函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

「函館とロシアの交流」を読んで

2012年4月24日 Posted in 会報

前川公美夫

 北海道の歴史に関心を持ってはいても、札幌に暮らしていると、ついつい目は開拓使が置かれて以降のことに向いてしまいがちである。外国との交流についても、お雇い外国人のアメリカ人を主体に眺めてしまってロシアとの交流史に特段の思いを致すことはないのだが、函館では事情は大いに違っているようだ。
 函館日ロ交流史研究会創立10周年記念としての本書を読んだりペリー来航150年を迎えての活動を見聞きしたりすると、函館ではひとりロシアに限らず、アメリカや、フランス、ドイツなど、北海道が諸外国とかかわりを持ち始めたころから濃いつながりがあったという認識が、複数の世紀をまたいだ現在に至るまで、市民に潜在意識として生き続けているのだろうことを感じさせられる。それらの国の代表格としてロシアがあるのだろう。
 ロシアとの交流史の研究では、水産業を軸とした経済面が主流をなすだろう。人、金、物の動きの大本には経済活動があるのだから、その背景をなす外交交渉ともども、研究の本流にあるべきことは当然である。
 鈴木旭会長の巻頭言「創立10周年を迎えて」には、北洋漁業をめぐる経過が、その拠点都市としての函館市の動きを含めて分かりやすくまとめられており、本書の各論を読み進める上で大いに参考になった。菅原繁昭「ロシア(ソ連)極東諸港と函館の海運事情」も、函館が沿海州、サハリン、カムチャツカを結ぶ要の位置にあることを、歴史的経過の中で理解させてくれる。
 清水恵「ロシア革命後、函館に来たロシア人」は函館が道内におけるロシア人居住の中心地であったことをまず示し、うち幾人かの例を引いてその暮らしぶりを紹介している。その内容のうち、ロシア革命後の外交史をめぐり、ソ連から函館に、正式な国交を結ぶ前から査証官が派遣されていたことが示されている。便宜的な措置であったろうが、「北洋出漁」を滞らせずに行っていこうという、両国間にあった経済活動第一の姿勢がうかがえるようだ。
 その一方で、シンポジウム「大正・昭和期に函館に来たロシア人」は、経済面での交流にまして長く心に残るのが人と人とのつながりであることを理解させてくれる。「大正・昭和期」は、函館の対外交流史の中で注目が集まる幕末から明治初期にかけての時代に比べれば歴史としてはまだ新しいと言えるが、そうであったとしても、関係者が健在のうちに聞いておかなければ消え去ってしまう話が多いだろう。今やっておかなければならない仕事であった。
 そうした人たちの1人として招いた女性の来し方を紹介する小山内道子「ガリーナ・アセーエヴァの歩んだ遠い道のりをたどって」は、ズヴェーレフ家の家族とその暮らしぶりを紹介することにより、函館、さらには東京のロシア人社会の様子を描き出している。
 かねて、函館に限らず、当時のロシア人たちのなりわいの中で、故国の食べ物を出す飲食店のほかに衣類の行商というのを目にしたり耳にしたりしたとき、仕入れ先やお得意先はどんなところだったのだろうと、漠然と考えていた。この論考で、その背後には全国的なロシア人の輸入・行商グループがあったらしいこと、そして、ちょうど日本人の衣服が洋服に切り替わる時期に当たって商売は大きな利益を上げることができたことが示されていて、ようやく納得がいったことだった。
 研究者にとって、新たな事実や観点の発掘には心が躍るものがあるだろうし、その高ぶりは読む方にも及んでくる。
 原暉之「ロシアの新聞雑誌記事に見る洋式船亀田丸の事績(1861年)」の、資料4で、亀田丸がニコラエフスクに携えていった日本の商品が全く先方の関心を引かなかったこと、山田伸一「ロシア領事館前の朝鮮人座り込み」では、函館に来ていた人たちが「本州経由ではなく、朝鮮半島の東北部からロシア沿海方面を経て、海路で北海道に至っていることは、朝鮮半島と北海道の間の言わば『日本海北回り』の人の流れを示して」いたことがそうした例である。
 そのほかにもまた、歴史のひとこまとして書き残しておきたい、あるいは語り継いでおきたいテーマにも心が動く。
 桑嶋洋一「もう一つのロシア交流史―ディアナ号の大砲について―」は、1854年に伊豆下田港で津波に遭い、戸田村に向かう途中で沈没したディアナ号由来の大砲に関しての、函館と横浜を結んでの謎解きである。「おわりに」には、「(横浜で出てきたディアナ号の大砲が)昭和35年の発掘以来、今回まで世に明らかにされなかった理由は、横浜市が日露開国交渉と無関係だったからであろう」という嘆きとも言えそうな筆者の思いが記されているが、他面から見ると、こうしたあたりに函館の研究者の腕の振るいどころがあることを示してもいよう。
 また、ところどころ現れる研究者の感想に、新聞社に身を置く者として、己を振り返ったり、共感を覚えたりするところもあった。
 「ロシア極東から函館に避難したロシア人―1922年秋―」で倉田有佳は、ペトロパブロフスクからの避難民が乗った船2隻の間に起こった騒動と、その取り扱いをめぐる函館側の動きを調査し、函館日日新聞、函館毎日新聞、函館新聞に当たって記事の内容を比較しつつ全体像を探っている。
 函館の歴史を調べるうえで、かつて3つの新聞が競っていたことは貴重である。それぞれの記事が内容を補い合い、また矛盾を見せてくれることを手掛かりに、より真実に近付いていくことができるだろうからである。「新聞情報を鵜呑みにしてはならず、他の資料で検証する必要がある」のはもちろんである。
 当時の記者たちがそんなことを思っていたかどうかはともかく、記事は歴史を文字に刻んでいっている。いまその場にある私にとって、自分がかかわっている記事が、後世の研究者に役に立つことがあればという思いは常にある。
 また、「1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦『アレウト号』の遭難をめぐって」で、清水恵がジョン・ウイルの回想録について、「表には出ない裏話は、逆に信ぴょう性を感じさせるものがある」と書いていることには同感するものがある。
 すべてには触れられなかったが、いずれも読み応えのある内容であった。
(北海道新聞文化部長)

「会報」No.26 2004.9.10