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永野弥三雄氏「戦前のエトロフ漁業と現在のエトロフ島の印象」について

2012年4月24日 Posted in 会報

麓慎一

 永野弥三雄氏の択捉漁業に関する報告の紹介と2、3の感想を述べることにしたい。永野氏の報告は、統計資料と地図を配布して行われた。
 まず、統計資料について触れておきたい。昭和36年の『北方地域資源調査書』から以下の8つの統計が利用された。(1)戸口数(昭和13年)[留別・紗那・蘂取]。(2)村別入稼者数(昭和13年)[留別・紗那・蘂取]。(3)択捉島における旧定置・特別漁業権。(4)択捉島における所在地別、漁業権者数及び漁業権数(昭和11年5月)。(5)着業統数(昭和14年から16年平均)。(6)漁業制度別漁獲金額(昭和14年16年平均)。(7)村別魚種別漁獲量(昭和14年から16年平均)。(8)水産加工品の村別生産額(昭和12年)。永野氏は、以上の8つの統計資料を駆使して戦前における択捉漁業の動向を説明された。
 永野氏の報告は、漁業という択捉島の基幹産業を通じてこの島の特質を実証的に説明するものであった。報告の意義は多方面に及ぶのだが、ここでは私が特に興味を持った点について述べることにしたい。第一に、(4)の漁業権者の所在地別についてである。永野氏は昭和11年における択捉島の漁業権者数の総計131人の内、在島外の権者66人について説明された。66人の在島外の権者は、函館漁業者43人・根室漁業者11人・その他12人に分かれている。ここで興味深いのは、函館の漁業者が根室の漁業者を大きく上回っている点である。択捉島は根室の漁業領域と思っていた私には興味深い指摘であった。さらに永野氏は、国後島は択捉島と異なり根室の漁業者が多いことも付け加えていた。
 また、先の択捉島における43人の漁業権者の権利数は922に及ぶ、と指摘した上で、この権利数の約3割が栖原家のものであることも説明された。私は、江戸時代の場所請負商人である栖原家がこの昭和初期においても択捉島において多くの権利を有して漁業活動を継続していたことに驚かされた。栖原家と言えば、江戸時代における屈指の場所請負商人として知られるものの明治以降の活動はほとんど注目されてこなかった。この点でも永野氏の報告は刺激的であった。
 第二に、択捉漁業の中心が鱒漁にあったという点である。この点を永野氏は、(7)の「村別魚種別漁獲量」を中心に解説された。昭和14年から16年の平均値で、魚類合計8,421,770トンの内、鱒が5,039,470トンと約60パーセントを占めている。さらに、鱒漁は権利統数に対する着業統数も53パーセントと高率であった(鮭漁は18パーセント)。永野氏は、このような事実を提示して択捉島における鱒漁の重要性を指摘した。
 第三に、戦前における択捉島の生活についてのエピソードも興味深いものであった。このエピソードを話される際には、択捉島の生活の様子が分る次のような著作が利用された。(1)鹿能辰雄(1910~1981年)『北方風土記 択捉島地名探索行』(1976年11月)。(2)今田正美(1902~1982年)『鮭のむくろ考 北洋漁業人の記録』(1977年7月)。(3)皆川弘(1922~1994年)『択捉島漫筆』(1996年3月)。これらの著書を紹介しつつ択捉島の生活の様子を説明されたのだが、一つだけ紹介することにしよう。戦前期の択捉島には、当時の流行の品物が多く流通していたというのである。それは、択捉島にはカタログ販売が導入されていたからであった。電化製品なども意外と普及していたというのである。商品流通から取り残されていたであろうと想像していた私には、択捉島の印象を一変させるエピソードであった。これは単に商品流通だけの問題だけでなく、当時の択捉島が漁業収入による大きな購買力を有し、北方地域の中では高い生活レベルを有していたことを示しているのである。
 このように、永野氏の報告は多くの示唆に富むものであった。残念ながら氏が「ビザなし交流」で得た現在の択捉島の知見については十分な時間を得ることができなかった。それでも、討論の際にいくつかの印象を述べていただけた。その中で択捉島民のロシア人が若い世代のロシア人が日本に対してタブラ・ラサの状態であり、これから友好的な関係が生まれることを望んでいる、と永野氏に述べたという話しを紹介された。私は日露関係が民間レベルで新たな局面を迎えつつあると強く感じられた。

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エトロフ島

「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル