函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

聖ニコライ祭に臨んで

2012年4月24日 Posted in 会報

工藤朝彦

 昨年12月に札幌ハリストス正教会の松平康博司祭様から、聖ニコライ祭が没後90年の命日にあたる2月16日に函館ハリストス正教会で執り行われることをお伺いしておりました。函館日ロ交流史研究会の事業参加や息子が所属するサッカーチームと函館のチームとの交流試合引率などで、年数回は函館を訪れておりますが、今回の訪函には特別の感慨で臨みました。
 教会には在札幌ロシア連邦総領事ご夫妻をはじめ各地から日本人やロシア人の信者の皆様が集まられ、ニコライの不朽体を納める「聖体礼儀」が行われました。聖堂では司祭や信者さんが祈りをささげる中、セラフィム辻永昇東日本主教々区主教が金属製のケースに入った豆粒ほどの遺体(東京・谷中墓地に埋葬されたミイラ化した聖ニコライの一部)をニコライを描いたイコンの板絵に納める様子を目のあたりにして、まるで映画の中のキャストの一人になったような、はたまた夢の世界にいるようでした。
 実ははずかしながら、信者でもない私は、事前に案内パンフレットを頂いていたのですが、聖ニコライ祭の聖体礼儀の詳細については知っておらず、この度のモレーベン(祈祷)が日本正教会の歴史上、極めて意義深い出来事であることを当日に実感した訳でありました。亜信徒・大主教聖ニコライが修復されたばかりの函館の教会に戻ってきて、今、白亜の教会がタイムカプセルとなって我々を聖ニコライが生存していた時代に運んでくれたのですから。
 私は、昭和50年代はじめ、ロシア語を学ぶために東京のお茶ノ水にあるニコライ学院に通っていたことがありました。何故ロシア語を学んだかと言えば、早稲田大学では商学部に籍を置いておりましたが、青森港に入港するロシア船を見て育ったこともあり、第二外国語としてロシア語を選択しました。しかしながら、一学年でロシア語の基礎を学んだ後、二学年と三学年での授業はマルクス経済学の原書を読むことが中心で会話はほとんど出来なかった状況、もっと生のロシアと接したい思いであった頃、アルバイト先であったお茶ノ水の「山の上ホテル」の近くでロシア語を教えている学校があることを知りました。
 多分、NHKロシア語放送のテキストに紹介されていたと思います。
 ニコライ学院では、夜間コースに通いましたが、生徒さんの大半は社会人で自分が一番年少でした。最初は単なる語学学校かと思っていましたが、学院の敷地内には、大きな聖堂があったり何か修道院みたいな施設(後で、司祭の養成機関であることがわかりました)があるなど、歴史を感じさせるとともに、ロシア的雰囲気を強く与えてくれたのです。また、同時に聖ニコライという方を知りました。
 そういうことから、大学4年の夏、寝袋を持って横浜港からロシア客船で津軽海峡通過ナホトカ経由シベリア横断鉄道でモスクワ・レニングラード・北欧・英国などまで旅をすることにしました。
 当時は、国鉄お茶ノ水駅を降りると聖堂の半円球が直ぐ見えたのですが、今は高層ビルの谷間の中にすっぽり埋まってしまい、何か寂しさが漂っている感じです。
 さて、聖堂での祈祷終了後、午後1時半からロシア極東国立総合大学函館校で開催された記念講演会は、立ち見がでるほどの盛況でした。概要について述べさせていただきます。

