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平成21年度市立函館博物館函館開港150周年記念特別企画展「アイヌの美-カムイと創造する世界-ロシア民族学博物館・オムスク造形美術館所蔵資料」

2012年4月25日 Posted in 「会報」第31号

大矢京右

はじめに
 本特別企画展は、函館開港150周年を記念して市立函館博物館と財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構の共催で、2009年7月18日(土)~9月6日(日)の51日間(実開館日数44日間)に渡り市立函館博物館本館にて開催されたものである。展示資料についてはロシア民族学博物館所蔵のアイヌ民具資料215点とオムスク造形美術館所蔵の平澤屏山筆アイヌ絵12点を各館より借用し、資料の少ないアイヌ絵については市立函館博物館および函館市中央図書館等が所蔵するアイヌ絵等を追加展示することで内容の充実を図った。なお、市立函館博物館での開催終了後は、北海道立帯広美術館・帯広百年記念館(2009年9月18日(金)~11月11日(水)開催)ならびに京都文化博物館(2009年11月23日(月)~2010年1月11日(月)開催)において巡回展示された。

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1. 資料来歴
1-1.ロシア民族学博物館

 1902年にロシア皇帝アレクサンドルⅢ世の命により創設されたロシア民族学博物館はロシア連邦サンクトペテルブルグ市に所在し、約2,600点ものアイヌ関係資料(北海道・サハリン)を所蔵する、ロシア国内で最も大規模な博物館の一つである。
 所蔵アイヌ資料の大部分は、ロシア帝国地理学協会正会員ヴィクトル=ニコラエヴィッチ=ヴァシーリエフによって収集されたものであるが、サハリンアイヌの民具については1912年7月~8月の約1ヶ月間で約1,000点が収集され、北海道アイヌの民具についてはその帰途北海道平取において5日間で約800点が収集されている。これらヴァシーリエフによって収集された民具類は、収集年や収集地が明らかである上、その数量もさることながら資料の種類も多岐に渡り、当時のアイヌの生活の細部までもうかがい知ることができる。また、北海道で収集された資料については、北の玄関口であった函館で現地ロシア商人の手を借りて整理・取りまとめされ、本国に向けて発送されていることから、いささか函館にも縁のある資料であるということができよう。ちなみに、資料の使用イメージを伝えるために借用した写真資料も、1900年代初頭にポーランドの民族学者ブロニスワフ=ピウスツキによってサハリンで撮影されたものなどで構成され、当時の生活の様子を直接視覚的に伝える貴重な資料である。

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ヴァシーリエフ

1-2.オムスク造形美術館
 1940年に設立されたオムスク造形美術館は、ロシア連邦オムスク市(西シベリア)に所在し、18世紀から20世紀にかけて制作された線画を中心に、約26,000点の資料を所蔵している。
 同館が所蔵するアイヌ絵は、幕末・明治の函館で活躍した絵馬屋平澤屏山(1822-1876)によって描かれたとされる「ウイマム図」「オムシャ図」「種痘図」「穴熊引き出し図」「熊送り図」「踏舞図」「夜間サケ漁図」「鹿猟図」「熊猟図」「眺望図」「貝突き図」「斬首図」の12枚である。平澤屏山は、杉浦嘉七に伴われて十勝でアイヌと生活を共にするなどしてつぶさにその様を観察しており、色鮮やかなウルトラマリンブルーやエメラルドグリーンといった人工顔料を用いて描かれたアイヌ絵の数々は、国内はもとより国外でも高い評価を得ていた。
 これら12枚の絵はロシア科学アカデミー会員のエヴゲニイ=ミハイロヴィッチ=ラヴレンコが1949年にレニングラードの古書店で入手し、1985年に同館に寄贈したものであるとされるが、どのような経緯で古書店に流れ着いたかは定かではない。しかしいずれにせよこれらの資料が、幸か不幸かこれまで日の目を見ることが無かったため、褪色などの劣化もない素晴らしい状態で今回公開される運びとなったわけである。

