函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

コーカサス情勢 ―民族紛争とカスピ海地域のエネルギー資源を中心に―

2012年4月24日 Posted in 「会報」第27号

廣瀬徹也

1.コーカサス地方
 黒海とカスピ海に挟まれ 約44万平方キロメートル、5,000m級の山がつらなる 大コーカサス(カフカス山脈)で北と南に分かれる。18世紀末から徐々にロシア帝国に征服された。現在山脈の北はロシア連邦に属し、ダゲスタン、チェチェン、イングーシ、北オセチア・アラニア、カバルディノ・バルカル、カラチャエヴォ・チェルケス、アデイゲヤの7つの共和国とスタブロポリ地方、クラスノダル地方、ロストフ州があり、山脈の南(ザ・カフカス)にアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアの三つの独立国がある。
 温暖な気候にめぐまれた農業地帯で、長寿(平均寿命グルジアで72.6歳、アゼルバジャンで64.8歳)の秘訣は温暖な気候と豊富な野菜、果物とヨーグルト。ワイン、ブランデー、絨毯とキャビアは世界的に有名。鉱物資源とすばらしい観光資源もあり。優秀な人材があり、かつ人件費も安い。治安さえ安定すればと、経済的に大きく発展する可能性があると考えられる。

なぜ今コーカサスが注目されるか
(1)欧亜、北のロシア、南のイスラム圏に接する地政学的重要性
 西アジア情勢がいまだ不安定な今、その裏庭にあたるコーカサス地域の安定はユーラシア地域全体の平和と安定に不可欠である。
(2)国際的パワーゲーム
 この地域において政治的及び経済的(特に下記石油、天然ガスをめぐって)観点から、ロシア、米を筆頭に地域大国たる、トルコ、イランも加わり、さらに国際情勢を利用して自国の安全保障を確保し、国内少数民族による独立運動やイスラム原理主義過激派の封じ込め、隣国との紛争の有利な解決を図らんとする域内諸国の思惑もからんで「第二のグレートゲーム」とも呼ばれる勢力争いがおこなわれている。
(3)カスピ海周辺地域のエネルギー資源(石油、天然ガス)の存在

2.民族紛争
 北、南とも言語系統、宗教・宗派を異にする複雑な民族構成で、多彩な文化の宝庫であるが、一方その複雑な民族構成が様々な民族紛争・領土紛争の源となっている。

〈民族構成〉
・カフカス諸語系......この地域の先住民族。
グルジア人:キリスト教徒(グルジア正教)。
チェチェン人 、イングーシ人 、アバール人、 チェルケス人 、アディゲ人 、アブハーズ 人等:ほとんどがスンニー派イスラム教徒。
・インド・ヨーロッパ語族......アルメニア人:キリスト教徒(アルメニア 教会:単性論)、クルド人:スンニー派、オセット人:スキタイの末裔と言われキリスト教徒が多い。ロシア人などスラヴ系:キリスト教徒(正教)
・アルタイ語族......アゼルバイジャン人:シーア派、その他はスンニー派イスラム教徒

1)チェチェン 北コーカサスでは歴史上最も反抗していた勇猛な山岳民族がムスリムのチェチェン人達。独ソ戦争中イングーシ人とともにカザフスタンへ強制移住させられたこともある。完全独立派が武闘しており、外国のイスラム過激派組織の関与もあると見られている。石油利権もからんでいる(原油産出・パイプライン通過)。

