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日本軍の北樺太占領末期に函館に避難してきたロシア人(1925年4月~5月)*1

2017年3月16日 Posted in 会報

倉田有佳

はじめに

 1920年から25年までのおよそ5年間、日本軍は、1920年にアムール川下流域のニコラエフスクで700名もの日本人の軍人や民間人が虐殺された「尼港事件」の報復措置として、北緯50度以北のサハリン島(「北樺太」)を保障占領(実効支配)していた。
 1917年のロシア革命、続く国内戦争(革命軍と反革命軍との闘い)を経て、1922年末にソ連邦は樹立されるが、日本政府はこれをすぐには承認せず、北樺太の保障占領は続いた。しかし、1925年1月20日に北京で「日ソ基本条約」が調印され、日本政府はソヴィエト政権を正式に承認したことで、日本軍は北樺太から撤兵することになった。
 この時、日本人および朝鮮人、そして中国人の間に混じり、「親日派」、「資産家」、そして革命軍に敗れた「元白軍の軍人」などの反ソヴィエト派ロシア人が、身の安全を確保するために北樺太を去った。日本軍撤兵のうわさが流れた1924年9月半ばから避難は始まり、撤兵完了期限である1925年5月15日の直前まで続いた。海路で日本へ避難・亡命したロシア人は、300から400名だったと筆者は推測する。
 本稿では、このうち函館に上陸した53名の避難・亡命者に焦点を当てる。

1 北樺太から日本への避難

 北樺太から日本への避難は、亜港(アレクサンドロフスク)から海路で小樽港に向かうというルートが最も一般的だった。移動には、逓信省の命令航路*2「宗像丸」や民間の定期便(運航は4月から10月までの7カ月間)のほかに、日本軍の御用船(砕氷船)で、真冬の2月、流氷を避けながら避難してきた人たちもいた(亜港有数の資産家ペトロフスキー一家など。一家については、本号グリゴーリィ・スメカーロフ論文を参照)。
 小樽に到着すると、税関で旅券もしくは渡航証明書と入国提示金のチェックを受けた。保障占領下の北樺太では、軍司令部が渡航証明書を交付する規則となっていたため、日本への入国の際に大きな障壁となったのは、「入国提示金」*3だった。
 上陸が許可された人たちは、列車で函館へ移動し、連絡船で本州へ向かい、「ナンセンパスポート」*4を所在地の地方長官(現住所の知事。東京府下では警視総監)から発給してもらった。日本に留まる人もいたが(後述のロマーエフ一家)、多くは、南米ブラジル、メキシコ、上海、ハルビンなど第三国へ避難・亡命した。

2 函館で下船した避難民・亡命者

 こうした中には、函館で下船し、しばらく函館に滞在した一団があった。これは、その年の初便となる逓信省命令航路の「宗像丸」に乗って4月12日に亜港を出発し、4月17日に小樽港に到着した56名のうちの53名である。
 「宗像丸」は、1921年の運行表によると、函館-亜港間を4月から10月までに計10便を運行しており、所要時間は、一日目の午後4時に亜港を出発すると、二日目午後6時に真岡に着き、三日目午後2時小樽到着、四日目午後9時終点の函館着となっている。ただし、天候その他の都合で36時間以内の伸縮は、想定範囲内だった(外務省記録『薩哈連占領地施政一件』5.2.6.33)。
 4月12日亜港発「宗像丸」で避難してきた人で、新聞報道*5から名前が確認できるのは表のとおりである。軍政部に雇用されていた人が多かったことがわかる。

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1925年4月29日に警視総監(東京)から発給されたアンドレイ・ロマーエフの「ナンセンパスポート」(写し)(外務省記録3.9.5.25)

 彼らが北樺太を離れる直前の亜港が、非常に緊迫した状況にあったことを示す避難者の次のような談話がある。ハルビンへの避難・亡命を考えていた医師が、ソヴィエト政権側の人間によって留まるように命ぜられたことを悲観し、ヘロインを多量に飲んで自殺するという事件が起こっており、自分たちも、ウラジオストクに向かうと嘘をつき、ソヴィエト側の目を盗み、何とか亜港を離れることができた(『北海タイムス』1925.4/16)。
 そもそも、4月12日というのは、亜港の港にソ連政府が派遣した行政官や、軍隊とその家族を乗せた「エリワン号」が到着し、日本軍からの上陸許可を待つばかりとなっていた。ソヴィエト政府からの報復(身の危険)を非常に恐れていた「親日派」、中でも軍政部に雇用されていた官吏にとっては、これがぎりぎりのタイミングでの脱出行だったことがわかる。
 こうした状況の中で、日本軍はこれまで軍に協力的に働いてきた「親日派」の一団が安全に避難できるよう支援した。避難者のマケーエフは、「私共数十名が亡命するに先立ち井上、高須両閣下が何に呉れとなく援助して下され、剰(あまつさ)へ多分の御金を恵まれ船賃まで自分の懐中より御払ひ下さつた」ため、涙を流して感謝した(『北海タイムス』1925.4/22)、と語っている。

