函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

桑嶋洋一さんの思い出と業績

2020年9月 6日 Posted in 会報

 倉田 有佳

 筆者が函館にやって来たのは、2001年4月である。当時は、鈴木旭会長(当時)以下、清水恵さん、菅原繁昭さん、佐藤一成さん、白畑耕作さん(鈴木元会長以外は鬼籍に入った)と、当会メンバー最強の時代だった。当時の桑嶋さんで思い出すのは、五稜郭に中央図書館が完成する前の青柳町の市立図書館で、職員の方からあれこれ注意されている姿だ。だが、生前清水恵さんは「写真史研究家である桑嶋洋一会員の調査にかける熱意はたいへんなものである。いつも「これはどうしてなの、あれはおかしいね」と難題を持ち込まれるが、まともに答えられたためしがない」、と高く評価している(「ニコライが来日の時に便乗した軍艦の名前は?」当会会報16号、2001年)。
 桑嶋さんは、北海道新聞社の写真記者だった。現役時代のことはよく知らないが、東京に勤務していた頃、桑嶋さんが木津幸吉の墓の所在(福島市に墓がある)を確認したという一文を最近見つけた(渋谷四郎「私の写真・記17 先駆者(1)」『北の海』No.103、1981年、33頁)。「写真」への情熱を抱え、あちこち飛び回っていた姿が想像される。
 桑嶋さんが当会に入会されたのは退職後のことかと思われるが、写真への情熱はまったく衰えていなかった。ディアナ号の大砲の行方に関しても熱心に取り組んでいた(「もう一つの日口交流史―ディアナ号の大砲について」(『函館日ロ交流史研究会創立10周年記念誌 函館とロシア』所収、2004年、91-102頁)。
 桑嶋さんが全身全霊を注いだ対象は、言うまでもなく「写真」であり、写真史だった。いつ頃だろうか、家庭用プリンターで印刷したA4版1-2枚にまとめた写真研究シリーズをいただいたのは。だが当時の筆者は、桑嶋さんの写真研究の価値や評価についてほとんど知らなかった。
 ここ数年は、桑嶋さんとお会いするのは、年1回の当会総会の席だった。出欠の連絡もなく、突然姿を現し、筆者の報告の段になると席を立ち上がってスクリーンに映された画像や報告している筆者の姿を無断でおかまいなしにカメラで連写した。「撮らないでください!」と、何度も筆者が抗議しても、耳がよく聞こえない振り(?)をして、平然と撮り続けていた。
 ところが、二年ほど前の総会では動き回ることもなくおとなしくしていた。昨年の総会には欠席された。気の向くままに行動される方であるため深く気に留めもしなかった。そこに今年3月2日、訃報が届いた(享年85歳)。
 昨今、筆者は初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチと木津や田本研造、横山松三郎との関係を調べることになり、今頃になって桑嶋さんの研究成果に感嘆させられている。
 そこで、最後に桑嶋さんの研究成果(函館市中央図書館所蔵分のみ)を紹介し、業績を振り返ることでお悔やみの言葉に代えさせていただきたい。

・「一枚の写真をめぐって」『釧路市立郷土博物館々報』No.256(1979年)、3-4頁。
・「箱館戦争の写真について」北海道文化財保護協会、『北海道の文化』41(1979年)、25-34頁。
・「田本研造と井田孝吉」『Photography in Japan』日本写真協会、(1979年)。
・「函館の写真史」1984年10月20日開催の市立函館図書館「郷土の歴史講座」の講演要旨。
・「函館脱出直前の新島襄写真」『同志社時報』No.82(1987年)。
・「横山松三郎概略伝」『幕末・明治の東京 横山松三郎を中心に』東京都写真美術館編、東京都文化振興会発行(1991年)。
・「木津写真館の開業年について」日本写真協会、『Photography in Japan』(1991年)。
・「函館写真史考(上)(下)」『地域史研究はこだて』17号、18号(1993年)。
・「横山松三郎 〈写真という魔術〉の大衆化 維新東京のトップカメラマン」「FUJITSU飛翔」1996 No.2。
・「ロシアから函(箱)館へ 北海道写真史幕末編」『日本写真芸術学会誌』第4巻第2号。
・「一生を賭けた写真の技術開発 横山松三郎と写真」新人物往来社、『近代を創った77人』2001年。
・「日本への写真渡来について」(「日本写真芸術学会誌」第19巻・第2号)函館産業遺産研究会、『富岡由夫研究資料』2010年。

「会報」No.40 2019.6.23