函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガ

2012年4月22日 Posted in 会報

檜山真一

 わが国のロシア語通訳の草分けで、函館とも縁のふかい志賀親朋(1842―1916)が正教徒だったことは、ほとんど知られていない。二本の彼の小伝には、正教徒親朋についての言及はみられない。小伝はいずれもすべて日本語文献にもとづいている。8、9年前、複数のロシア語文献から、私は親朋が正教徒だったことを知った。親朋研究にとり、この事実は重要である。長崎の悟真寺には志賀家の立派な墓所があり、親朋も仏教徒だとばかり思い込んでいた私には、ちょっとした驚きであった。
 問題の文献と記述は次の通りである。

1、L・パシコーヴァ『極東と東洋のフランス人ならびにイギリス人コロニー(世界一周女性飛行家の日記から)』、オデッサ、1886年。
 「地主で、在サンクト=ペテルブルグ日本公使館元書記官の正教を信じる日本人アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガは、領有地の近くで暮らしている。」

2、フセヴォロド・V・クレストフスキイ「遠方の水域と国々で」―『ロシア報知』サンクト=ペテルブルグ、1886年、第2号。
 「これらの兆候から、V・S・クドリーンはただちに判断した。数年前、在ペテルブルグ日本大使館付書記官だった正教を信じる日本人、アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガ自身がここで暮らしているにちがいないと。」

3、A・A・チェレフコーヴァ 「日本の思い出から。日本の正式晩餐。仏式葬儀」―『歴史報知』サンクト=ペテルブルグ、1893年、第1号。
 「正教を信じる日本人で、約20年前、在ペテルブルグ日本公使館元書記官アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガは、目下、ずっとナガサキで暮らしており、ロシア語をかなり上手にあやつり、市内見学や視察の方面でおおいにロシア人の世話をやいている。」

  いずれも日記体の紀行文で、3人のロシア人は、1880年代半ば、長崎で親朋に会って親しく言葉をかわした。彼等の文章から、この頃すでに親朋は正教徒で、洗礼名がアレクサンドル・アレクセーエヴィチということがわかる。
 数年後、親朋の洗礼の時期が明らかになった。V・グザーノフの歴史的スケッチ「チョウ―チョウ―サン―ロシア版実話」(『極東の諸問題』第1・2・3合併号、1992年)のなかに、次のような記述がみられる。

 「数年後、シガはサンクト=ペテルブルグに赴いた。そこで彼は日本大使館付書記官として勤務し、同地で正教を受け入れて、アレクサンドル・アレクセーエヴィチとなり、姓だけは元のシガを残した。」

 1867年と1874年の2度、職務で親朋はロシアに渡っている。親朋が在ペテルブルグ日本公使館付外務3等書記官となるのは1874年(明治7)のことで、このとき、正教の洗礼をうけたのである。3人のロシア人が長崎で親朋に会ったのは、彼が正教徒になって10年余り後のことであった。
 中村健之介氏の教示で、親朋洗礼時のことが具体的に明らかになった。大正5年10月の『正教時報』の親朋の訃報記事「亞歴山志賀親朋翁の永眠」に、次のようにある。

  「露国在勤中露都にてアレキセイ親王を代父にオリガタウィドヮ夫人を代母として聖アレキサンドルの聖名を以て洗礼を受け(以下略)」

 親朋の洗礼名の父称は、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公(アレクサンドル2世の第4子、ロシア最後の皇帝ニコライ2世の叔父)の名前に由来していたのである。親朋とアレクセイ親王との初対面は1872年(明治5)のことで、来日したアレクセイ親王と明治天皇や有栖川幟仁親王との間に立って、親朋は通訳をつとめた。
 親朋の正教入信の動機、父子の確執などの解明は今後の課題である。父親憲は息子がロシア語を学ぶことを嫌い、函館のロシア領事館付の通訳となることに最後まで反対したといわれる。親朋が正教徒になって3年後、親憲は亡くなった。

「会報」No.10 1998.12.8