函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

高須治助訳『花心蝶思録』をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

安井亮平

 1883年(明治16年)6月に、『露国奇聞 花心蝶思録』が東京で刊行された。原作はプーシキンの最後の長篇小説『大尉の娘』(1836年)。わが国最初のプーシキンの単行本である。ロシア文学としてもこれが最初の単行本であった。
 東京外国語学校でロシア語を学んだ高須治助が原作から訳述したのを、当時の人気作家服部撫松が校閲したのだが、今日の理解では到底翻訳とはいえない、独特の作品である。
 原作は、「私」ピョートル・グリニョーフがその体験と見聞を孫のために記した一人称体の手記であるが、『花心蝶思録』の方は、三人称体で、その訳者序文で謳っているように、あくまでもピョートルとマリーヤの二人の若き恋人の「情史」中心である。プーシキン自身の歴史研究『プガチョーフ反乱史』(1834年)を踏まえて描かれるプガチョーフの反乱の様子とか、プガチョーフをはじめとする、恋人たち以外の登場人物の記述とか、風景描写や心理描写は、ほとんど省かれている。その量も原作の五分の一ほどにすぎない。主な登場人物の名前も、たとえば、主人公のピョートル・グリニョーフはジョン・スミス、その父アンドレーイ・グリニョーフはジョン・グリー、その母アヴドーチヤ・グリニョーワはジョネサン・サラムスと、姓と名を混同した、なんとも奇妙なイギリス風に変えられている。
 訳文は、漢文の読み下し体で、各章に七言の題詞が付されている以外、漢詩が随所にちりばめられている。当時もてはやされた、明治初期の翻訳史上画期的な、リットン著丹羽純一郎訳の『欧州奇事 花柳春話』(明治11年)張りである。『花心蝶思録』という題名も、『花柳春話』に倣ってつけられたものらしい。ちなみに『花柳春話』の校閲者も服部撫松であった。
 高須の訳文に服部がどの程度手を加えたか、一体「私」の手記という一人称体の原作が、なぜ、どの段階で、誰によって、三人称体と変えられ、「情史」中心の作品となったのか、などなど、詳かでない点が数多ある。
 『花心蝶思録』は、内容や文体からいって、また分量から考えても、決して『大尉の娘』の翻訳とはいえないのだが、しかし逆に、一人称体の作品を三人称体に改作するという、面倒で困難な作業をいとわず、ヨーロッパの文学作品を、自らのことばと文化に拘りつつ、紹介しようとした、明治初期の先人たちの辛労とがんばりには、頭が下がる。
 『花心蝶思録』について詳しくは、来年1月刊行予定の「新日本古典文学大系、明治篇」第15巻『翻訳小説集 二』(岩波書店)所収の小生の校注をごらんいただければ、幸いです。

 高須治助は、『花心蝶思録』の出版される(明治16年6月、ただし版権免許は前年11月)少し前、2月ころからしばらく函館に滞在した。この時の見聞をもとに、函館の主として花柳界の風俗を描いた、漢文体の『函館繁昌記』を著し、17年に刊行した。
 16年10~12月には「函館新聞」に、フランスの情話(原典不明)をロシア語より翻訳して、人情本風の『三重比翼の空衣』(未完)を連載した。これについては、桑嶋さんと清水さんにお世話になった。改めてお礼申します。
 まだ高須の函館に来た事情とか、滞在期間、その間の生活など明らかでない。どうかご教示のほどお願いいたします。

 研究会で報告した時には、まだ市立函館図書館を高須の件で訪れていなかったので、席上何度かその旨お断りしたのだったが、あの数日後訪ねてみると、案の定、図書館に高須の著書が6部所蔵されていた。その中4部は初見だった。『中央亜細亜露英関係論』の原著者はテレンチェフ、『馬術警策』の方は、マホチーヌイ陸軍少将であった。
 さすがに市立函館図書館。改めて脱帽。報告の前にまず図書館に行くべきであったと、反省することしきり。どうかご海容のほど。

「会報」No.18 2001.10.24