函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

サハリン紀行と日ロミニ・シンポジュウム参加記

2012年4月22日 Posted in 会報

田島佳也

 8月12日、4泊5日のサハリン紀行に函館から出発した。5人の函館日口交流史研究会のメンバーに同行した調査研究である。
 目的は日本統治時代の史料と景観調査、日ロの史的関係についてサハリン学術研究機関との共同研究の可能性を探ることにあるが、幕末アニワ湾でアイヌを使って漁業経営をした紀州商人を以前に研究したことのある私自身にとってはとりわけ前者の調査に関心があった。しかもサハリン郷土史博物館にはその当時の史料があるらしいと聞いたので、接写カメラなどを用意して参加した。
 午前11時45分函館出発。かなり古いアエロフロートのプロペラ機に搭乗し、厚い雲海のなかユジノサハリンスク(人口18万人)に16時(日本時間14時)に着いた。出迎えのユジノサハリンスク教育大学のリム・ソフィヤ先生と十数年ぶりの再会である。早速、サンタ・リゾートホテルに向かい、それから晩餐をサハリンスカヤ通りのレストラン・スラヴャンカで堪能する。
 翌朝、サハリン州近現代史料センター長のヴィソーコフ氏を訪ねる。1925~91年(ソ連崩壊)までセンターはサハリン州共産党執行委員会の近現代資料所蔵館であった。このセンターを含め、建物は一般に補修が行き届いておらず、とくに水洗トイレの故障が目立った。
 さてヴィソーコフ氏の話では、歴史中心のサハリン・クリル研究会が年4回開かれ、この地域対象の教科書作成も手掛けているという。だが、統治の歴史的経緯から仏・独・英・露・日語の文献が混在し、それが研究の進展を阻んでいると指摘され、日口共同研究の必要性が力説された。
 午後は25万点の文書を所蔵する国立サハリン州文書館へ。数日後に定年を迎える館長のデュダレッフ女史の歓迎を受けた。文書館には1945年までの樺太庁時代の資料約千点、樺太警察関係資料(1907~45年)218点、ほかに反政府学生運動資料、外国人スパイ容疑についての資料などがある。書庫では昭和13年(1938)の逓信省電信授受簿・鉄道省の鉄道関係資料などをみ、閲覧室では樺太庁による市町村・産業・日露戦争戦死者についての調査記録、王子製紙落合工場の写真帖などを閲覧した。
 13日は小樽と釧路の姉妹都市、西海岸のホルムスク(旧真岡、人口5万人)を巡見。ユジノサハリンスクから車で約2時間。廃墟の旧王子製紙工場を遠望した。同行の桜庭氏の父上の形見という写生画に描かれた工場の姿を今に伝え、我々を感無量にさせた。
 工場をあとに海岸沿いの道をプラウダ(旧広地)方面へさらに南下、チュソフカ川の河口あたりにアイヌコタンの跡らしき所を発見した。暫し近世のコタンに思いを馳せるが、はるか海上に建つ油田探査機がそれを妨げた。また南下。人気のない漁家が一頻り続くガタガタ道を途中から引き返し、夕方ユジノサハリンスク駅近くの自由市場に着いた。思っよりも品物が豊富である。注意を受けながらも、市場ではリュックの背から携帯カメラが抜き取られ、手痛い経験をした。
 14日の午前中は州立サハリン郷土史博物館(旧樺太庁博物館)を訪ねた。19世紀のアニワ湾漁業関係の写真を見たかったが果たせず、樺太神社跡地を見学した。本殿跡には旧ソ連共産党幹部の宿泊ホテルが建っていた(現在未使用)。また、トイレに利用されている廃墟のコンクリート製校倉造り宝物殿をみて、こうした利用法もあるのかと感心した。
 4時頃からサハリン州近現代史料センターでミニ・シンポ。参加者は日本側出席者が6人、ロシア側が8人。ソフィヤ先生の通訳のもと、榎森進氏が「アイヌ民族の過去と現在」と題して報告した。報告ではおもに19世紀末から明治までのアイヌ民族問題に絞り、生活空間の変遷や松前藩支配下の存在形態、明治政府によるアイヌ政策の特徴を時系列的に述べ、時代的特徴点と相違点を指摘した。
 それから1889年に成立した「北海道旧土人保護法」が、主権在民と基本的人権が認められた第二次世界大戦後も廃止されず、今日までアイヌ差別を温存し続けたこと、70年以降世界の先住民族の発言・主張が高揚するなかで先住権を認めない日本政府の立場や北海道ウタリ協会を中心に先住権や民族議席、民族自立化基金を盛り込んだアイヌ新法成立への運動が高まったこと、97年5月に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興法)の制定をみた経過説明をした。
 最後に、この法律が民族差別と先住権に一切触れていない点で不十分なものの、アイヌ民族の置かれた歴史的経緯から判断して一定の成果であると、氏は評価し、アイヌ民族が新たな転機に直面している現状を訴えて報告を終えた。
 その後、もっぱら榎森氏がロシア側出席者の質問に答える形で進行した。質疑の内容をここでふれる余裕がないが、ロシア側研究者のアイヌ民族を含む少数民族に対する関心がどのあたりにあるか、を図らずも露呈する形になったといえる。と同時に、この問題に対する日口研究者の交流が如何に必要かを再認職させられた。内容の深化は11月に函館で行われるシンポジウムに期すことにして閉会した。
 翌日に帰国。定刻通り10時40分に離陸し、12時30分曇り空に覆われた函館空港に無事着陸。一時的に視界の開けた札幌上空で無機質な大都会を垣間見たが、何故かそこに人間の蠢きのようなものを感じた。日本とは、日本人とは、と改めて考えさせられたサハリン紀行は終わった。

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「会報」No.5 1997.10.6