函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

地に落ち、豊かな実を結んだ人々 ―『異郷に生きるⅡ 来日ロシア人の足跡』を読んで―

2012年4月24日 Posted in 会報

菅原繁昭

 2002年6月8日、9日、当地の北方歴史資料館を会場に「来日ロシア人研究会」の研究合宿が開かれた。交流史研究会にも案内があり、出席させていただいた。小生は、よんどころない事情から初日の第1セッションしか拝聴できなかった。しかし、この函館合宿で発表された各氏の研究成果をもとに本年4月に成文社から『異郷に生きるII 来日ロシア人の足跡』として刊行されたので、遅ればせながら、あの時の追体験をすることができた。
 本書は6部構成からなる。「1.異郷に生きる」では文字どおり異郷たる日本に生きているロシア人からの聞き書き2編、それに来日したロシア人をマスとして捉え、その来日時期を3波に分け、それぞれの特徴や相違・類似点を総合的に分析したP.ピョートル氏の論攷「ロシア人はいかに来日したか」からなる。
 清水恵さんが聞き手となって纏めた「リュボーフィ・セミョーノヴナ・シュウエツさんに聞く」は、第1集の「サハリンから日本への亡命者―シュウエツ家を中心に―」の続編にあたる。第1集では1936年に函館を離れたシュウエツ家が、神戸を経由して東京に落ち着くが、その後当主となったヴァレーリイ・シュウエツは「在日ロシア人が横浜の外人墓地に埋葬される時には、ほとんど毎回のように立ち会った」と述べられている。第2集の聞き書きでは、話者として登場するリュボーフィさんの妹が1963年に亡くなり、横浜の外国人墓地に埋葬されるが、その際に一切を取り仕切った人物が、ほかならぬ、このヴァレーリイ・シュウエツであり、しかも彼は、のちには話者の伴侶となるという奇縁が語られている。ヴァレーリイは結婚する前にはロシア語通訳の仕事をしており、ボリショイサーカスの仕事もしたという。ボリショイサーカスといえば、1958年に初来日しているが、彼らを日本に招聘したのが函館出身の神彰(作家有吉佐和子の夫、後離婚)であったから、二人はどこかで遭遇していたかもしれない。ちなみに神彰は、交流史研究会の幹事である佐藤一成氏の函館商業学校の1年先輩にあたり、美術部に在籍という縁からいろいろな交流があったという。
 さて聞き書きに戻ろう。リュボーフィさんは、下関で生まれ、長崎で育ち、戦時下も日本に留まる。スパイ呼ばわりされるなど、辛い思いをしたようだが、父親の励ましの言葉で支えられていたという。強制疎開も経験させられ、また米軍機による来襲時には、急降下してきた戦闘機から相手の顔が見えるくらいの低空飛行で、パイロットが自分を日本人ではなく外国人と認識したため、難を免れたといった生々しい体験談が臨場感たっぷりに語られている。戦後は一時、神戸にでて、その後、横浜に移住、結婚して以来ずっと東京に住まいされており、昨年の研究会にも出席されていたのが記憶に新しい。なおリュボーフィさんが軽井沢に避暑に出かけた時のことが回想されているが、ここで私たちは再び函館に繋がる人物に出会う。それはA・デンビーとその妻マリヤ、さらにその妹ニーナ、それに彼女の夫のK・プレーゾの面々である。ちなみに平成元年、プレーゾの手を経て、デンビー一族の肖像画が市立函館博物館に寄贈されているが、昨年、同館の特別企画展において「函館ゆかりの人々」のコーナーでそれらの肖像画が展示されていた。
 次の「2.芸術家たち」は4編からなる。安井亮平氏の「ブブノワとトワルドフスキー」は、日本から帰国して絵画創作のかたわら絵画論や回想記を書き始めたブブノワ晩年の活動を紹介し、文芸誌「新世界」の編集長で詩人のトワルドフスキーとの邂逅と両者の訣別に至る経緯からブブノワの人柄にも言及する。書くという行為が、「目の記憶」=「個人生活のもろもろの面に現れる人間性の光景」を表現するためとするブブノワにしてみれば、「社会的意義」を強調する「ソビエト社会のエリート」たるトワルドフスキーとの間の対立は必然となるだろう、しかも両者の出自や個を形作る時代・環境差もパラレルに対立要素をもたらしたという指摘に同感することしきりであった。