チェチェン紛争の経緯とチェチェン武装勢力が起こした疑いのあるテロ事件等:
○1991年11月、ドゥダーエフ空軍少将(後初代大統領)らチェチェン民族会議がソ連邦からの独立を宣言。
○1994年12月―1996年8月(エリツィン時代)、第一次チェチェン戦争、ドゥダーエフ戦死、70万人のチェチェンの人口のうち、8万人から10万人が死亡したと言われる。
○ロシア国内の厭戦気分の高まりでロシア安全保障会議のアレクサンドル・レベジ書記と対ロシア交渉派のアスラン・マスハドフ総参謀長「ハサブユルト和平合意」成立。独立問題は2001年まで先送り。
○1997年2月、欧州安全保障機構(OSCE)などの監視のもと、初のチェチェン共和国大統領/議会選挙が行われ、マスハドフが当選。その後誘拐などの犯罪の横行。
○1999年8月7日、チェチェンの野戦司令官バサーエフとハッターブがダゲスタンに侵攻。8月31日から、モスクワなどの都市では大規模なアパート爆破事件が続発し、9月23日、ロシア政府、再びチェチェンへの空爆を再開始(「第二次チェチェン戦争」)。その間プーチンが大統領に就任。ロシア側はマスハドフ政権に対抗して、宗教指導者であるカディロフ行政長官を首班とする臨時行政府を設置。
○2001年10月、グルジア領内に拠点を置くゲラエフ指揮官率いる武装勢力の一派が、カバルディノ・バルカル共和国あるいはカラチャエボ・チェルケス共和国への侵攻を企図している動きが見られ、両共和国の国境警備が強化された。
○2002年1月、スタブロポリ地方のゴリュガェスカヤ村に対し、自動小銃等により武装したグループが攻撃。
○2002年10月、チェチェン武装勢力による劇場占拠事件。
○2003年7月、モスクワ郊外トゥシノ飛行場で自爆テロ事件、12月モスクワのナショナル・ホテル前で自爆テロ事件。
○2004年2月6日 モスクワ市内地下鉄車内での爆弾テロ事件。
○同年5月9日、正常化プロセスに中心的な役割を果たしてきたカディロフ・チェチェン大統領爆弾テロにより殺害。
○同年6月21日から22日、イングーシ共和国において300~500人の武装兵が同共和国治安機関を襲撃、88人が犠牲。
○同年8月24日、深夜にモスクワから飛び立った旅客機2機が墜落し、乗客・乗員全員が死亡。
○同年8月31日、モスクワ市北部地下鉄駅周辺での爆弾テロ事件、9月1日北オセチア共和国の学校占拠事件 数百人死傷。

 自己の主張を貫くためには自らの命も子供を犠牲にすることもいとわないテロリストと強硬策一本槍のプーチン政権、チェチェン問題は解決への出口が見えない。
 ロシア人女性記者ポリトコフスカヤの著書「チェチェン―やめられない戦争」は、チェチェン戦争の実体をあますところなく描いている。
 今のところ諸外国政府はテロとの戦い支持の観点から厳しいプーチン政権批判は出来ない状況。
 日本外務省はチェチェン、イングーシ、ダゲスタン、北オセチア・アラニア、カバルディノ・バルカル、カラチャエボ・チェルケス各共和国及びスタブロポリ地方に渡航延期勧告を出している。
 日本政府は、ロシア連邦北コーカサス地方における避難民に対し、平成13年世界食糧計画(WFP)を通じ、食糧援助(小麦粉、1億5,000万円)を行っている。民間でも「チェチェンの子どもを支援する会」という日本のNGOがバクーでチェチェン難民学校に民族楽器と衣裳、文房具を贈るなど支援活動を行っている。

2)南コーカサスの民族紛争と国際関係
イ)アゼルバイジャンとアルメニア間のナゴルノ・カラバフ地域の帰属をめぐる紛争
 ナゴルノ・カラバフ自治州はソ連期を通じてアゼルバイジャンに属してきたが、同地の70%を占めるアルメニア系住民が、同地のアルメニアへの移管を求めて、ペレストロイカ末期から運動を起こし、それが双方の民族虐殺に発展した。ソ連崩壊後はアルメニア、アゼルバイジャン間の戦争となり、多くの犠牲者を出した。1994年の停戦合意以後は小規模の停戦違反を除き、停戦が維持されているが、アゼルバイジャンは国土の20%を占領されたままで、早期の解決が求められているものの、両国を仲介しているOSCEミンスクグループも成果を出せておらず、事態の打開は難しそうである。
ロ)グルジア国内
 アブハジア自治共和国がグルジアより分離独立を求める動き、南オセチア地方がロシア領北オセチアとの統合を求める動きなどがある。
 グルジアはロシアとは従来より上記アブハジア、南オセチア紛争でロシアが独立派を支援しているとして関係がぎくしゃくしていた。逆にチェチェン武装勢力がロシア領から国境を超えてグルジアのパンキシ渓谷に逃げ込むため、ロシアはグルジア政府にその取り締まりを求めてきたが、グルジアが取り締まらないことを理由として、グルジアへの締め付けを強めている。
 他方、目下建設中のカスピ海のアゼルバイジャンからグルジアを通りトルコの地中海岸に出る石油パイプラインを護りたい米国はグルジア軍の防衛能力向上のために訓練、装備供与中心の軍事援助を進めている。
 極めて単純化すればアゼルバイジャン、グルジアは親欧米・親トルコ、これに対しアルメニアは親露・親イランである。
 三国いずれもこれら紛争で生じた数十万の難民、国内避難民をかかえている。
 日本外務省はいくつかの地域に同じく渡航延期勧告を出している。

