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北海道函館商業学校ロシア語担当教員中、最近当時の状況が判明した3名について

2012年4月24日 Posted in 会報

佐藤一成

 『函商百年史』(1989年[平成元年]3月30日発行)の184頁―第一編 沿革〈全日制〉の処を見ると、「函商における露語教授者」として、5名の教員の氏名が見える。今回、筆者は、このうち初代の山村栄亀氏、第5代徳武良信氏、そして本史に記されてない第6代目に当る成田ナヂェージダさんについて、調べた処を報告したい。

 1、山村栄亀氏(前掲百年史では英語・露語教授とあり、又182頁には同氏は東京高商出身とあり)は、後に教頭となるのであるが、筆者は東京高商なる学校でロシア語を学習したのであろうかと思い、この学校の後身である現一橋大学の学園史資料室に山村氏の件につき調査依頼をしたところ、次のような回答があった。
 「山村栄亀氏は、明治15年7月東京外国語学校ロシア語科を卒業。勤務先―在日本ロシア公使館。外語卒業後東京商業学校に入学せるも中退。この時勤務先は函館商業学校」
 東京商業学校は明治20年9月より高等商業学校となった。この学校でロシア語を教え始めたのは、明治26年からである(『一橋大学学園史』―ロシア語の部:中村喜和氏著作担当、昭和61年刊)。一橋大学学園史資料室の松村美子氏より資料ご寄贈、加えて種々ご教示頂きましたことに、記して感謝申し上げます。

 2、徳武良信氏(長野県派遣学生)は1920年(大正9年)9月24日満州哈爾濱に創設された日露協会学校の第1期生である(この学校は日本文部省令による3年制の専門学校。目的は対ロシア、後にソビエトの専門家の養成。外務省監下の日露協会による経営。後昭和7年より15年まで、哈爾濱学院、以後満州国に移管され満州国立大学哈爾濱学院[4年制大学]となる。昭和20年8月廃校)。
 徳武氏は大正12年3月25日に卒業し、日魯漁業株式会社に入社する。昭和16年には、日魯漁業株式会社函館支社事業本部外事部第1外事課整備係主任となっている。
 昭和14年から16年頃までロシア語の授業を担当していたが、非常勤講師であったろう。終戦後、昭和41年4月刊の哈爾濱学院同窓生名簿にカナダ移住とある。夫人はナターリア(ポーランド系ロシア人)さんといい、娘さん2人は函館遺愛女学校を卒業した。昭和54年バンクーバーにて死去された。

 3、成田ナヂェージダ氏(ロシア語担当時期は、昭和17年~昭和19年?)は、本名をナヂェージダ・ドミトリエブナ・サンプルスカヤ(日本名ケイ子)といい、1903年(明治36)9月17日、ロシア沿海州ニコラエフスク(現ニコラエフスク・ナ・アムール)に生れる。同地の女学校卒業の頃、尼港事件が起き、日本の軍艦で樺太の真岡に避難、日本人医師のもとで働くも、望郷の念止み難く、帰国に必要なヴィザ取得の為東京へ。東京でヴィザ取得が長引いていた時、関東大震災に合い、函館に避難。函館に来たのは、ロシア人が多く、又ロシア語通訳が沢山居ると聞いていたから。函館で縁あって成田実氏と結婚。成田氏は小さな漁業会社に勤めていて、北洋漁業に従事していたが、会社が日魯漁業に吸収されたので、日魯の外事係として働く。ロシア語は若い頃、漁場でロシア人と接するうち覚えたのであろう。42歳の時漁場で倒れ、帰函。結核で10年間柏野に在った函館療養所で療養するも死亡。この間日魯は良く面倒を見てくれたと云う。後にナヂェージダさんも日魯で働いたとのこと。子どもは男3人、女2人に恵まれたが、「合いの子」とよく云われ、悲しい想いがしたと云う。それで男の子2人は、千葉県の柏市の予科練にやったとのこと。(終戦後無事帰還した。)
 戦時中家が時任町にあり、同じ隣組に商業学校の校長公宅があり、ナヂェージダさんは良く遊びに行った。校長は立野與四雄と云った。夫人の外に2人の娘が居て、ナヂェージダさんを「成田のママさん」と歓迎した。ロシアの民話を聞くのが、とても楽しかったと姉の恵美さんは云う。立野夫人はナヂェージダさんの良き相談相手となった。ナヂェージダさんの処は子どもも多く、家計は苦しかった。そのことを知った立野校長はナヂェージダさんを、商業学校のロシア語講師に迎えた。
 その時ロシア語の授業を受けた本間哲男氏は、戦後、図書館第1分館で、ロシア語の市民講座をナヂェージダさんを講師に長いこと続けたのであった。又当時、商業学校で英語の教員であった屋代玲子(現奥座玲子)さんは、立野校長から「これからは隣国ロシアとの交渉も大切になるだろうから、生徒にロシア語を勉強させたいので、よろしくお願いする」と教職員にナヂェージダさんを紹介されたと語った。
 ナヂェージダさんは終戦後、北大水産学部でロシア語の非常勤講師をされた。(昭和44年4月14日~51年3月31日)
 昭和59年4月21日死去。(肺癌の為)成田家の墓は高龍寺にあったが、ナヂェージダさんはロシア正教徒として、函館山の裏手の正教会墓地に、夫実氏と共に眠っておられる。
 筆者も同じ頃水産学部に同業で勤めていたので、週1回の授業日にお会いしたことを懐かしく想出している。

「会報」No.21 2002.7.10 2002年度第2回研究会報告(その2)