函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

幕末の函館に「ロシアの影」を見たアメリカ人

2012年4月24日 Posted in 会報

清水恵

 日本が開国すると、多くの外国人がやって来たが、その中にフランシス・ホールというアメリカ人がいた。彼が来日したのは1859年11月のことで、「ニューヨーク・トリビューン」紙の通信員としてであった。あるいは1861年に横浜居留地に創立された「ウォルシュ・ホール商会」の経営者というと、知っている人もいるだろう。日本人には「アメリカ一番」とも呼ばれた有名な会社である。
 英文雑誌「イースト」のバーリット・セービン編集長からホールの滞日中の日記(Japan through American Eyes,2001,Westview Press)が刊行されていることを教えられので、早速読んでみた。
 そこには日本語のローマ字表記考案で有名なヘボンことヘップバーンと一緒に、1860年9月に函館を訪問した時の記録もあった。紙幅の都合上、全てに言及はできないが、函館滞在中に彼が体験した「ロシアの影」について述べたところを抜粋して紹介しよう。
 「9月28日金曜日...、船が函館港に近づくと、人目をひく白い建物、ロシア領事館が目に入った。この日の夜、船は無事に入港した。翌29日、空は晴れて素晴らしい朝だった。夜のうちにロシアの軍艦がやってきて、近くに錨をおろしていた。甲板からは函館の街がよく見えた。目立っているものは、白い建物の一群で、洋風の二階建てである。あれは何だろうと思っていると、ロシア軍艦の側面から煙りが巻きあがってきた。8時の空砲であった。すると軍艦と陸上の白い建物から一斉に正十字の旗(アンドレイ軍艦旗、革命前、ロシア軍艦の船尾につけられた)があらわれた―この北方海域にはロシア人たちがいるのである。彼等の勢力は、凍える北の国をはい出して、怪しげな影のように忍び寄っている」
 函館で、彼は自分がまさにロシアの影響力下にいることを肌身で感じとっていた。函館の街では、英語よりもロシア語のほうが普及していたと言い、彼はさらにこんなことを書いている。
「10月6日土曜日...、ロシアは世界のこちら側に港を持っていないことを悲しんでいた。だが、この〈ロシア熊〉はお粗末な冬の家から、ものほしそうな目で、広々として安全でジブラルタルのように難攻不落な港、夏が長くて冬も許容できる寒さにある港、木材や鉄、石炭がみんな安く手に入る港をじっと見ているのである。ロシアにとっては西におけるコンスタンチノープルより東における函館のほうがより重要でさえあるのだ」
 ロシアが北海道を狙っているという噂が流れたことがあったらしいが、実際、ホールの文章からはそういった噂が流れても不思議ではなかった状況が読みとれる。
 ところで、このホールの日記を読んでまもなく、伊藤一哉さんの論考(『地域史研究はこだて』34号)を読んで驚いた。そこには、ロシア領事ゴシケーヴィチが、江戸に「フランク・ホール」という通信員を置いていて、1863年11月16日付けの本国にあてた書簡では、副領事に推挙するほど、その仕事ぶりを評価していたというくだりがあったからである。
 ホールの日記によれば、彼は「フランシス」よりも、「フランク」と呼ばれるほうを好んでいたとあるから、同一人物に間違いないだろう。ホールは、「ロシアの影」に飲み込まれてしまったのか、あるいは影の正体を見極めようとしていたのか、益々興味深い。

「会報」No.22 2003.3.10