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亡命ロシア人作家バイコフと大連の小学校教師宗像英雄の交流の軌跡

2012年4月22日 Posted in 会報

清水恵

 1996年の秋頃、会員の佐藤一成氏からお電話をいただいた。このたび極東大学函館校の図書室に元小学校長宗像英雄氏の遺品である図書が収蔵されたとの由。その話の終わりに「バイコフの奥さんの手紙がご遺族のところにあるそうですよ」、と聞き捨てならないことをおっしゃられた。こうして思いがけず、バイコフと宗像英雄に交流があったことを知ったのである。
 バイコフは1957年にオーストラリアに移住するまで、人生の大半をハルビンで過ごした。最初は、ロシア帝国の軍人として、後半は亡命ロシア人としてだった。
 川村湊の表現を借りれば、「すでに六十八歳だったバイコフを、樹海の中から連れ出し、満州文学の世界に登場させたのは、長谷川濬」なのであった。バイコフはロシア語で作品を発表していたが、初めて彼の作品『偉大なる王』を邦訳したのが、長谷川濬なのである。このような形容は不本意だろうが、海太郎(林不忘)の弟で四郎の兄である。
 菊池寛などにも認められバイコフは一躍、時の人となった。そして本人の意向はどうあれ、「五族協和」を体現するシンボルとして、政治的なものと無縁ではいられなかった。
 その中にあって、当時大連の小学学校教師だった宗像英雄とその生徒とは、真に純粋な友情で結ばれていたといえるだろう。バイコフの作品に感動した小学生たちが、絵を描いて作家に贈ったことが発端で、それから四年間、書簡がやりとりされたのである。
 宗像が約50枚ほどのトラの絵を持参して、初めてハルビンのバイコフ邸を訪ねたのは1938年の3月6日のことであった。宗像がこの初対面の印象を綴った訪問記が残っている。雑誌にでも掲載する予定だったのだろうか。末公表のようなので、いつか紹介できればと思う。
 宗像とバイコフがどれぐらい親密であったか、残された遺品だけでは判断がつきかねる。しかしバイコフは原書を贈って翻訳を依頼したし、満州の自然を愛する者同士という共感もあり(宗像は植物研究者でもあった)、かなり心は通じ合っていたのではないかと推察される。
 しかし、二人の出会った時代は最悪だった。戦争が終結をむかえようとする頃に宗像は現地で召集をうけた。それでも幸運にも生きぬいて、1947年に函館に戻った。一方バイコフは、これまでの親日家ぶりから、誰の救援もなく、ハルビンの厳しい世間に、立ちむかわざるを得なくなった。
 1958年バイコフが移住先のオーストラリアで亡くなったことが報道された。宗像は彼を忘れてはいなかった。夫人に手紙を出して、あの原書を翻訳して日本で出版しようとしたのである。上脇進の翻訳だが、その際植物名の翻訳は宗像が尽力した。この本は岩波書店から『私たちの友だち』として出版された。
 宗像の自宅の机の上には、ずっとバイコフの写真が飾られていたという。生前にお会いできなかったのが本当に悔やまれる。

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「会報」No.5 1997.10.6