 石垣香津氏の「来日ロシア人の肖像画―画家鶴田吾郎のロシアへの思い」を開くと鶴田の描いた「盲目のエロシェンコ」(表紙カバー参照)が目に飛び込んできた。何か懐かしい人との再会を果たしたような気がした。それが何であったか思い出すのに少々時間がかかったが、7年前に読んだ『新宿中村屋相馬黒光』(宇佐美承)であり、挿絵として使われていたものであった。石垣氏の論攷によって、若い日にロシアに憧憬をもった鶴田吾郎という一人の画家が複数のロシア人の肖像画を書くに至った状況を詳細に知ることができた。『盲目の詩人エロシェンコ』(A.ハリコウスキー)によると、エロシェンコは新宿中村屋を舞台に早稲田大学教授の片上伸らと交流を持っており、1915年7月に、その片上に誘われて北海道旅行を行い、函館では知人の教師大西亀三郎方に滞在している。ちなみに片上伸の父は、片上楽天といい、伸が来函した翌々年の1917年に大西らとともに五稜郭公園の中で懐旧館という観覧施設を開設している(大正6年8月8日付け「函館新聞」)。
 中村喜和氏は、1982年に来日したソルジェニーツインの日本印象記が2000年に「ノーヴィ・ミール」誌に発表されたので、それをもとに要約紹介されている。日本で案内役をつとめたロシア文学者の木村浩には一貫して好意と敬意を示しているソルジェニーツインであるが、日本食をはじめ「日本人の話し方、笑い方、暮らし方、それに心のもちかたまでが、彼の共感を拒んだ」という。苦虫をつぶしたようなソルジェニーツインの顔が目に浮かぶようだ。彼はいつも機嫌が悪いのだろう。そのほうが彼らしい(?)。
 「3.学者・教師たち」では3人の人物が紹介されている。小山内道子さんの「ワレンチナ松坂=宮内の人生の軌跡」は、ハバロフスク生まれのワレンチナさんという女性に焦点をあてている。同地の領事館でロシア語通訳を務めていた松坂与太郎と結婚、のちにハルビンに移り、ソ連参戦により夫は行方不明となる。1952年に夫から日本に行くようにとの便りがあり、子供らをつれて夫の親戚を頼って来日、最初は網走に住み、それから札幌に移る。1955年に夫が抑留生活から解放されて帰国が叶う。しかし彼はラーゲリ生活の後遺症からかワレンチナとの生活に破綻をきたし、一人で上京してしまう。その後、宮内幸雄と再婚。かつて宮内が北大の助手であった時に彼女からロシア語を習っていたが、彼女の子供達の教育にも誠実に対応していたこともあり信頼を寄せられており、二人は結ばれたのである。ワレンチナは1970年から札幌大学のロシア語講師として10年勤める。彼女は講壇だけの先生に留まらず、自宅を開放して学生たちによる「文化ロシアのミニサロン」となっていく。全てを包み込むような包容力のあるワレンチナ先生はどんなに学生達に愛されたことだろう。彼女の晩年にかつての教え子が通い続けたという。「「一粒の種」ワレンチナは札幌の地に落ちて、豊かな実を結んだのである」との結語に然り。
 「4.宗教家たち」では、「宣教師アンドローニクの日本滞在記より」と題し清水俊行氏がニコライを援助するために来日したが病気に罹り、1年足らずの滞在で帰国しなければならなかったことから「今では忘れられた存在」となっているアンドローニク宣教師の人となりを彼の日記をもとに紹介している。この中で函館に関係する興味深いエピソードが目にとまった。アンドローニクの来日から1か月が過ぎたころ、ニコライは彼をどこに配置するか熟慮していた。そんな時に函館の信徒がサハリン(樺太)の優良漁場を得て、その利益の三分の一を教会に捧げるという約束でニコライから親書を取り付け、漁場の提供を受けたが、他の漁場まで侵入して利益を得るという事件を起こす。このため沢辺神父は、事件のために信頼を失った山縣神父の後任にロシア人神父の赴任を求めたが、ロシア人宣教師は日本正教全体の発展のためであるとして、ニコライが函館派遣に難色を示した。
 この事件に関した当時の新聞記事を清水恵さんから教えていただいたので紹介しておこう。明治30年7月12日付け「小樽新聞」に「希蝋教僧侶の漁業」の題で報道されているものである。それによれば、サハリンの西海岸は、かつて日本人に漁業を許可していなかったが、函館の同教神父(日本人某)が教会費補充のために同所に好漁場を開くことが許可された。その神父はニコライ主教からロシア公使あての添書をもらい、それをもとに公使からサハリンのロシア官吏あての紹介状を得て、サハリンに渡り、その請願が受理されたという。「日記」と「新聞記事」の記述はほぼ合致している。記事は、この神父には2人の従者がいるが、漁業の利益は彼らに占められるだろうと締めくくられている。記事中の神父某は「日記」によって山縣神父ということが明らかとなる。また明治31年6月28日付けの「小樽新聞」には、「函館復活正教会」名の広告が掲載されている。函館の下田孝吉と長瀬長兵衛の二人が明治30年6月、7月に「薩哈嗹嶋」のタムラオ、ロモウ、ナヨロ他1箇所において鱒鮭漁業の許可をロシア政府から受けたが、彼らは当教会の代表役員の名義を乱用または詐称出願したものであり、最初から当教会は該事業に何ら関係はなく、ニコライ主教の承認を得て広告するという内容である。先の記事にある二人の従者とは「下田と長瀬」を指すと考えられるから、記事の予測したとおりの結果となったようだ。神父を巻き込んだ信徒による詐欺まがいの事件は正教会にとっては苦々しいものであったろう。
 「5.日本海を越えて」は4編からなるが、倉田有佳さんの「函館における露国艦隊1922年秋」などが所収されている。昨年の函館合宿、そして当会の2003年1月「第3回研究会」での発表と、内容を深めていったものである。概要は会報No.22を参照していただきたい。赤軍によるウラジオストク入城という政変にかかわり函館と小樽に入港した避難民を乗せたロシア艦隊の動向を函館の地元紙3紙を渉猟して、精緻な筆致で描いている。「はじめに」でそれらの艦船の「碇泊港での出来事や出航に至る経緯を明らかにする試み」は成功したというべきだろう。シーシャン号のウラジオストク回航に奔走するデンビー商会のダニチ支配人、同商会がロシア義勇艦隊の代理店を務めているから当然といえば、それまでであるが、水上署と歩調をあわせた彼の敏捷な動きに注目した。また露領漁業でカムチャツカなどへ漁夫や漁業用物資の輸送で用船される機会の多かった第2錦旗丸がロシア人避難民輸送のためにチャーターされるという巡り合わせも奇遇だ。
 「6.資料」は沢田和彦氏による「「日本で出たロシア語定期刊行物」書誌」。1900年代から1950年代までの日本で刊行されたロシア語の雑誌、新聞類の定期刊行物のリストである。所蔵先のリサーチといい、その一覧といい圧巻であり、これは研究者にとり、ありがたい1級品のデータとなろう。沢田氏のご労苦に敬意を表したい。函館関係でいえば竹内清の「週間函館」やアルハンゲリスキーの「日本の新聞雑誌展望」がリストアップされている。
 第2集を読み終えて、主に来日したロシア人の歩み、そして、そこに生まれた人と人との交流、そうした点にスポットを当てた、各自の研究は、歴史研究を包括しつつ、人間洞察という点における深さを表現し得ているように思えた。そして、編者の長縄光男氏の「はしがき」の言葉を借りれば「日本人研究者にとっては、ロシアとロシア人、そしてロシア文化への敬愛の念」があってこそ、はじめて成り立つ作業なのだということも痛感させられる秀作揃いの1冊であった。各著者にあらためて感謝したい。

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「会報」No.23 2003.7.1 新刊本紹介