2.展示および開催状況
2-1.第1展示室-アイヌ民具-

 市立函館博物館本館2階の第1展示室には、ロシア民族学博物館から借用した資料215点が「まかなう」・「まとう」・「いのる」の3つのテーマ別に展示された。
 最初の「まかなう」のコーナーには、アイヌの生活用具を作り出すマキリ(小刀)や、それから作り出されるチェペニパポ(皿)などの木製品、そしてカロマハ(物入れ)などの布・毛皮製品などが展示された。それらかたちや文様からは、ものとしてのカムイを飾った「装飾美」が伝わってくるとともに、使いやすさを追求した道具の形状や素材の性能を遺憾なく発揮させる適材適所などの「道具としての機能美」も感じられるものであった。
 次の「まとう」のコーナーには、アイヌの衣服や装飾品の形や文様の「装飾美」が伝わるような、サハリンアイヌが用いたテタラペ(イラクサ製の草皮衣)や北海道アイヌが用いたアットゥシなどの衣服やタマサイ(首飾り)などの装飾品が展示された。これらの資料からは、刺繍や切伏による装飾や素材の色合いと質感を活かした「もの自体の美しさ」とともに、夫や子どものために針を運んだ女性の「装飾に込めたこころの美しさ」も感じ取ることができる。
 第1展示室最後の「いのる」のコーナーには、イクパスイ(捧酒篦)やラマッタクイコロ(呪術用宝刀)などの精神文化に関わるものと、トンコリ(五弦琴)が展示された。これらの資料からも、前2コーナーの資料と同じようにアイヌの木彫りの巧みさが感じられるとともに、カムイ(神)に敬意を払い、日々祈りを欠かすことの無かったアイヌの「信じるこころ」や「家族を想うこころ」、そして手慰みにトンコリを爪弾く「人生を楽しむこころ」などの「こころの美しさ」が伝わってくる展示であった。

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展示を見る観覧者たち

2-2.第2展示室-アイヌ絵-
 市立函館博物館本館3階の第2展示室では、「描かれたアイヌの世界」と題して、オムスク造形美術館所蔵の12枚のアイヌ絵とともに、市立函館博物館、函館市中央図書館、北海道開拓記念館などが所蔵する江戸時代から明治にかけて描かれたアイヌ絵など44枚を一堂に集めて展示した。
 展示室は「平澤屏山以前のアイヌ絵」「平澤屏山のアイヌ絵」「平澤屏山以降のアイヌ絵」の3つで構成され、屏山以前のアイヌ絵の草分け的な存在である小玉貞良の作品から、屏山作の函館市指定有形文化財「アイヌ風俗12カ月屏風」、そして屏山の弟子にあたる木村巴江の作品などが時系列で展示された。中でも明治期の函館で製材業を営んでいたトーマス=ライト=ブラキストンの邸宅で飾られていたという2枚の大判のアイヌ絵は、傷みが激しいことからこれまで展示されることがほとんどなかったものであるが、今回のテーマに合わせて函館図書館への寄贈当時の新聞記事とともに展示され、多くの観覧者の目を引いていた。

3.おわりに
 7月18日の開催初日には、市立函館博物館本館での開会式でテープカットが行われ、函館市中央図書館でパネル展示とともに第一線の研究者を招いたシンポジウム「箱館開港とアイヌ絵師平澤屏山」が開催されるなど、華々しいスタートをきった。
 また、展示期間中も学芸員による展示解説(8月8日)や、世界的なトンコリ奏者OKIを迎えたナイトミュージアム「OKIのトンコリコンサート-伝統音楽の夕べ-」に多くの参加者が来館するなど盛況を極め、最終的には44日間の開館日数で2,752名の観覧者が来場したのである。
 今回の特別企画展は、函館開港150周年という一つの節目を迎えるにあたって、函館に縁のあるアイヌ資料の里帰りという趣旨で開催された。そして多くの市民がこの趣旨に賛同・協力して博物館へ足を運ぶとともに関連事業に参加したことから、いわば開催する側と観覧する側とでともに作り上げた展覧会であったといえよう。これにより博物館交流を核とした日本とロシアの友好が促進されるとともに、先住民族に対する理解の向上による和人とアイヌの友好も促進されたことは、大きな前進となるに違いない。

