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サハリン島で迎えた日露戦争とビリチの戦後 -ロシア極東国立歴史文書館史料より

2012年4月25日 Posted in 会報

倉田有佳

■ロシア極東国立歴史文書館訪問
 今年3月7日から17日までウラジオストクを訪問し、ロシア極東国立歴史文書館(RGIA DV)での資料調査を行ってきた。場所は、ウラジオストク駅のすぐそばで、宿泊先に選んだホテル「プリモーリエ」から徒歩で10分弱である。
 実は、同文書館の利用は、今回が2度目で、ウラジオストクの総領事館に専門調査員として勤務していた当時(2000年12月)、日頃からお世話になっていた極東大学モルグン教授の案内で訪れたことがある。RGIA DVは、1992年にシベリアのトムスクからウラジオストクに移転してきた(詳しくは『ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア(III)』参照)。同じ建物には、国立沿海地方文書館(GAPA)が入っており、閲覧室も同じ。閲覧室の扉を開けてすぐの机がGAPAの担当者で、右手前方の机に座っているのがRGIA DVの担当者であるとの説明を受けた。
 当時のウラジオストクは、深刻な暖房問題を抱えていた。文書館の閲覧室も室温は常に1-2度、3-4人いる閲覧者も、皆がオーバーを羽織って新聞や史料に向かっていた。覚悟はしていたが、もものの15分も経つと身体が芯から凍えてくるため、廊下に出て、持参した魔法瓶に入れてきた熱い紅茶で暖を取った。
 そのような懐かしい思い出を胸に、10年ぶりに訪れてみると、建物の造作は変わっていないが、廊下の壁紙が新しく、明るい雰囲気になっていた。無論、暖房の心配もなく、閲覧室は机も床も清潔で、非常に快適だった。一方、変り映えしないのは、担当者の女性の対応で、1990年代半ばのモスクワの図書館や文書館が思い出された。また、閲覧者が必要な箇所を黙々と書き写している姿も懐かしかった。昨今は史料の写真撮影が許可されているものの、1ファイル、1ドキュメントにつき800ルーブル(当時:3000円強)と高額であるため、ロシア人学生や研究者は、書き写しが中心とならざるを得ない。
 領事館函館事務所ブロワレツ所長からトロポフ館長に事前連絡しておいていただいたおかげで、行った初日から史料を閲覧することが許可されたが、RGIA DVの閲覧時間は、月曜から金曜日の9時から15時までと短く、しかも「アルヒヴィストの日」だの、まれにみる大雪による急な閲覧室開放時間の短縮もあり、史料の写真撮影は、閲覧最終日にあわてて行うはめになってしまった。
 とは言え、このたびの調査は、私の近年の研究対象であるKh.P.ビリチの生涯のうち、サハリン島時代の空白部分を埋める上で大いに役立った。具体的な成果は、今年末を目処に発刊予定の論文集『日露戦争とサハリン島』の中の倉田担当章に反映させたため、詳しくはそちらをご覧いただくとして、以下、本稿では、函館と関係のある点を中心に、このたびの成果を紹介したい。

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左:ロシア極東国立歴史文書館の看板 右:国立沿海地方文書館の看板

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外観

■日露戦争中ビリチが拿捕した函館からの密漁船
 日露戦争勃発直後、ビリチは自費で義勇兵隊を編成し、自ら隊長となった。そして、RGIA DVの史料を典拠としたサマーリン論文から、サハリン島の沿岸警備に就いていたビリチ隊が密漁船2隻を拿捕したことまではわかっていた。しかし、今回、自分の目で史料を確かめた結果、ビリチが拿捕した船の名前は、「ダイサンカイショーマル」ではなく、正しくは「ダイサンカイチマル」であることが確認できた(Ф 702 оп.1 д.482)。
 この事件については、外務省外交史料館所蔵史料でも調べてみた。すると、1904年4月12日、函館近郊の銭亀沢や石川県羽昨郡の漁夫計63名が、松前郡吉岡に赴くと称し、汽船「東洋丸」に乗りこんで函館を出航したが、吉岡には上陸せず、「第三加悦丸」に乗り換えてサハリン島に密航したことが明らかになった。「カエツマル」を「カイチマル」と聞こえたのは、函館弁の影響だろうか。それはともかく、「ダイサンカイチマル」は、函館の小熊幸一郎所有の「第三加悦丸」のことと考えてほぼ間違いないないだろう。
 実は、「東洋丸」に乗った銭亀沢村出身の漁夫一行が、サハリン島で拿捕された事件については、『函館市史 銭亀沢編』(函館市史編さん室編、函館市出版、1998年、79-81頁)で詳しく述べられている。しかし、「東洋丸」とだけあり、「第三加悦丸」には全く触れておらず、ビリチ隊との接点が見出せなかった。ここにようやく、函館からの密漁船を拿捕したのがビリチ隊であることが判明したのである。
 外務省記録から、「第三加悦丸」が拿捕された状況をたどってみると、1904年4月19日、悪天候の末、ウッスロ(日本時代の鵜城、現在のオルロヴォ)に漂着し、飲料水と焚火を求めて上陸すると、露国守備隊38名が銃剣を伴って陸上の山影から出て来た。逃げ切ることもできないまま拿捕され、5月21日、一同は本船に乗り移された。露国将校1名と兵16名、ロシア側船長1名が同行し、アレクサンドロフスクへ護送された(外務省記録[3. 5. 8. 19])。
 アレクサンドロフスクから先、大陸側のニコラエフスクへ渡り、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスク、さらにトムスク、チュメニ、ペルミとシベリアを横断し、最終的にドイツのブレーメンへと送られ、函館を出航して8ヶ月後の12月6日、長崎港に無事到着したことなどは、『函館市史 銭亀沢編』で触れているとおりである。
 なお、ビリチ隊が拿捕した船ではなかったが、1904年8月7日に小樽から出航した「加茂丸」の乗組員13名は、サハリン西海岸でロシア兵に捕えられると、「第三加悦丸」でアレクサンドロフスクからニコラエフスクに移送され、「第三加悦丸」一行と同様のルートでシベリアを横断し、ブレーメンから日本に送られ、約1年後に神戸港に到着した。その状況は、一行が帰国後に語った「樺太遭難実話」(『北海タイムス』1905年8月26日-9月30日)に詳しい。

■戦場サハリン島でのビリチ
 RGIA DVで今回閲覧した史料は、貴重な情報を提供してくれるものばかりだが、中でも、戦時中に失った自己資産を回復するために、戦後になってからプリアムール総督に宛てたビリチの請願書(Ф. 702. оп. 1. д. 482. л. 209об-210)は、重要だった。
 請願書の中でビリチは訴える。敵の手に渡る前に漁場一帯を焼き払えという軍の命令に従ったため、ウッスロの自宅や倉庫など堅牢な計15の建物、漁場の船、漁労用具類などの資産を失った。軍の指揮官の助言に従い、飼育していた大型角獣の家畜84頭と馬9頭を参謀本部が置かれているアレクサンドロフスクに送り、残る大型の英国種の豚150頭は、屠殺後廃棄処分にした。4人の義勇兵を伴わせ新品の完全武装の木造船を軍に提供した。
 請願書という性格上、ビリチが事実を誇張している可能性は否めないが、日本軍の樺太上陸後、軍の命令に従い、軍当局に積極的に協力したビリチの姿が浮かび上がってくる。

■ロシア側に求めた戦時中の補償
 ビリチが捕虜となり、弘前のロシア人捕虜収容所に送られたことはわかっていたものの、本国帰還直後については空白だった。それが上記プリアムール総督宛ての請願書により、ビリチが帰還後、真っ先に居住登録した場所は、プリアムール総督府や漁場の入札等の問題を所管するプリアムール国有財産局が置かれているハバロフスク市であることが判明した。
 ビリチの戦後は、戦時中に失った自己資産の回復請求から始まった。上述のような莫大な資産を失った埋め合わせとして、かつて日本人が経営していたオリガ湾とプチャーチン島の海面漁区の長期借区権の付与を願い出た。プリアムール総督府官房とプリアムール国有財産局は、ビリチの訴えに善処するが、地元住民に鮮魚を供給することが優先され、これらの海面漁区は、1906年の入札リストから外されていたことが判明し、あえなくビリチの訴えは却下された。

■日本政府に求めた漁場賠償問題
 ところで、日本政府によるロシア人漁業者への補償問題については、セミョーノフ、デンビー、クラマレンコ等の長期契約の特許を有する、いわゆる優先漁場には、120万円の賠償金が日本政府から支払われたことは、清水恵論文で明らかにされているが、ビリチほか15名のロシア人漁業者の漁場については、これまであいまいにされていたため、以下、外務省編『日露交渉史』を基に事実関係を整理しておきたい。
 ビリチら15名も、セミョーノフ、デンビー、クラマレンコ同様、日本政府に賠償を求める。しかし、一年限りの許可を得た漁業者ということで、一旦は日本政府から賠償の対象外と判断される(1908年2月14日付駐日露国公使宛て文書)。しかし、日露協約が成立し、両国の友好ムードが高まる中、ロシア政府は、従来懸案となっていた戦中戦後にロシア側が蒙った損害に関する一括解決を提案していく(1908年8月)。ここにビリチら15名の漁場の賠償問題も含まれることになる。
 ロシア政府は、日本の官憲がロシア人漁業者の漁業権を否認して、ロシア人漁業者が経営していた漁場を日本の官憲が競売にかけたことは、ポーツマス条約第10条に違反する、それと言うのも、ビリチらは、長期漁業借区の条件に服従すべき誓約を済ませており(このたびのRGIA DVでビリチらの誓約書を閲覧。Ф. 1193. Оп. 1. Д. 210. Л. 51)、ロシアの官憲から5年間の借区の特許を与えられるべき予備手続きを完了していたが、日露戦争が勃発したために正式の特許を受ける時機を失っただけで、事実上は長期契約者に等しいからである、と主張した。
 日本側はロシア政府の主張を法的に正しいと考えるまでには至らなかったが、戦後の両国の友好ムードに後押しされる形で、両国政府の閣議決定を経た後、1911年8月26日、他の案件を含め一括解決をみた。
 ここに「南樺太旧露国漁業者救恤金15万円」が交付され、ビリチら15名は、戦後6年目にして日本政府から賠償金を受け取ることになったのである。

「会報」No.32 2010.8.30 研究会報告要旨