3 函館での一行

 函館に到着した一行の函館上陸後について、一団のまとめ役となったグーセフ元陸軍中将は、自分たちは「万世ホテル」に滞在し、自分は函館に留まり、亜港からの荷物の取りまとめなどを行うつもりだが、他は一先ず神戸に向かうだろう(『函館毎日新聞』1925.4/21)、と語っている。
 だが、上陸直後の4月18日(土)夜から19日(日)午前3時まで続けられたハリストス正教会での復活祭には、「会堂に集まった露人は例年に比べて今年は北サガレン方面より来函中の露人が加はりなかなかなかの盛儀であった」(『函館新聞』1925.4/23)、とあるように、避難民の多くが参加したようである。
 5月7日には、「朝日丸」が函館に到着した(『函館新聞』1925.5/7、『函館毎日新聞』5/9(8日夕刊))。同船は、5月4日に小樽に到着し、一部は小樽で下船するが、函館には17名が到着した(『函館毎日新聞』1925.5/9(8日夕刊))。函館税関によると、1,200‐1,300ルーブル相当の銀貨を携帯している「ブルジョア級」の人たちで、「幾名かは当地経由上海辺に向かふが露人の大部分は函館を永住の地と定めるらしい模様」(『函館新聞』1925.5/7)だった。
 そして5月19日、亜港からの撤兵を完了させた井上司令官一行が、函館で予定されている祝賀歓迎会に出席するため函館駅に到着した。この時、約50名のロシア人避難民が、駅のホームで司令官を出迎え、花輪を捧げた。司令官は、感無量の態で「函館露国避難民団」グーセフ団長と固い握手を交わした。グーセフは謝辞を読み上げ、司令官は英語でこれに答えた(『函館新聞』1925.5/20、『函館毎日新聞』5/20、『函館毎日新聞』5/21(20日夕刊))。亜港では農具の販売などを行っていたグーセフだが、元は白軍将校である。日本軍の幹部クラスと親しい関係にあったのであろう。ただし、ロマーエフ、バベンコ、バラネツの3家族計15名は、4月29日に東京で避難民証明書の発給を受けているため(外務省記録3.9.5.25)、既に函館を去っていた可能性が高い。
 ところで、統計上、函館に暮らす露国籍者(白系ロシア人)が最も多かったのは1925年の157名だった(『函館市史 統計資料編』1987 年)。同年の日本(内地)の露国籍者数は1,176人で、東京の329人(『内務省統計報告』)、神戸の346人(『神戸市史』)に次ぎ、函館は3番目に多かった。
 当時の新聞も、市内の外国人の中でロシア人が近年増えていることを伝え、交番の調べとして、ロシア人が集中している場所は、元町の旧函館商業学校の寄宿舎跡に建つ二階建ての長屋に三軒、元町別院(東本願寺函館別院)前に一軒で、その数はざっと13-14人を数えたこと、そして「亜港から引揚げてきた者で会所町辺にも居るが長屋住ひの外は異動が多い」(『函館新聞』1925.5/19)、と報じている。函館での定住を考える人たちは、この頃までにハリストス正教会からほど近い元町界隈の長屋で暮らし始め、それ以外の人たちは、他都市(関東大震災以降、横浜に代わって亡命ロシア人の集住地域となっていた神戸など)へ移住したということだろう。
 当時は市外(現在の「湯の川」や「銭亀沢」)にもロシア人集落があった。ここには、20世紀初頭、沿海州から移住してきた「旧教徒」と呼ばれる人たちが自己の信仰を厳格に守り、自給自足的生活を営んでいた(中村喜和「銭亀沢にユートピアを求めたロシア人たち」『地域史研究はこだて』17号)。ただし、ロシア革命後、サファイロフのような白系ロシア人の中にもこの近辺で暮らす人が現れていた(清水恵『函館・ロシア その交流の軌跡』)。1925年4月10日付『函館日日新聞』によると、渡島支庁管内に暮らすロシア人は25名、ポーランド人は1名おり、ロシア人の職業は、荷馬車業(男1・女2)、パン業(男3・女3)、農業(男7・女8)、無職(女1)、となっている。
 北樺太から避難してきた一連のロシア人の中で、函館に定住した人がどのくらいいたのか、正確なことはわかっていない。唯一、シュウエツ家が、神戸、ハルビンを経た後、1929年から36年頃まで函館で暮らしたことがわかっている。毛皮商などで成功を収め、1930年に5,000円で建てた邸宅は、現在「カールレイモンの旧居宅」の名で知られている。また、函館のロシア人墓地には、1934年に列車事故で亡くなった(他殺説あり)ドミートリの墓がある。

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元シュウエツ邸(現カールレイモンの旧居宅)