3.カスピ海周辺地域の石油・天然ガス
 「第二の北海油田」と言われ、沿岸5ヵ国(ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、イラン)だけでなく、米国やトルコが政治的及び経済的観点より大きな関心を示してきた。開発には日本企業も参加しており、中国もなんとか食い込もうと懸命である。
 カスピ海の法的地位の問題やパイプライン・ルートの問題、更にはインフラの未整備などから同地域の開発は必ずしも順調には進んでいないが、9.11後、米露協調ムードが高まるにつれ、開発が活性化する可能性も生じてきている。エネルギー供給源の多様化、中東依存度の低減等の観点より、同地域周辺のエネルギー開発の進展は、わが国のエネルギー安全保障にとっても重要な意味を有している。
(注)カスピ海の法的地位の問題
 自国の沖合いの資源は各国が独占的権利を有するとの立場のアゼルバイジャン、カザフスタン、ロシアと5ヵ国の共同開発すなわち20%の権益獲得を強く主張するイランの対立。

4.南コーカサスの政治変動
 1991年末のソ連崩壊で三国は独立を果たしたものの、独立後数年は内政不安と内乱が続いた。その後大統領による権威主義体制の下で一応安定してきたものの政治や官僚機構の腐敗が激しく、経済の停滞と深刻な失業問題があり。昨年来政治変動あり。
1)アゼルバイジャン:2003年10月の大統領選挙で権威主義者としてならしたヘイダル・アリエフ大統領の息子イルハム・アリエフが選出され、旧ソ連初の「権力世襲」が起こった(12月にはヘイダル・アリエフが死去)。
2)グルジア:2003年11月に無血クーデター(バラの革命)が起こり、同じく権威主義体制を強めていたエドゥアルド・シェワルナゼが失脚。2004年1月に実施された大統領選挙で政変の中心人物であったサーカシビリが圧倒的支持を得て当選。

5.日本政府の「対シルクロード地域外交」
 このような中で日本政府は「対シルクロード地域外交」の旗印の下、様々なODA、難民支援を行なっており、いまや日本はトップドナーの一つになった。〝政治的野心のない真の友情〟と感謝されている。
 「対シルクロード地域外交」は次の三つの方向性を持っている。すなわち、
(1)信頼と相互理解の強化のための政治対話
(2)繁栄に協力するための経済協力や資源開発協力
(3)核不拡散や民主化、安定化による平和のための協力

(資料)
本年6月外務省欧州局新独立国家室(現中央アジア・コーカサス室)作成

地域エネルギー情勢
(1)概観
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(2)域内の主要石油・天然ガス・プロジェクト
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第3回研究会、北方民族資料館にて

「会報」No.27 2004.10.8 2004年度第3回研究会報告要旨

補遺―1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦「アレウト号」の遭難をめぐって

2012年4月24日 Posted in 「会報」第27号

清水恵

 今年3月に発表した拙文「1877年、瀬棚沖におけるロシア軍艦『アレウト号』の遭難をめぐって」は、以下の一連の事件を取り扱ったものであった。

(1)1877(明治10)年11月、ニコラエフスクからウラジオストクに航海中のアレウト号、暴風のため流され瀬棚沖において座礁する。死傷者はなく、62名全員が救出される。
(2)同年12月、アレウト号乗員送還のため、ウラジオストクよりアブレク号来る。62名中49名を同号に乗艦させ、残り13名は座礁したアレウト号および搬出物看守の目的で瀬棚に残す。しかし、この収容作業中、今度はアブレク号の13名が暴風のため本船に戻れなくなる。結局、アレウト号の看守役13名と、本船に戻れなくなったアブレク号収容隊の13名、計26名が瀬棚に残留する。アブレク号の13名はその後間もなく函館に移動。アレウト号の13名は瀬棚にて越冬。
(3)1878(明治11)年、4月、再び送還船来る。艦名はエルマーク号。函館でアブレク号の13名を乗船させて後、瀬棚沖に投錨。アレウト号の13名を収容しようと、本船から大型カッターで上陸。全員を乗せて本船に戻る途中に転覆。12名の死者を出す。

