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沿海地方における日本人墓地

2012年4月24日 Posted in 会報

ゾーヤ・モルグン

 第二次世界大戦終了後、半世紀以上が経過した。ロシア人も日本人も含め何百万人もの運命に悲劇が広がり、癒しがたい傷が戦争を思い起こさせる。人間生活という観点からみたソ連領内の収容所における日本人捕虜の暮らしは、日露関係史における悲惨なページである。
 1988年の夏、私は沿海地方の南部にある墓地への旅に参加することができた。若い日本人の亡骸が眠っている場所に行って、彼らの親戚や昔馴染みの友人たちとしばしの交流を行い、その人々がどう思ったのかを感じたかった。
 ロシア平和基金沿海地方支部は沿海地方在郷軍人会とともに、1991年から日本人捕虜の埋葬されている場所を探して、墓地の整備や記念碑あるいは標識の建立を行い、また1992年3月16日付けの沿海地方政府令に基いた遺体発掘作業が、平和基金の定款ならびに1991年4月18日付けの「軍事捕虜収容所にいた人々について」(日露間の合意による調査)に基いて、地方政府や現場自治体の参加のもとに組織的に行われた。
 研究会での報告については『報告集』を参照していただくとして、ここでは、報告でふれられなかった具体的な資料を紹介しておきたい。歴史的資料からは、113の墓地が確認されている。その内60個所が沿海地方の地図に記されている。沿海地方における埋葬者の追悼という本が出版され、6246人の記載がある。死者の数が最も多かったのは1945年~56年とされている。この頃捕虜が駆り出されたのは、沿海州第18経営団で、「沿海炭坑」コンビナート、「極東鉱山」管理局、「沿海森林」管理局、「極東材木」管理局、海軍第7建設部、同第8建設部、「極東漁業管理局」、「クライトープ」、製鉄工場、発電所(ウラジオストク第1水力発電所、「アルテムグレス」)、太平洋艦隊技術部、合板工場管理局(太平洋工場)、農務省(3個所の米作集団農場)、食品工場(砂糖工場、ウスリスク油脂工場)、沿海鉄道、「沿海建設局」、造船工場(極東工場、当時の第202工場)、道路建設局、そして国境警備隊等であった。
 1945年から46年にかけて到来した冬に高い死亡率を示した原因は、「著しい衰弱の基での非常な低温と気候への不適応、不十分な栄養状態と衛生状態、必要な治療施設の欠如であった」。第15収容所長の記録によれば、「労働は、更に捕虜の健康の悪化と弱体化を招いている。殆どの場合作業場までの歩行による移動は規定範囲を超え、捕虜の作業場には暖かい食物は出されず、沸かした湯もなければ、沸かす場所もない」。第9収容所長は、「10人で構成している班の一つでは、短期間に5人が死亡、3人は隔離室に収容、2人は健康」と第15捕虜収容所長に報告している。死亡の主たる原因は肺炎であった。それ故、捕虜たちはペチカやたき火の近くで暖を取った。傍から離れるとひどく冷えた。全ソ連共産党沿海州地区委員会書記ペゴフ名による極東鉱山管理局の第1捕虜収容所における状況に関する調査書によれば、「2016人の日本人のうち、栄養失調が原因で病気または衰弱のため137人が入院し、400人が全く同様の原因で労働から解放されている。最近日本人の死亡が顕著になった。33人が死亡。1月1日から3月16日までに18人死亡した」。
 1946年4月4日、全ソ連共産党沿海州地区委員会事務局は、「収容所における捕虜の待遇について」の決議を採択した。これにより捕虜のための十分な兵舎が建てられ、居住面積が拡張された。各部屋には洗濯場と乾燥室が設けられた。ノルマを達成しまたはそれ以上を達成した捕虜に食料を増量するため、各部屋には毎月2トンまでのじゃがいもと野菜が配給されることとなった。
 この決議があったにもかかわらず、いくつかの収容所では、1946年の夏から秋になっても未だ捕虜にとっては耐え得る安住の状況にはなかった。集団営林場「チェパル」の近くにある第47収容所で多くの死者を出した原因は、生活と労役に耐え得る条件が欠けていたためであった。遠く離れた収容所まで車路がないため、30キロの沼地を、捕虜自らが手渡しで物資を運搬しなければならなかった。その結果栄養状態が悪化し、運搬に従事する者は急速に衰弱し病気になって、その一部は死亡した。
 全ソ連共産党沿海州地区委員会書記ペゴフ名の報告書の中で次のように伝えられている。1946年8月末現在、早くから「極東鉱山」に送られていた3000名の捕虜のうち195名が死亡、衰弱した者及び病気の者520名を朝鮮に搬送、213名が入院中、350名を収容所の劣悪な生活条件を考慮して他の組織に移した。
 第25収容所の状況報告によれば、1946年には次のような状況が典型的だったことが明らかである。「住設備は、今にも壊れそうな穴居。土の床。採光不良。洗濯や干し物ができる場所はない。不満足な労力使用。労働の生産性は40~60パーセント(スーチャン駅から15キロの第3収容所「カザンカ」)。
 こういった条件下では、多くの日本人は故国へ帰る日まで生きられる運命になかったことがわかる。歴史資料に基づいて、6476名の埋葬者名簿が作られた。しかし、多分、実際はこの数字はもっと大きいだろう。沿海地方管轄にいた捕虜のおよそ10分の1は死亡した。
 後年、収容所の生活条件が好転した。目撃者の話では日本人と近隣の居住地の住人たちや、収容所の軍人の家族との間に暖かい人間的な交流が生まれたことが珍しくなかったという。このことについて、私はこの件にかかわった日本人やロシア人から、何度も話を聞いた。
 二つの戦争で亡くなった人々の霊、すなわち日露戦争後日本の捕虜になったロシア人と第二次世界大戦で捕虜になった日本人の霊は、記憶の架け橋であり、私たちみんなに戦争の悲惨な結果を思い起こさせるものである。

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「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 研究会報告概要3