函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

発刊の言葉

2012年4月18日 Posted in 「会報」第01号

函館日口交流史研究会 会長 鈴木旭

 研究会が発足して4年目になりました。これまではシンポジウムや定例研究会の開催が精一杯で、会誌の発行にまで手が回らなかったのが実情です。会員の皆様には当会の活動について、必ずしも充分にお伝えできなかったのではと思います。今年度からは事務局体制も強化され、定期的に「会報」をお届けできることになりました。  先日ウラジヴォストークを訪ねた際に副所長のアフォーニン氏らに、これまでのシンポジウムに止まらず、具体的成果を生み出せる協力関係についてこちらの考え方を伝えました。例えば、「北洋漁業を中心にした日口漁業関係史」や「函館とサハリンの人的・経済的交流の歴史」といったテーマに絞った共同研究、共同出版の実施などについてです。  この申し入れに対して、ラーリン所長から今後の研究交流の具体案として、(1)「ロ日漁業関係史」あるいは「ロ日の政治、経済、文化的諸相について」の共同著作の企画。(2)サハリン関係の歴史では、ヴラジヴォストークの国立極東歴史文書館所蔵史料の利用。(3)両国の国内事情を紹介する公開講座の開設などが提案されています。  経済的な基盤の脆弱な私たちの研究会にとって、このような提案は大変な重荷でありますが、皆さんの知恵を借りながら交流の絆を維持したいと考えています。会報に会の運営についてのご意見をお寄せ下さい。

「会報」No.1 1996.8.21

日口交渉秘話より 追跡!『ディアナ号』の艦載砲

2012年4月18日 Posted in 「会報」第01号
桑嶋洋一

 遊就館(靖国神社境内 東京)前に、1挺の古砲が展示されている。同館の説明(1995年)によれば、1854年開港を求め来日したロシアのプチャーチン提督の乗艦ディアナ号の艦載砲で、幕末の日ロ交渉の記念物とされている。
 開国交渉は1854年伊豆下田で行われたが、12月23日畿内東海諸国地震に見舞われ、下田は壊滅状態となりディアナ号も損傷を受けた。結果的にディアナ号は沈没し、代船が隣村戸田で造船され、プチャーチンは新造船を「戸田号」と名付け、ディアナ搭載砲8挺を搭載し残りの52挺を下田に預けて帰国した。1856年11月8日開国交渉批准交換が下田で行われたが、ロシア政府は下田・戸田両村民が震災で大被害を受けたにも関わらず献身的にロシアを援助してくれたお礼として、日本に52挺のデイアナ砲を寄贈した。
 一方箱館奉行は、北方警備の拠点として五稜郭と弁天岬台場を完成させたが、配備する砲が無くディアナの30斤砲24挺を幕府に要求した。しかし、日本が寄贈を受けた30斤砲は18挺だったため別性能砲が追加されたらしい。また榎本艦隊の回天丸は、幾挺かを江戸で搭載し箱館海戦で弁天岬台場付近に沈没した。戦後、沈没海域から回天丸砲として4挺が引き揚げられ、1910年函館区から2挺が遊就館に寄贈された。その1挺が現存砲である。
 現存砲にはイギリス女王のマークが鋳刻され、ディアナ砲では無い事が分かった。ディアナ砲には帝政ロシアのマークが鋳刻されていたからだ。現存砲はイギリス女王の旗艦の艦載砲で、同艦はイギリスから幕府に献上され、箱館戦争の時蟠龍号と名を変え榎本軍に参加し回天丸の近くに沈んだ。両艦の大砲は海底に散乱し、回天砲を引き揚げた時蟠龍砲が混じったと推測される。また、榎本軍は10挺を函館から室蘭に移設したと言われているが、確認出来たすべてのディアナ砲は太平洋戦時中に金属回収で消滅した。
 いま認識されている「北方領土」の境界は、ディアナ号来日で決められた。日本に寄贈された52抵の砲は、「今より後両国末永く真実懇にして...人命は勿論什物に於ても損害なかるべし」と両国が確認した、日露通好条約第一条を支える証明品である。(了)

 「会報」No.1 1996.8.21 研究会報告

極東諸民族歴史・考古・民族学研究所の国際会議に参加して

2012年4月18日 Posted in 「会報」第01号

沢田和彦(埼玉大学)

 1996年6月18日から20日までウラヂヴォストークのロシア科学アカデミー極東支部極東民族歴史・考古・民族学研究所で、研究所の創立25周年と創設者クルシャーノフ氏の生誕75周年を記念する国際学術会議「世界史のコンテキストにおけるロシア極東:過去から未来へ」が開催された。この会議は、第4回目の「函館・ロシア極東交流史シンポジウム」をも兼ねるものである。当日の登録者数は160名(但し重複あり)。ロシア国内ではウラヂヴォストークの研究者が大半を占めたが、これ以外にウスリースク、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスク、マガダンからも参加者があった。外国からは日本、中国、アメリカ、イギリス、オーストラリアの5カ国から25名が参加した。函館日口交流史研究会のグループは、鈴木旭、榎森進、玉井哲雄、長谷川健二の各氏と筆者の5名である。
 会議初日の午前の部は国内外の来賓の挨拶が続き、鈴木氏が我が研究会を代表してスピーチをされた。次いで2本の講演があった。午後の部は全体会議で、5本の報告が行われた。二日日は、国際関係、歴史、文化、民族・考古学の4セクションに分けて分科会方式で進められた。報告数は73本、使用言語はロシア語である。鈴木氏が「第二次大戦前の日本とロシア・ソ連邦の漁業関係」、榎森氏は「アイヌ民族の過去と現在」、筆者は「B・ピウスツキと東京音楽学校の女流音楽家との交際」というテーマで報告をした。本会議で気づいたことは、まず宗教の再評価、ロシア極東の歴史の見直しと歴史の空白地帯を埋めようとする強い意欲が感じられたこと、そしてロシア人の亡令に関わるテーマが目立ったことである。
 二日日の夜はゴーリキイ劇場で食事とコンサートを楽しむ。食事、ショー、ともに豪華な内容だった。三日目は閉会式、次いで海浜墓地にあるクルシャーノフ氏の墓に詣でた。宿泊場所は、空港から市の中心部のほぼ真ん中に位置するサナトリウム「庭園町(サード・ゴーロド)」だった。このサナトリウムはアムール湾の北東端に面し、環境の良さと海底の泥を体に塗る療法で有名である。中心部まで26キロ、毎日バスで片道小一時間は面倒に思えたが、白夜の時期の広大な園内の散策は、草木の緑が鮮やかで心を和ませてくれた。

「会報」No.1 1996.8.21 国際会議報告