函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

失われた墓碑銘 ―函館のロシア人墓地

2012年4月24日 Posted in 会報

菅原繁昭

 先般、当会世話人の一人である清水恵さんから、市立函館図書館蔵の「墓地関係書類 函館正教會」という史料をみせていただいた。表題通り、函館ハリストス正教会の墓地に関わる様々な書類の写しを集めたものであるが、そのなかに昭和24年3月28日付けで函館ハリストス正教会から大蔵省管理局長宛に提出された「連合国人墓地調」という書類が含まれている。これには1859年のG.ポウリツエフから1944年のK.ズヴェーレフまでの45名にのぼるロシア人埋葬者の氏名、男女別、死亡年月日などが記載されている。
 これまでにロシア人墓地については、函館出身の民族学研究者である馬場脩が1基ずつ丹念に調査しており、調査結果は『函館外人墓地』(昭和50年、図書裡会)という労作にまとめられている(馬場脩の人となりは、清水恵「覚書・モイセイ馬場脩の生涯―北方民族研究に捧げた人生―」『地域史研究はこだて』第31号所収、を参照されたい)。ところが清水さんが両者を比較してみたところ、「連合国人墓地調」に記載されているが、馬場脩の調査に欠落している者が12名(表参照)もいることに気づいたという。しかも1911年から1928年までと特定の時期に限られている。

表 墓碑が確認されないロシア人埋葬者一覧

氏名 性別 死亡年月日
1 シメオン・シソツエフ 1911.07.28
2 ニコライ・アントノウイチ・キム 1914.09.09
3 グリゴリイ・ストロユーク 1914.10.20
4 エフイミヤ・ホフローワ 1915.07.27
5 エラセイ・セーデイユ 1916.10.17
6 ウラジーミル・オリソフ 1919.11.10
7 アンナ・ジエルトビナ 1919.11.10
8 ワシリイ・コートフ 1919.11.20
9 フエオドル・ワーロフ 1920.09.24
10 セラフイーマ・ユーロワ 1922.10.21
11 イワン・コビヤコーフ 1926.10.22
12 サーラ・グリゴーリエワ 1928.03.13
「墓地関係書類 函館正教会」(市立函館図書館蔵)より作成

 馬場脩の調査に漏れたということは、いうまでもなくロシア人墓地に彼らの墓碑がなかったためである。彼らはどのような人々であったのか、埋葬された時期を考えれば、亡命ロシア人も含まれている可能性もある。はたまた漁業関係者もいることであろう。あるいはまた、どのような状況で亡くなった人々なのか、そうしたことを知りたい。それを確認するために図書館に所蔵されている地元紙を調べてみることにした。対象者全てについて調査をし終えていないが、二、三の該当例を見つけることができたので、とりあえず、ここに紹介しておく。
No.3:大正3年10月21日付け「函館毎日新聞」
 大正3(1914)年10月20日にカムチャツカから入港中のロシア義勇艦隊汽船ニジニノブコロド号で来港していた漁夫カルホール(30歳)が、仲浜町税関構内沿岸で溺死体で発見された。
 人名表記が異なるが、状況的に同一人物と思われる。
No.4:大正4年7月27日付け「函館新聞」
 大正4(1915)年7月26日にカムチャツカから入港したロシア汽船エニセー号に乗船していた23歳くらいの露国美人が同日(船内で)死亡、函館入港後に警察医の検視を受け、死因は肺結核と判明、死体は塩漬けとしてウラジオストクに「赴くべし」とある。
 死亡日に1日のずれと遺体をウラジオストクに送る予定とあるが、実際は函館で埋葬されたと思われる。
No.9:大正8年9月26日付け「函館毎日新聞」、同年9月25日付け「函館新聞」
 大正8(1919)年9月24日に函館停泊中のロシア汽船(義勇艦隊)トウヴェリ号船客の漁夫フエオドル・ワーロフ(48歳)は西カムチャツカのアストラハン漁場から来函していたが、船内において墜落死した。
 これは記事と調書とでは1年違うが、明らかに調書が誤記したものである。
その他:大正11年12月3日付け「函館毎日新聞」
 大正11(1922)年12月1日に函館停泊中のロシア義勇艦隊汽船シーシャン号乗船の「白軍の幼児」が感冒のため船内で死亡、白軍家族30名の上陸が許され、会葬を行う。
 この幼児の記録は調書にないが、この幼児もロシア人墓地に埋葬されたと思われる。
現在、ロシア人墓地に行くと、現存している墓碑はいずれも石造であるが、墓碑の確認できない人々の墓碑は木柱であったと考えられる(厨川勇「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」『地域史研究はこだて』第20号所収)。木柱ゆえに時間の経過とともに朽ちてしまい、そのまま忘れられてしまったものであろう。なお、「墓地関係書類」中に昭和25年調査の「墓地設置調査」と題した書類があり、これには埋葬者が約380体とある。つまり、表に掲載した12名以外にも、その名も知られていない数多くのロシア人がこの地で永遠の眠りについていることになる。今後、さらに新聞史料を渉猟し、また当地のハリストス正教会にも関連史料が所蔵されている可能性も高いと思われるので、機会をみておたずねしようと思っている。新しい情報を得たら、稿を改めて報告したい。

「会報」No.27 2004.10.8