 その際、わたしが用いた資料は以下の4点であった。

(1)救助されたアレウト号仕官が開拓使及県令に宛てた手紙
(2)開拓使がアレウト号の瀬棚沖漂着、救援について報告した公文書
(3)ソ連国防省海軍本部が瀬棚における水夫埋葬について作成した報告書
(4)後日アレウト号を引上げた函館在住ジョン・ウイルの回想録
 さて、この一連の事件真相解明の難しさは、「3隻のロシア軍艦が事件の渦中にあること」と「上述4点の資料間の記述に齟齬が多いこと」にある。わたしは執筆段階で、さまざまな可能性の示唆を試みたものの、「...この遭難事件に関してはまだ不明な点が多く、今後の研究の進展が待たれる...」と結ぶよりなかった。死亡した12人も不詳であった。
 ところが、最近、瀬棚町を訪れた知人がカメラに収めてきた「アレウト号慰霊碑」を見てわたしはあっけにとられた。12名の死者は不詳どころか、慰霊碑の下部には9人の姓名がロシア語とカタカナで併記され、「外3名不詳」と刻まれているではないか。しかも、9名の内訳は、アレウト号乗組員6名、エルマク号3名となっているではないか。「12名の死者の中には、カッター船を漕いでアレウト号残留者を迎えにいったエルマーク号の船員も含まれていたのではないか」という、執筆時のわたしの仮説は、仮説でも何でもなく、すでに周知の事実だったのである。

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瀬棚町のアレウト号慰霊碑

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1972年、アレウト号慰霊碑建立時の「露国軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑」と町長(当時)の声明文を刻んだ銘版

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1988年、新たに加えられた「遭難者名碑」
 
 それにしても、執筆時に1972年建立のこの記念碑を自分の目で確認せず、また、瀬棚町が所蔵する関係資料も未見であったことが悔やまれてならない。昨年、わたしは瀬棚町役場に電話で取材を行なったのだが、そのとき得た回答は「12名の死者は不詳、関連書類は喪失」というものであった。このときの瀬棚町役場の対応を恨むつもりはない。今後の調査・執筆にこのような過誤のないよう、今回の失策を肝に銘じる所存である。

 さて、アレウト号に関するこれまでのわたしの研究の経緯を簡単に説明して、今回、あらためて瀬棚町役場に問い合わせてみたところ、以下のことが判明した。

(1)アレウト号慰霊碑建立の1972(昭和47)年当時は、「露国軍艦アレウト号乗組員遭難慰霊碑」の銘版と、慰霊碑建立規成会代表として当時の町長の名が署名された声明版だけだった。
(2)しかし、1988(昭和63)年になって、新たに死者9名(外3名不詳)の名を刻んだ「遭難者名碑」が設置された。これは、ソ連邦地理学協会沿海州支部学術書記(当時)ア・ヒサムトジーノフによる町長宛嘆願によるものである。ヒサムトジーノフは嘆願書の中で、死者9名の姓名を明らかにしている。

 このことは、わたしが使用した先述の4資料の外に、新たな関係資料が極東ロシア史の分野で精力的に活動するヒサムトジーノフ氏によってロシア側で発見されたことを暗示している。アレウト号にまつわる一連の事件の真相解明は、そう遠くない未来に果たされるかもしれない。わたし自身であれ、他の研究者であれ、その真相に一歩ずつ近づくのは誠にスリリングな経験であろう。

*この補遺を記すにあたり、慰霊碑の写真を提供くださった当会会員の桜庭氏と、ヒサムトジーノフの嘆願書の存在を調べてくださった瀬棚町役場総務町民課の加賀谷さんに厚くお礼申し上げます。また、本編を執筆する際には、北海道立文書館の宮崎美恵子さんに多大なご協力をいただきました。ここにあらためて記してお礼申しあげます。

「会報」No.27 2004.10.8

失われた墓碑銘 ―函館のロシア人墓地

2012年4月24日 Posted in 「会報」第27号

菅原繁昭

 先般、当会世話人の一人である清水恵さんから、市立函館図書館蔵の「墓地関係書類 函館正教會」という史料をみせていただいた。表題通り、函館ハリストス正教会の墓地に関わる様々な書類の写しを集めたものであるが、そのなかに昭和24年3月28日付けで函館ハリストス正教会から大蔵省管理局長宛に提出された「連合国人墓地調」という書類が含まれている。これには1859年のG.ポウリツエフから1944年のK.ズヴェーレフまでの45名にのぼるロシア人埋葬者の氏名、男女別、死亡年月日などが記載されている。
 これまでにロシア人墓地については、函館出身の民族学研究者である馬場脩が1基ずつ丹念に調査しており、調査結果は『函館外人墓地』(昭和50年、図書裡会)という労作にまとめられている(馬場脩の人となりは、清水恵「覚書・モイセイ馬場脩の生涯―北方民族研究に捧げた人生―」『地域史研究はこだて』第31号所収、を参照されたい)。ところが清水さんが両者を比較してみたところ、「連合国人墓地調」に記載されているが、馬場脩の調査に欠落している者が12名(表参照)もいることに気づいたという。しかも1911年から1928年までと特定の時期に限られている。