むすびにかえて

 ロシア人避難民の最初の上陸地小樽では、避難者の上陸日時・船名・人数を即時に『小樽新聞』が報じ、『北海タイムス』は避難民の宿泊先の北海ホテルに訪れ、亜港の様子や、「革命後から現在の亜港へ イワン・ペトロフスキー氏談(一)~(六)」や「避難民ローマンス(一)~(三)」などのシリーズで、亜港で名の知られた人物から避難までの様子を聞き出し、詳しく伝えている。 
 これに対して、函館の三紙(『函館新聞』、『函館毎日新聞』、『函館日日新聞』)は、管見の限り、函館で下船した「宗像丸」と「朝日丸」の避難者情報以外は紙面でほとんど触れられていない。本州への連絡船に乗る避難民が函館には続々と到着していたはずにも関わらず、である。
 当時の函館は、日ソ基本条約締結に沸き、全市を挙げて祝い、2月11日の紀元節には大々的な祝賀会が開かれた。祝賀会場となった公会堂には約600人の来会者があり、市中在住の7名の「露国人」(実際は主に漁業関係者の「ソ連人」だった)が来賓として出席した(1925年2月15日「函館市公報」)。市中では商工連合会主催の提灯行列が練り歩き、約5,000人がこれに参加した(『函館市史』)。
 ソヴィエト政府から査証委員長の名目で来函したロギーノフ(東京に大使館が開設された5月半ば以降は、函館の初代ソ連領事となった)を市、商業界、露領水産組合がそれぞれに歓迎会を開くなど、熱烈に歓迎し、その様子を地元三紙はこぞって伝えた。
 ロギーノフが来函したのは、「宗像丸」の一行が函館に上陸したのと同時期で、4月23日に市主催歓迎会が行われた場所は、一行が泊まっていた「万世ホテル」だった。24日からは、査証(ビザ)発給事務を船見町の堤倶楽部(元キング邸)で開始した(『函館新聞』1925.4/24)。露領漁業の出漁基地・函館にとっては、新生ソヴィエトと良好な関係を構築していくことが大事で、漁期の前にロギーノフが着任したことで市民は大いに安堵した。
 それ以外にも、この時期の函館では、サハリン北部の漁区の入札問題(軍政下で契約された邦人漁業者の漁区に対するソヴィエト新政府の承認や借区料の問題等)の行方に大きな注目が集まっていた。そうした状況を考えると、ソヴィエト政権に反対の立場をとる避難民の事件に対して一定の距離を保とうとしたのも頷けよう。それどころか、函館人のしたたかさが見え隠れするようで、筆者には、非常に興味深い。
 1917年のロシア革命、続く国内戦争によって引き起こされた社会的、政治的混乱から生じたロシアから日本避難・亡命の大きな波は、1920年をピークとし、この北樺太からの避難・亡命を以て終りとなった。


*1 保障占領末期の北樺太からの避難・亡命者全般については、倉田有佳「日本軍の保障占領末期に北樺太から日本へ避難・亡命したロシア人(1924-1925年)」(10月発行予定『異郷に生きるⅥ』成文社所収)を参照されたい。
*2  「逓信省命令航路」は、北日本汽船が逓信省に提案し実現した航路で、樺太庁から航海補助金を交付され、北日本汽船が航海を命ぜられた。函館を基点に、小樽、真岡(現ホルムスク)、アレクサンドロフスク経由ニコラエフスクに至る「函館尼港線」は、1921年4月に創設された(『北日本汽船株式会社二十五年史』北日本汽船株式会社、1939年、61-63頁)。
*3 日本への在留を希望する者は1,500円以上、他国へ移住するための一時滞在を目的に入国する場合は250円以上が必要とされた(1920年2月17日警保局通牒『外事警察関係例規集』内務省警保局。1931年、172-173 頁)。
*4  「ナンセンパスポート」は、難民が海外に移動する際に身分を証明する書類のことで、北極探検家として有名なナンセン博士の提唱により、1922年7月20日の第19回国連理事会で可決された。日本では、「露国避難民身元証明書」と呼ばれ、1923年2月1日から発給を開始した。渡航先が未定の場合も発給した。
*5 『小樽新聞』1925.4/16、『函館毎日新聞』4/19、『北海タイムス』4/19、4/22、『樺太日日新聞』4/20。
*6  シュウエツ家については、清水恵「サハリンから日本への亡命者 -シュウエツ家を中心に-」『異郷に生きる -来日ロシア人の足跡』2001年、成文社、77-87頁。小山内道子「大鵬、マルキィアン・ボリシコ、ニーナ・サゾーノヴァそして函館ゆかりのシュヴェツ家について」『函館日ロ交流史研究会会報』No.34。グリゴーリィ・スメカーロフ/小山内道子訳「シュヴェツ家との出会い」『函館日ロ交流史研究会会報』No.35、を参照。

「会報」No.37 2016.7.31  研究会報告