主義という言葉が復活している。日本でも、ソ連崩壊後の旧ソ連地域をユーラシアと呼んでいるようである。数十年前のユーラシア主義者と同様の考え方を持つ人もいる。
 ユーラシア主義者が主張した、東からロシア史を見直すという新しいアプローチは、私には、非常に興味深い。

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前列左端がルスナクさん。五島軒本店で

(報告者:アルセニエフ博物館学術協議会書記、報告会通訳:トリョフスビャツキー・アナトーリー、記録:倉田有佳)

「会報」No.20 2002.4.6