函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

むかし、「露探」という言葉があった ―函館の場合

2012年4月24日 Posted in 会報

奥武則

 昨年6月末、函館を訪れた。《「現場」を踏んでおかないと......》という気持ちだった。
 観光地・函館の「売り」は、函館山からの夜景とともに「文明開化」の言葉が似合うハイカラでノスタルジックな雰囲気だろう。
 1858年、日本はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を結んだ。函館(当時の表記は「箱館」)は横浜、長崎とともに開港地となる。この結果、函館は幕末から明治初期にかけて、横浜、長崎とともに国際貿易港として西洋文明の取り入れ口となった。
 だが、同じ西洋文明の取り入れ口といっても函館には横浜や長崎と明らかに違う要素がある。ロシアとの深いつながりが、それだ。
 横浜や長崎に比べて函館はロシアに圧倒的に近い。蝦夷地と呼ばれた鎖国時代の北海道では、この地を支配していた松前藩がアイヌ人を通して事実上、大陸と交易をしていた。幕末・明治初期に日本の北の玄関となった函館において、横浜や長崎にみられないかたちで「ロシア」が大きな存在となったのは必然だった。私が《「現場」を踏んでおかないと......》と思った「現場」の意味も、この点にかかわる。
 そのころ、前年秋に手を初めた「露探」についての著作をようやく書き終えようとしていた。そこでは、1つの章を「函館」に割いた。原稿は本会会員である菅原繁昭氏・奥野進氏らからお送りいただいた資料などを使ってほぼ書きあげた。だが、「函館」に何のアイサツもしないまま、というのが気になっていたのである。

