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新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって

2012年4月24日 Posted in 会報

中村和之

 北海道の歴史を考える時、アムール川(黒竜江)流域や樺太(サハリン)との接触・交流を無視することはできない。この地域は中国王朝との関係が深く、モンゴル帝国(元)以降も明・清が支配の手をのばしたことが知られている。元は、それまでアムール川流域に置かれていた拠点をすべて廃止し、アムール川下流域のティルに、新たに東征元帥府(とうせいげんすいふ)を設置して支配を強化した。当時アイヌは樺太に姿を現し、ニヴフなどとの間に紛争を起こしていたが、元はこれに介入してアイヌを攻撃し、樺太からアイヌを排除した。
 15世紀の初頭、明の永楽帝は女真人の宦官(かんがん)・亦失哈(イシハ)を派遣し、かつて東征元帥府のあったところに奴児干都司(ヌルカンとし)を設置した。以後、明はアムール川流域・樺太の諸集団に積極的に支配を及ぼしたが、現地で活躍した官吏のなかには、アムール川流域の住民から登用された者もいた。明は、貂皮などの朝貢の見返りとして絹織物を下賜したが、そのなかには竜袍(りゅうほう)・蟒袍(もうほう)などといわれた役人の服が含まれていた。これが蝦夷錦とよばれるものである。
 亦失哈は、奴児干都司に併設して永寧寺(えいねいじ)という寺院を建立し、この顛末を記した石碑を建てた。これを「勅修奴児干永寧寺記」といい、立石は永楽11年(1413)のことである。この寺は現地の先住民によって破壊されてしまい、亦失哈によって再建された。亦失哈はこのことの経緯を記した石碑を建てている。これが宣徳8年(1433)の「重建永寧寺碑記」である。
 現在、この2基の石碑はウラジヴォストクに移されているが、ティルに立っていた時の姿を目撃した日本人が少なくとも二人はいる。一人は1809年の間宮林蔵(まみやりんぞう)で、『東韃地方紀行(とうだつちほうきこう)』にその時のことを書いている。間宮の記事は良く知られているが、もう一人1886年に黒田清隆がこの地に赴き、石碑を見ていることは、ほとんど知られていない。
 この石碑は、明朝のアムール川下流域・サハリン統治の内容を示す貴重な史料であるが、その内容は清朝を築いた満州族にとって都合の悪いものであった。自分たちの祖先が、明朝の支配下にいたことを示す証拠だったからである。そのため、この石碑の存在は長く忘れ去られてしまい、1885年に曹廷杰(そうていけつ)が発見して初めてその存在が知られるようになった。1891年に出版された『吉林通志』の金石志は、曹廷杰の持ち帰った拓本をもとにしたもので、これによって「勅修奴児干永寧寺記」と「重建永寧寺碑記」の内容が知られるようになった。
 『吉林通志』にいち早く注目したのは、内藤湖南である。日本における中国史研究のパイオニアである内藤は、若いときからこの石碑に注目し、良い拓本を得て釈文を完成しようとした。そのため、現在は京都大学人文科学研究所に収蔵される内藤湖南旧蔵拓本は、日本に現存する最良の拓本とされている。
筆者の調査では、現存する、あるいは採拓されたことが確認できる拓本は、以下の4種類である。

 1.金(きん)旧蔵拓本
  永楽碑表 宣徳碑(曹廷杰の採 拓?、1885年?)
 2.白鳥庫吉旧蔵拓本
  永楽碑表・裏(白鳥庫吉の採拓、 1909年)
 3.市立函館博物館蔵拓本(=新発見)
  宣徳碑(採拓の経緯不明、1924年2月1日に受入)
 4.内藤湖南旧蔵拓本
  永楽碑表・裏 宣徳碑(梅原末 治の採拓、1930年)

 このうち1は、残念なことに拓本そのものではなく、拓本の写真である。しかし状況の良い拓本だったようで、吉林省社会科学院の楊暘(ヤンハン)氏は、1980年代にこの拓本を使って「勅修奴児干永寧寺記」・「重建永寧寺碑記」の研究を一新した。2は現在のところ所在不明である。
 したがって、このたび、市立函館博物館の長谷部一弘氏により発見された3の拓本が、日本では最も採拓の時期が古いものとなる。4に比較するとやや墨が薄いなど、拓本の状況は必ずしも良くないが、3と4とを比較し、それに楊暘氏の釈文とも対校することによって、これまで判読が難しかった文字を確定できる。また、デジタル技術で白黒のコントラストを強調するなど、これまでは考えられなかった方法を用いることにより、「重建永寧寺碑記」の釈文の完成に近づけるかもしれない。
 なお「重建永寧寺碑記」の原碑は、現在は屋外に置かれており、摩耗が激しいため、ほとんど判読できない状態だとされている。その意味でも、今回発見された「重建永寧寺碑記」の拓本の価値は大きいといえよう。

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アルセーニエフ博物館所蔵の永寧寺碑の上部。右から左に「永寧寺記」と彫ってある(『白い国の詩』2000.4より)

「会報」No.23 2003.7.1 2003年度第1回研究会報告要旨(その1)