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函館とウラジオストク:日露交流の歴史から

2012年4月24日 Posted in 会報

原暉之

 1999年の秋、ロシア極東国立総合大学の開学100周年および函館校の開校5周年を迎える機会に、日本海を挟んで一衣帯水の間柄にあり、1992年からは姉妹都市の提携を結んでいる二つのゲイトウェイ・シティ相互の歴史的な絆を3点について考えてみた。
 第1点は、函館の開港とウラジオストクの開基の関係である。
 江戸幕府が日露和親条約によって函館を開港したとき、ロシアはアムール流域の制圧というピョートル大帝期以来の歴史的課題を達成したところであった。ロシア海軍はアムール河口のニコラエフスクにシベリア小艦隊の主港を置き、そこから、間宮海峡を経由して南部沿海州、東アジア諸国へと向かう外洋航路を開拓するが、この航路に不可欠の寄港地として登場したのが沿海州からほど遠くない北日本の不凍港、函館である。
 1854年に「アムールを開いた」、また1855年に「アムールを敵から守った」、そして1858年に「アムールをロシアに取り戻した」とされる東シベリア総督ムラヴィヨフ将軍は、1859年にロシアと清国、ロシアと日本のあいだの国境規定の明確化を目論んで二つの隣国を訪問したが、このとき彼の艦隊は、ニコラエフスク→函館→ピョートル大帝湾→北直隷湾→函館→江戸湾→函館→ニコラエフスクと移動した。
 この航跡だけ見ても寄港地・函館の重要性は明らかであるが、最初の函館寄港ののち清国へ向かう途上のムラヴィヨフ艦隊は、南部沿海州を形づくる湾や岬、半島や島嶼などに一連の地名を与えた。ウラジオストクという地名の発祥も、函館を補給基地としたムラヴィヨフ艦隊の遠征の所産である。また、ウラジオストクの開基(1860年)ののち同港にもたらされた最初の輸入品は、函館で購入した食料品や干し草であったことが知られている。しかし、1866年にロシア海軍函館病院が廃止される頃を境に、ロシアにとっての函館の存在意義は薄れ、長崎が圧倒的優位に立つようになる。
 第2点は、明治期の地元新聞の相互関係である。『函館新聞』は、創刊の年(1878年)、ウラジオストク道産品見本市について記事を載せているが、1884年になると、ロシア極東の地方紙『ウラジオストク』とのあいだで、双方向の情報伝達をおこなう人物が登場する。
 ウラジオストク道産品見本市というのは、維新後10年の殖産興業の成果を示すとともに、対岸貿易の可能性を探るため黒田清隆長官みずからが陣頭指揮をとった、開拓使主催の見本市であるが、函館との関係で興味深いのは、「函館の代表的な経済人の一人」という洋物商、平田兵五郎がこのときのウラジオストク滞在記録を『函館新聞』に発表していることである(菅原繁昭「もう一つの『浦塩斯徳紀行』」、函館日ロ交流史研究会報・No.10)。双方向の情報伝達をおこなった人物というのは、「三県一局」時代の函館県官吏、小島倉太郎である。20代半ばの小島は、『ウラジオストク』の熱心な読者だった。だが、単にそれだけではない。彼はニコライ・ソログープ編集長に同紙の通信員をつとめることを申し出て、それを条件に毎号の郵送をうけ、みずから執筆した記事を投稿する傍ら、同紙の記事を翻訳して地元の『函館新聞』に提供したのである。
 北海道大学附属図書館は、令孫の小島一夫氏から寄贈をうけた倉太郎の遺品として、1884年から1885年にかけて合計48号分の『ウラジオストク』紙を所蔵している。その1884年42号(10月14日)をみよう。「此内ニ投書アリ、千島紀行」という1面欄外の書き込みに案内されて、6面をみると、この年の夏、根室県令・湯地定基に随行して占守島に行き、同島に居住する千島アイヌを色丹島に移住させる措置の実施に立ち会ったときの見聞記が載っている。1885年34号(8月25日)の1面欄外には「哥爾薩[コルサコフ]港ヨリノ脱監人一件アリ、右本年十一月十一日ノ函館新聞ニ投書ス」という書き込みがある。実際、同日づけ『函館新聞』には「囚人の脱監」と題する無署名記事がみられる。
 第3点は、20世紀の初頭、両都市の学生生徒が相互訪問をしている事実である。
 近隣アジアの外国語、外国事情に通じた専門家の養成を目的に掲げて、1899年に設立された東洋学院は、実学の重視をモットーとした。学生に外国研修を課したのも建学の精神を反映していた。1902年に函館を訪れたアレクセイ・コベリョフという名の東洋学院第一期生について、筆者は別の機会にふれたので(「函館を訪れたウラジオストクの東洋学院生」、函館日ロ交流史研究会報・No.10)、詳しくは述べないが、学院の紀要に掲載された彼の研修レポートは上々の出来で、学長をつとめた日本学者D.ポズネーエフも著書『北日本史およびそのアジア大陸・ロシアとの関係史資料』(横浜、1909年)のなかで引用している。
 函館の学校からウラジオストクを訪れたのは、函館商業学校生「浦潮見学団」、1908年のことであった。『浦潮商工業調査報告』に掲載された生徒たちの感想文を読むと、彼らは短い滞在ながら、隣国ロシアに接することで世界に対する視野を培うキッカケをつかんだことがうかがわれる。1910年の東京外国語学校露語科、1913年、1914年、1915年の小樽高商の例に見られるように、日露戦争後、1917年革命前の日本とロシアは、日本から学生生徒の一部が隣国ロシアへ修学旅行に出かけるような関係にあった。函館商業学校がそうした動きのなかで先駆的な位置を占めていたことはきわめて興味深い。

「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 基調講演要旨