 日清戦争の後、当時の満州(中国東北部)をめぐって日本とロシアの対立が深まる。結局、1904年2月、日露戦争が火を噴く。ロシアとの緊張が深まる中、登場した言葉が「露探」である。
 「露西亜の軍事探偵」を短くして「露探」。つまりロシアのスパイということになろう。「露探」という言葉そのものの「起源」についてはいくぶん込み入った状況があり、ここではふれない。
 いずれにせよロシアとの戦争勃発の可能性が濃厚になった1903年秋以降、「露探」は当時唯一のマス・メディアだった新聞に登場し、多くの人々が「露探」として指弾された。「ロシアのスパイ」だから本来はロシア人ということになろうが、指弾された人々の大半は日本人だった。要するに、「敵国・露西亜」に内通する許しがたい輩、というわけだ。
 作家・社会運動家の木下尚江が《流行の毒語「露探」》と題した論説を、1904年3月4日の『毎日新聞』(『横浜毎日新聞』の後身。今の『毎日新聞』とのつながりはない)に書いている。冒頭の部分と結語を引く。
 《今日に当りて若し他を毀傷せんと欲する者は、呼ぶに「露探」を以てするに如くはなし》
 《「露探」あゝ、何等危険なる毒語の流行ぞや、吾人は敢て之を毒語と云ふ》
 「毒語」という表現は、当時、「露探」が単なる誹謗中傷を超えて放っただろうまがまがしさをよく伝えてくれる。函館は、その「毒語」が最も力を発揮した「現場」なのである。
 「文明開化」の時代、函館の「ロシアとの深いつながり」として、もっとも見えやすいものは、日本ハリストス正教会(ロシア正教会)とのかかわりだった。
 ギリシャ正教は10世紀末にロシアの地(当時はキエフ公国があった)で国教とされた。帝政ロシアのもと、ロシア正教会は大きく発展する。開港地となった函館では、1859年、上大工町(現在の元町)にロシア領事館が完成し、付属の聖堂が造られた。日本における最初のロシア正教会の教会である。
 初代の領事館付司祭が病気で帰国した後、1861年6月、ニコライ(1880年に主教、1906年に大主教)が赴任した。東京・神田駿河台のニコライ堂(東京ハリストス復活大聖堂)にその名を残す人である。彼はロシア正教会の日本での本格的布教を目指し、1862年1月、拠点を東京に移すが、後任の修道司祭アナトリイも函館で布教に励んだ。同年9月にはすでに信徒は100人を超えていたという。
 こうしたロシア正教会の存在とともに「露探」にかかわって函館が「現場」となった要因は、これも実は現在の観光地・函館の「売り」と重なる。
 「函館の夜景」は標高334メートルの函館山の山頂から見下ろす。眼下の市街地のさまざな光、その向こうに広がる函館湾の漆黒の闇。これが夜景の見事さを生む。だが、平和な時代、夜景スポットとして函館山を有名にしたこの立地は、戦争を想定した場合、要塞を築く絶好の条件だった。
 1898年から4年間かけて、この地には大小合わせて5カ所の砲台が築かれ、ロシアとの有事に備えることになった。これが函館要塞である。要塞がある地域は1899年、これも「露探」と深いかかわりがある軍機保護法と同時に公布された要塞地帯法によって特別の「保護地域」となる。たとえば、その第8条第1項は次のように規定する。
 《要塞司令官ハ要塞地帯内ニ於テ兵備ノ状況其ノ他地形等ヲ視察スル者ト認メタルトキハ之ヲ要塞地帯外ニ退去セシムルコトヲ得》
 日露開戦が必至の状況になっていた1904年2月8日、この条項が函館の地で発動された。10日の『函館新聞』が前日、函館市内に撒かれた号外を再録している
 《露探嫌疑者として其筋の密偵中のもの少なからざる由は兼ねて耳にする所なりしが果然一昨日午後六時より九時十五分までの間に左記十七名は二十四時間内に要塞地帯外に退去を命ぜられたり》。
 当時の新聞はいまのような段を越える見出しはないが、この記事の冒頭には「●売国嫌疑者」という大きな活字が付いている。
 「左記十七名」は、住所、職業つきで列記されている。最初に《元町五十四番地 正教会祭司 目時 金吾/同 伝道師 村木 彌八/同 伝道師 豊田 正一》が登場する。「祭司」は「司祭」の誤りだが、言うまでもなく3人ともロシア正教会函館教会で布教・伝道に当たっていた人たちだ。12番目には《元町五十四番地正教内 税関吏》として倉岡馬之助という人物も出てくる。この人物も正教会関係者だろう。退去命令が出た17人のうち、直接、正教会に関係する人物が4人いたことになる。目時ら3人は当時の正教会のスタッフのすべてではないかと思われる。函館教会は活動停止に陥ったにちがいない。
 さらに《露語通弁》の沢克己、竹中淳太、楠瀬菊水、《露領漁業者》の中瀨捨太郎といったロシアとのつながりが分かる職業の人物もいる。
 17人の退去をセンセーショナルに伝える号外が出た翌2月10日、ついに日露戦争が始まった。14日、函館区(当時は行政的に函館区)は周辺7村とともに戒厳令施行地域となる。この戒厳令は要塞区域を「臨戦地境」とするもので、その区域内での軍事に関係する地方事務および司法事務が要塞司令官の指揮下に入る。要塞司令官は集会の禁止や新聞雑誌の発行停止などについても大幅な権限を持つことになった。要するに、地域的に「軍政」が敷かれたと思えばいい。戒厳令は函館のほか、長崎、佐世保、対馬も対象となった。
 要塞地帯法に基づく退去命令はこの後、2月22日に第2弾があり、さらに日本人6人が退去させられたようだ。「軍政」の下、函館市民の緊張は一層高まっていただろう。「ロシア」に少しでもかかわりのある人やものへの反応もより敏感になっていったはずだ。そうした状況を背景に、この時期、『函館新聞』には「露探」の文字が頻出する。単に「露探疑者」にふれるだけではなく、「露探」とされた人々の私行などを取り上げ、道徳的に糾弾する論調が目立つ。《祖先伝来の日本民族たるj純血を失ふて露国の狗となり国家の秘密を売る人面獣心の亡者》(2月25日『函館新聞』)といった表現が、その典型である。
 最終的に退去命令が出された人数は画定できないが、新聞報道を通じて確認できるのは日本人24人とロシア人6人。実際にはもっと多かっただろう。だが、新聞の大仰な「告発」にもかかわらず、軍機保護法などで、罪を得たものは何と1人もいなかった。
 全国的にみると、この時期「露探」として軍機保護法違反で逮捕され、有罪となった人物もいないわけではない。だが、大半の人は函館のケースと同じように、具体的なスパイ行為が明らかになったわけでも何でもないのに「ロシア」との何らかのつながりなどから「露探」として指弾された。
 私としては、ここには「国民国家」における《非「国民」》排除」の構造が見たいと考える。むろん、メディアが、そこで大きな力を発揮した。刊行予定の拙著では函館のケースを含めて、こうした「露探」と国民意識のかかわりに光を当てたつもりである。
 日露戦争が終わってすでに1世紀余。「露探」は死語となったけれど、「流行の毒語」を生み出した構造は消滅したわけではない。

 昼間の晴天に安心していていたら、日が落ちるとともに函館山は霧に包まれ、結局夜景は見ることができなかった。しかし、その日午前、元町の丘を登って、青空には映える日本ハリストス正教会函館教会と出会うことができた。
 日露戦争期の建物は1907年に焼失し、現在の聖堂は1916年に再建された。尖塔と礼拝堂は緑色の屋根を持ち、アーチ型の装飾が施された白壁と美しく調和している。ちょうど「ガンガン寺」の愛称を生んだ鐘が鳴った。

「会報」No.28 2006.5.1 特別寄稿(その1)