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秋の伊豆高原に哈爾濱学院23期生の心を見る

2012年4月24日 Posted in 会報

佐藤一成

 私は以前「会報」に哈爾濱学院の歴史を書いたことがあるが、平成12年はこの学校が現中華人民共和国黒竜江省の哈爾濱の地に創設されてから、ちょうど80周年を迎える年に当たる。また23期生(私もその1人)が昭和47年、第1回同期生会を熱海市の故吉川英治氏の別荘「坐漁荘」(当時旅館として開放)で行ってから、開催地を北の北海道札幌から南下して、九州博多まで、どうやら続いて、今年伊豆の伊東市大室高原のホテルで10月2日同期会を開催、日本を一巡したという記念すべき年である。
 そこで誌面をお借りして、この同期会の模様を紹介したい。吾が23期生は、昭和17年4月入学、同19年9月、4年制の学制を2年半で繰上卒業させられた。当時は大東亜戦争と呼ばれていた米・英他の連合軍を敵として戦っていた戦争は、初戦の勝利の栄光は既に無く、戦況は日々に悪化、遂に昭和20年8月15日、敗戦という運命の日を迎えた。入学当時は100名余りの人数を数えた23期生も卒業時は50名を割っていた。日本では昭和18年の学徒出陣で、文化系大学の学生で徴兵年齢に達していた者は、皆兵役に服することになった。在満大学に学ぶ学生も日本本土と同じ運命に遭遇した。特別甲種幹部候補生、特別操縦見習士官、海軍予備学生等の志願兵、あるいは、現役兵として既に軍務に服していた。
 現在生存している者、55名。(そのうち音信不通5名)今回の集いに参加した者、同期生16名、同伴家族8名、ご遺族の方6名、計30名であった。不参加者の方の大部分は体調不良の故。
 午後、集まって、近況報告と今後の会の持ち方についての意見集約をした。夜、夕食を兼ねての宴会となった。酒が入り、酔う程に、何時しか場所は伊豆の高原から異国の地哈爾濱の地に変わり、70歳半ばを過ぎた老人達の心は若き10代の終わりに遡り、熱き血潮を滾らせ、寮歌を唱う中に青春の想いに浸っていくのであった。その昔と異なるところは、同伴家族、あるいはご遺族の方々の参加であった。共に席を同じにしている夫を見、あるいは亡き夫や、兄を偲びながら、それぞれの青春時代を想って一緒に盛り上がったことであった。
 何か婦人連中の方が元気があって男の方がリードされていたように思ったのは、私だけの思いであったのだろうか。
 当日、私なりに心に残ったことを記してみたい。

第一話 元大使閣下、受付係となること。
 同期生は入学時、各地の俊才が集まったためか、戦後、各方面で活躍した方が多い。当日ホテルの入口で受付係を引き受けて、笑顔で吾々を迎えてくれた2人の友、その1人は誰あろう、秋保光孝君。外務省派遣学生の試験に1年時に合格、戦後外交官試験に合格、東欧、モンゴル等のいくつかの大使を務め、最後はポーランド大使を務めた。ポーランド大使を務める前は、1年数か月、北海道大使を務め、北方領土問題等々に助言をして活躍していたので、北海道人にもなじみ深い人物。当時は横路知事時代であったが、彼は横路知事もそのスタッフも高く評価していたのが印象的であった。
 外国で大使は一国を代表する。閣下という最高の称号で呼ばれる人物である。しかし、学校の同期生会では、上下を脱いで、全く普通の同期生に還り、全国から集まる友人を笑顔で迎え、部屋割り、その他の世話をしている。天下、国家のために喜んで礎になろうとした学院魂の片鱗を見る思いがした。また、時々学友からの日中、日露交流についても、できる限りのアドバイスをしている彼の姿を見て、その学殖と外交経験の豊かさを感じ、またその謙虚さに心打たれるものがあった。

第二話 ロシア学に徹すること。
 前述の秋保君と共に受付を引き受け、遠来の友を世話してくれたもう1人の友。坂本市郎君。彼は戦後、中学校の教員をしながら、主として教育関係のソ連の文献を多数翻訳し、ソ連の教育の研究を手がけ、東大教授の他、戦後の教育改革に多方面に渡って活躍した教育学者、宗像誠也先生に師事。岩波講座『子どもの発達と現代社会』第1巻にも、ソ連の教育に関する一編を執筆している。後、モスクワ大学にも学び、あるいは早くから日ソ親善協会(現日ロ協会)に参加、幅広く日露の交流に努力し、現在は同会理事として活躍している。同期生の中では、1、2を争うロシア語に関するエキスパート。未だに毎年何回かロシアを訪ね、ロシアにおける知己も多い。彼の多くの著書の中で、「ロシア雑学―ことばと文化」(新読書社)は、日本語を教えているロシア人教師にも大変高く評価されている。彼はこの本の内容に続く研究を続けているが、この度も「ABPOPA―オーロラ―極光」と訳している多くの日本人の間違いを指摘、正しい意味を語源から調べて、その結果を解説してくれた。彼もまた、哈爾濱学院の心を受け継いでいる学究の徒である。「ロシア雑学」の続編を期待している。

第三話 偉大なる先輩の1人、杉原千畝に心酔する友のこと。
 今回の集まりの中で、来年度以降の同期生会をどうするかということが話題になった。即ち、今までのように続けるか、それとも毎年同じ場所、例えば東京などで行うかということであるが、来年は自分が主催幹事をやって、皆を世話するから、と手を上げた男がいた。名古屋に住む仲野正君である。場所は未定だが名古屋に近い所にしたいとのこと。そこから参加者全員を岐阜県加茂郡八百津町にある「杉原千畝記念館」に案内して、偉大なる先輩「杉原千畝氏」を偲びたいという。とりあえず来年はそうしようということになった。
 彼については大きな思い出を持っている。昭和22年4月初め、私はイルクーツク地区の日本軍捕虜の引き揚げ部隊にあって、ナホトカ港に到着した。部隊は何日かナホトカに止められていたが、やがて日本に出発した。私は通訳として、ナホトカに残され働くことになった。
 ナホトカの春も過ぎ、そろそろ夏の7月下旬、ナホトカの収容所の外で、「佐藤君でないか」と声を掛けてきた兵隊がいた。仲野正君であった。「君は一人っ子だろう。俺が代わるから、君は帰れよ。」と言ってくれた。「そんなこと出来るのかね。」と言い、しばらく雑談して別れた。この後、私は突然他の引揚部隊に編入され帰国できた。彼に会わずしてナホトカを離れたが、舞鶴港に着いたのは22年の7月28日であった。
 その後日本であった時は、「明治生命」の労組の委員長、次に会った時は「中小企業同友会の全国事務局長」として活躍。その後、日露、日中の交流に努力している。そして今、先輩「杉原千畝」に心酔している。
 この度最も感銘したのは同期生の多くが敬愛して止まなかった大西慶一君の遺書であった。彼は山形県出身で、中学卒業と同時に、南満州鉄道株式会社に採用され、3年目の昭和17年春、満鉄派遣学生として、満州国立大学哈爾濱学院に入学してきた。満鉄秀才5人組の1人で、よく勉強し、よく運動し、多くの友から信頼されていた眉目秀麗な学生であった。だが18年、彼も特別甲種幹部候補生として軍務に服した。20年8月17日。ソ連国境の孫呉の部隊で小隊長として侵攻してきたソ連兵と激烈な戦闘を行い戦死した。
 この度の同期生会に亡き兄の代理として参加してくださった彼の弟君、大西正夫氏の特別のお許しを得て、彼が生家に送った遺言を読ませていただいた。
 祖国のために散っていった、あのころの若人の想いを知ることは、ある意味では混迷という言葉に包まれている今の世に生きる私たちにとって「生きる。」ということは、如何なることかと、改めて考えさせることではないかと想った。合掌。

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今は民間会社が入っているという学院校舎(200.8 撮影)

「会報」No.16 2001.1.20