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OKIのトンコリコンサート

「会報」No.31 2010.1.31

ドロシェーヴィチ『サハリン(監獄)』に描かれたKh.P.ビリチ

2012年4月25日 Posted in 「会報」第31号

倉田有佳

はじめに
 近年、筆者が研究対象としているフリサンフ・プラトーノヴィチ・ビリチ(Хрисанф Платонович Бирич)に関する最初の発表の場は、当会会報23号「研究ノート」(2003年)であった。以来、研究成果は、様々な場で発表してきたが※、集大成と言うべきものは、昨年11月末、筆者が在籍する北海道大学大学院博士後期課程「研究論文II」として提出した「来日ロシア人漁業家ビリチの生涯-流刑の島から大いなる北の海へ」(A4判62頁、未刊行)である。現在は、この論文を基に、博士論文の執筆に取り組んでいるところである。
 さて、当地函館は、漁業家時代のビリチが足跡を色濃く残した地であり、函館でビリチと言えば、「サハリンの金持ち漁業家」、「堤商会」のライバル会社「デンビー商会」の幹部として知られている。しかし、ビリチの全生涯を振り返ってみるならば、19世紀半ば、ヴォルィニ県ザスラフスキー郡シェペトフカ村で生まれ(生年については、1857年、1859年もしくは1860年、1863年と諸説ある)、青年期以降は、准医師、サハリンの流刑囚、サハリン南部の漁場の経営者、カムチャツカの「デンビー商会」漁場の監督官であり同商会が経営する缶詰工場の経営者、ウラジオストクの商人、そして臨時プリアムール政府全権代表としてカムチャツカを統治した政治家などと、様々な側面を持っていた。
 そこで、本稿では、函館で良く知られている「サハリンの金持ち漁業家」となる直前の、流刑地「サハリン島」時代のビリチの姿を、ドロシェーヴィチ『サハリン(監獄)』を通して紹介したい。

描かれたビリチ
 流刑地サハリンの実態を世に広めたのは、何と言っても作家チェーホフの『サハリン島』である。その中で、ビリチについては、移住囚「ビリチ某」として触れられている(第12章)。しかし、人間ビリチに肉薄し、ビリチの本質を見事に描いたものは、チェーホフ来島から7年目の1897年にサハリン島を訪れた社会・政治評論家で劇作家のV.M.ドロシェーヴィチ(1865-1922)の『サハリン(監獄)』(Дорошевич В.М. "Сахалин (Каторга)". М., 1903)を置いてほかにない。
 ドロシェーヴィチは、ちょうどマウカに出張中だったビリチと、偶然にも同じ宿、しかも隣の部屋に泊ることになり、図らずもビリチと深く関わることになった。自著『サハリン(監獄)』には、「ビリチ」という小節まで設けている。
 描かれたビリチは、背が低く、おしゃれには関心がなくみすぼらしい格好をしており、チョッキには、時計ならぬ犬でもくくりつけられそうに「大きな」鎖を付けた中年男である。
 ドロシェーヴィチによって描かれた外貌からは、品性は感じ取れないが、ビリチ自身はインテリ(知識階級)を自称し、教養ある人(=ドロシェーヴィチ)と知り合えたことを喜び、自分の妻が専門学校出で、現在は漁場に住んでいることを話す。と同時に、日本からの漁船到着が遅れているため「何千もの」損益を被ったと愚痴る。ちなみに、ドロシェーヴィチによると、「何千もの」は、ビリチの口癖だった。ドロシェーヴィチは、早くもビリチが俗物であることを見抜いている。
 乞われもしないのに、まるで影のようにドロシェーヴィチの行く先々に付きまとい、宿では大酒を飲んだビリチが、嫌気がさすほどしつこく、そして途切れなく話を続け、特に監獄に対してはすざましい罵倒の言葉をのべつ幕なし吐いた。だが,ドロシェーヴィチは、これはビリチなりの暇つぶしだろう、と軽く受け止めている。
 2人で話している時、ビリチはドロシェーヴィチの膝をぴしゃりとたたく。かと思えば、フロックコートをつかんでほうりだす。はたまた自分の煙草の吸いさしをドロシェーヴィチの小皿の中に投げ捨てる。このように、ビリチは無意味で無遠慮な振舞いを繰り返すのだが、ドロシェーヴィチは、この行動は、ビリチが、「あたかも毎秒毎に相手に対して、自分とあなたとは平等で「遠慮なく」ふるまってもよいということを証明しようとしているかのようだ」と捉えている。
 描かれたビリチから察するに、ビリチが最も憎悪したのは、平然と怠惰な生活を送る自堕落な徒刑囚たちだった。食らって、飲んだくれ、何にもしないでいるろくでなしどもへの鞭打ちは当然だと豪語した。同時に、ろくでなしどもへの懲罰が何ひとつないことに憤慨し、これでは徒刑地ならぬ、ろくでなし奨励の場だ、と怒りを露わにし、ドロシェーヴィチに対して、ろくでなしとは何なのかを世間に知らしめてくれ、と頼んでいる。