表 墓碑が確認されないロシア人埋葬者一覧

氏名 性別 死亡年月日
1 シメオン・シソツエフ 1911.07.28
2 ニコライ・アントノウイチ・キム 1914.09.09
3 グリゴリイ・ストロユーク 1914.10.20
4 エフイミヤ・ホフローワ 1915.07.27
5 エラセイ・セーデイユ 1916.10.17
6 ウラジーミル・オリソフ 1919.11.10
7 アンナ・ジエルトビナ 1919.11.10
8 ワシリイ・コートフ 1919.11.20
9 フエオドル・ワーロフ 1920.09.24
10 セラフイーマ・ユーロワ 1922.10.21
11 イワン・コビヤコーフ 1926.10.22
12 サーラ・グリゴーリエワ 1928.03.13
「墓地関係書類 函館正教会」(市立函館図書館蔵)より作成

 馬場脩の調査に漏れたということは、いうまでもなくロシア人墓地に彼らの墓碑がなかったためである。彼らはどのような人々であったのか、埋葬された時期を考えれば、亡命ロシア人も含まれている可能性もある。はたまた漁業関係者もいることであろう。あるいはまた、どのような状況で亡くなった人々なのか、そうしたことを知りたい。それを確認するために図書館に所蔵されている地元紙を調べてみることにした。対象者全てについて調査をし終えていないが、二、三の該当例を見つけることができたので、とりあえず、ここに紹介しておく。
No.3:大正3年10月21日付け「函館毎日新聞」
 大正3(1914)年10月20日にカムチャツカから入港中のロシア義勇艦隊汽船ニジニノブコロド号で来港していた漁夫カルホール(30歳)が、仲浜町税関構内沿岸で溺死体で発見された。
 人名表記が異なるが、状況的に同一人物と思われる。
No.4:大正4年7月27日付け「函館新聞」
 大正4(1915)年7月26日にカムチャツカから入港したロシア汽船エニセー号に乗船していた23歳くらいの露国美人が同日(船内で)死亡、函館入港後に警察医の検視を受け、死因は肺結核と判明、死体は塩漬けとしてウラジオストクに「赴くべし」とある。
 死亡日に1日のずれと遺体をウラジオストクに送る予定とあるが、実際は函館で埋葬されたと思われる。
No.9:大正8年9月26日付け「函館毎日新聞」、同年9月25日付け「函館新聞」
 大正8(1919)年9月24日に函館停泊中のロシア汽船(義勇艦隊)トウヴェリ号船客の漁夫フエオドル・ワーロフ(48歳)は西カムチャツカのアストラハン漁場から来函していたが、船内において墜落死した。
 これは記事と調書とでは1年違うが、明らかに調書が誤記したものである。
その他:大正11年12月3日付け「函館毎日新聞」
 大正11(1922)年12月1日に函館停泊中のロシア義勇艦隊汽船シーシャン号乗船の「白軍の幼児」が感冒のため船内で死亡、白軍家族30名の上陸が許され、会葬を行う。
 この幼児の記録は調書にないが、この幼児もロシア人墓地に埋葬されたと思われる。
現在、ロシア人墓地に行くと、現存している墓碑はいずれも石造であるが、墓碑の確認できない人々の墓碑は木柱であったと考えられる(厨川勇「初代ロシア領事夫人の墓のなぞ」『地域史研究はこだて』第20号所収)。木柱ゆえに時間の経過とともに朽ちてしまい、そのまま忘れられてしまったものであろう。なお、「墓地関係書類」中に昭和25年調査の「墓地設置調査」と題した書類があり、これには埋葬者が約380体とある。つまり、表に掲載した12名以外にも、その名も知られていない数多くのロシア人がこの地で永遠の眠りについていることになる。今後、さらに新聞史料を渉猟し、また当地のハリストス正教会にも関連史料が所蔵されている可能性も高いと思われるので、機会をみておたずねしようと思っている。新しい情報を得たら、稿を改めて報告したい。

「会報」No.27 2004.10.8