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聖ニコライ

●タチアナ・サープリナ女史(歴史学者で在札幌ロシア連邦総領事のご夫人)
「日本の聖ニコライの宣教の偉業」
・ニコライは24歳の時日本行きを決意し周囲の人々の反対を押し切り、141年前に日本の土を踏んだ。
・日本人の心を理解するために日本語教師の下、日本語をはじめ日本の古代から現在までの歴史、仏教徒の僧侶からは仏教書も学んだ。8年をかけて日本の歴史・文学・宗教に関する知識を身につけたが、方言には苦労した。
・日本人は外国人を避けるとともに憎んでもいた。ニコライが最初に宣教したのは、ニコライを殺そうとした神道の澤辺琢麿だった。当時、日本では洗礼は禁止されていたが、1868年には20名に洗礼を施したが仏教徒が多かった。父のような愛情で人々に接し、聖ニコライを囲む会も結成された。
・ニコライは聖書と使徒経の翻訳を死ぬまで続けた。
・日露戦争時、本国から帰国するよう説得されたが、日本の信者の懇願などにより日本に残り平和を祈りました。しかしながら、日本ではスパイ、ロシアでは売国奴といわれた。
・生活は質素で、継ぎ接ぎの祭服を着ていた。
・ニコライは死に際「私の生涯はかすみのようなものだった。日本での50年は何も出来なかった。私は鋤に過ぎない。土地を耕して使い物にならなくなった鋤は捨てられる。私は捨てられる。皆さん、誠実に絶え間なく土地を耕してください。」と言われた。90年前の葬儀には沢山の人々が参列し、明治天皇からは花輪があがった。
・過去10年間で、ニコライは母国ロシアで注目され、氏に関する本が発行されている。2000年2月16日、故郷のベリョーザ村ではお墓の起工式が行なわれ、函館ハリストス正教会をモデルとする教会を建設する計画も進んでいる。

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函館ハリストス正教会

●中村喜和氏(共立女子大学教授)
「まことの愛の半世紀 聖ニコライの偉業を回顧して」
・一橋大学では、第二外国語としてロシア語を選択した。ロシア語を学ぶためにロシア文化を知る必要があった。
・『宣教師ニコライの日記』を中村健之助さんをはじめ四人で訳した。
・ニコライの思いやりのある人柄は、後にイコン画家となった山下りん宛の手紙からも覗われる。
・ニコライの一生を彼の芸術的なところ、特に音楽の感覚の優れたことについて語りたい。
・ニコライは聖歌を重んじ、明治8年、詠隊のソプラノとアルトを養成する為に正教女学校を創設した。
・聖体礼儀(レトルギー)は聖歌と一体となってはじめてその儀式が成り立つ。
・明治12年、ニコライの二度目で最後の帰国時、聖歌を聞いた印象を、「ペテルグルグのネフスキー修道院の聖歌は実に素晴らしい。一方、神学大学付属聖堂の聖歌隊は以前ほど良くない。バスが劣る。」と述べている。
・明治36年、お茶ノ水駿河台で正教新聞主催のコンサートが開かれ、ニコライの好んだ曲「バビロンの川辺」や「ヘルビムの歌」などが演奏され、大変感動された。当時、コンサートは教会だけの催事ではなく、知識人が集まる文化的行事であった。
・ニコライは信仰には形式(聖歌・儀礼儀式)と内容(心と精神)があるが、内容がよければ形式にこだわる必要はないという日本的な考え方もあるが、形式も重要であると言われた。
 中村喜和先生はこの3月で70歳の定年を迎えられるとのこと。

●アレクセイ・ボゴリュボフ氏(エルミタージュ美術館学芸員)の報告
 また、山下りんの研究者で岡山大の鐸木道剛先生の紹介で、エルミタージュ美術館日本文化部学芸員でニコライの研究者でもあるボゴリュボフ氏から当該施設に保管されている絹の巻物に描かれた昔の箱館絵図(縦50㎝×横80㎝、ロシア領事館付属教会も見える)のスライドによる紹介があり、大変興味深い一齣でした。
 正教会信徒会館内に展示された遺品を見た後、17時台発の津軽海峡線で青森へ帰る予定でしたが、聖ニコライが身長182センチの大男であったことを窺わせる祭服のフェロン・マンティア・サッコスをはじめ、愛用されていた品々、直筆の手紙、文献、眼光鋭い自身の写真、1891年に建立された当時やその後の改築時の東京ニコライ堂の写真など興味尽きない数々の展示品に見入ってしまい、列車の出発時刻を忘れてしまい一列車遅らせることになりました。信徒会館を出る頃は、既に薄暗くなっていましたが、夕暮れの青空に浮かび上がった塗り替えられた白壁のガンガン寺が眩しくてしょうがありませんでした。
 司祭の皆様が打ち鳴らす鐘の音は一層大きく力強い響きとなって坂を下りてテクテクと歩いて函館駅に向かう私の耳にはいつまでも余韻が残っていました。これまで何回も聞いていたのですが、今回ほど活き活きした音ではありませんでした。
 「ああそうか イオアン・ドミトリビッチ・カサートキン(ニコライ)が巨体をゆすりながら鐘を打っているからだな」とふと思いました。

「会報」No.20 2002.4.6