「流刑囚上がりの農民」ビリチの苦悩
 1893年にペラゲア・ペトロヴナと教会結婚(正式な結婚)し、「流刑囚上がりの農民」という自由身分に昇格して少なくとも4年が経過していたが、当局の支配を受け続け、その一方で、長年の囚人生活の中で身についてしまった動作やしぐさから自分が抜けきれていないことを恥じ、いたたまれない思いをしているビリチの姿をドロシェーヴィチは描いている。
 ビリチとドロシェーヴィチの2人が町のメインストリートを歩いていると、突然、不意に角から顔をはち合わせるかのように管区長に出くわした。ビリチは瞬時に脇に飛びのけた。「あたかも電流が彼を捉え、頭からひさし付きの帽子を脱ぐのではなく、はぎ取った。」ビリチは狼狽し、ドロシェーヴィチに懇願する。こうしたしぐさを取ったことは書かないでくれ!と。そして、「ここでは多くの我慢をしなければならなかった!」と小声で、苦しげに言った。
 何よりもビリチを苦しめたのは、監獄や徒刑囚のつながれた足枷の音が日々の生活空間の中に存在していることであり、それがある限り、流刑地「サハリン島」から解放されることはなかったのである。
 ただし、こうした苦悩は、ビリチだけのものではなかった。そもそもドロシェーヴィチは、ビリチを取り上げた理由は、ビリチの監獄に対する考えが、元流刑囚が感じる典型的なものだと感じたからで、そうでなければ「彼の小さな身体には、ほんのわずかの注意を払うほどの価値もなかったであろう」、と語っている。チェーホフもまた、『サハリン島』の中で、「流刑囚上がりの農民」の苦悩について、ほぼ同様の指摘をしている。

むすび
 ビリチを「サハリン島」から解放したのは、日露戦争であった。ビリチは漁夫隊から成る義勇兵隊の隊長として闘い、捕虜となった後は、大尉相当の待遇で弘前のロシア人捕虜収容所に収容された。講和条約締結後、本国に帰還するが、サハリンに戻ることはなかった。
 日露戦争でロシアが敗北した結果、北緯50度以南のサハリンは日本領となり、サハリン南部で手広く漁場経営をしていたロシア人漁業家は、サハリンから手を引き、カムチャツカに進出した。ビリチもその一人であった。
 そして、「サハリン島」も、戦後のサハリン徒刑制度の廃止に伴い、流刑の島から解放されたのである。

※ 「Kh.P.ビリチの生涯-20世紀初頭のロシア極東と日本-」「ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア」研究会通信No.5 、「Kh.P. ビリチの生涯‐19世紀末-20世紀初頭のロシア極東と日本」『異郷に生きるIII』所収(成文社、2005年)、「弘前ロシア人捕虜収容所とKh.P. ビリチ」『異郷に生きるIV』所収(成文社、2008年)、「サハリンの元流刑囚Kh.P.ビリチの子供たちと日本の学校」『異郷』(来日ロシア人研究会会報第31号)。

「会報」No.31 2010.1.31

「浦潮日報」のデジタル化について

2012年4月25日 Posted in 「会報」第31号

 ここ数年来、懸案となっていた函館市中央図書館所蔵「浦潮日報」のデジタル化が終了しました。国立国会図書館の「全国新聞総合目録データベース」によると、国内では国立国会図書館、函館市中央図書館のほか東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫、敦賀市立図書館のみが所蔵する貴重な新聞で、函館にとっては極東ロシアとの交流を語る貴重な資料となっています。
それぞれの館が所蔵している号数は他館と補完関係にあり、原紙保護の意味も含め、当会会員の研究資料として複製化に取り組みました。撮影データは、DVD2枚に保存し、会員の利用希望があれば、配布しますので、お知らせください。新聞リストを巻末に添付します。

函館市中央図書館所蔵 「浦潮日報一覧(PDF)」

「会報」No.31 2010.1.31 研究会活動報告