函館とロシアの交流の歴史について研究している、函館日ロ交流史研究会のページです。 このページは、会報をはじめ、これまでの刊行物や活動成果を公開しています。

青森とロシアの交流史

2012年4月25日 Posted in 「会報」第32号

工藤朝彦

 青森とロシアとの交流は、古くは、近世中期、多賀丸漂流のことが挙げられる。
 1744年(延享元年)11月14日、下北半島佐井村の商人、竹内徳兵衛が新造船「多賀丸(1200石積)」に水主17名と供に乗り込み、大豆・昆布・魚粕等を満載し、江戸に向けて出航した。しかしながら、難風により遭難し、半年も海上を漂流してから、翌年5月、千島の第五島のオンネコタン島に漂着した。漂流中に7名が死に、この島で竹内徳兵衛も死に、残りの10名はカムチャッカのポシエレックに連行された。その後、選抜された5名が、1754年にイルクーツクに日本語学校が開校されるとともに同市に移り住み、教師として働き、最後の者は1786年頃まで生存していたらしい。多くの者は現地の女性と結婚し、そのうちの二世の一人、トラベズニコフは1792年、根室、次いで松前に来た第1回ロシア使節団の総理として日本を訪れ、また、別の二世のアンドレイ・タターリノフは露和辞典(露和会話)を編さんしたが、これは、旧ソ連科学アカデミーに保管されているレクシコン(露和語彙集)で、ロシアに入った最初の日本の言葉であるとロシアの学界で言われている。
 佐井村出身の5人が、イルクーツクの日本語学校で、日本語を教えていた頃、1772年にシベリア調査のためにイルクーツクに来ていたドイツの学者ゲオルギは彼らと親しくなり、日本に関する情報を彼らから知ることとなったという。ゲオルギが書き著している彼らに関することは、誌面の関係から、別の機会に述べたいと思う。また、順天堂大学教授の村山七郎博士が青森県の地元紙、東奥日報社に「多賀丸の漂流民が伝える200年前、ソ連で発見された下北の方言」で詳しく掲載しているので、これもまた、1997年10月に多賀丸の軌跡を追った青森の学術調査隊の成果と併せて、今後、紹介したい。
 また、他には、日本で最初に種痘を施した中川五郎治の物語がある。中川五郎治は、陸奥国川内村(旧盛岡藩、現青森県むつ市川内町)に1768年に生まれ、江戸後期の北方系牛痘種痘法の伝来者として知られている。小針屋佐助の子で、本名は佐七。若い頃から蝦夷地に渡り、松前の商家に奉公する。
 後に択捉島の会所番人となったが、1807年(文化4年)、ロシア船の同島襲撃で捕らわれ、シベリアへ流される。五郎治40歳の時である。シベリア抑留生活は5年に及び、逃げ出したり、捕らえられたり、仲間に死に別れたりした。1812年(文化9年)に松前に送還されるが、出国した危険人物として厳しく取調べられた。シベリア抑留中にロシア語を読めるようになったことから、ロシア語の種痘書を持ち帰り牛痘種痘術を覚えた。
 1824年(文政7年)、日本で初めて、田中正右偉門の娘イクに天然痘の予防接種を施したと言われる。種痘は、種苗を得るのが難しく、シーボルトはじめ日本の数々の名医が試みるが失敗に終わっている。公式には、日本への種痘導入は、1849年(寛永2年)に楢林宗建がオランダ商船の医官モーニックの協力を得て長崎で成功したとされるが、これに先立つこと25年前に、五郎次は、松前で多くの人々に種痘を施していたのである。
 その種痘法は函館の医師である高木啓蔵、白鳥雄蔵によって、秋田、京都に紹介され、福井の笠原良策によって実践されたが、医学界では画期的なことであった。後に、ロシア語の種痘書は馬場佐十郎が翻訳し「遁花秘訣」、さらに、三河の利光仙庵が「露西亜牛痘全書」として刊行している。
 1848年(弘化5年)9月27日、中川五郎治は一生を終えた。享年81歳。(参考文献:松木明知「北海道の医史」、同編「北海道医事文化資料集成」)
 近代では、1906年(明治39年)に青森港が特別輸出港に指定され、税関出張所が置かれたこと。1907年(明治40年)7月、青森~ウラジオストク間の試航のため交通丸(1540トン)が青森港に寄航し、1909年(明治42年)7月から定期就航したこと。これにより、対露貿易の促進に繋がったが、前後して、青森市と青森商業会議所が、ウラジオストクに調査団を送っている。このように対露貿易の環境形成が整う中、青森県議会議長、衆議院議員、青森市長などを歴任した北山一郎が、1909年(明治42年)9月1日に、合資会社青浦商会を設立し、浦塩港に支店を設け、青森県のリンゴを輸出した。実業家としての北山一郎は、他に、木材とパルプ事業を目指した樺太ツンドラ株式会社や日出セメント株式会社運営にも係わっていた。

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ウラジオストクの青浦商会支店

 北山一郎は明治3年、青森県南郡浅瀬石村に生まれた。北山家は代々豪農で、地方に名高い素封家であった。早稲田専門学校政治科を卒業後、帰郷し青年団を組織し、33歳で県会議員に当選している。日露戦争中は出身地の浅瀬石村の村長におされ、戦争終結と共に、青森に転出した。北山一郎の転出の動機は、日露戦争によって日本が獲得した北方の利権を、北方人自ら開拓しないという信念からであり、青森県の物産をシベリアに輸出して貿易の拡大を図ることであった。彼は樋口喜輔、渡辺佐助、藤林源右衛門、小館保治郎、佐々木彦太郎といった財界人の後援を得て、青浦商会を株式組織に変え、業務を拡張、リンゴ、醤油、蔓細工、大理石、牛馬を輸出し、大豆、豆粕の輸入をした。
 しかし、露国は大正5年、経済復興の理由の下に、リンゴの輸入を制限したため、玉葱、馬鈴薯の輸出に転じ、浦塩鰊の輸入の斡旋をしたが、欧州大戦後、露国革命になってからは、全く取引が出来なくなり、大正15年に青浦商会は解散したのである。
 青浦商会については、青森大学学長末永洋一氏が『「青浦商会関係資料」調査記(市史研究あおもり3)』で「青浦商会の本店は青森市濱町三十八番地、支店は露領浦塩斯徳港ペキンスカヤ街五、出張所は敦賀港富貴藤原商店方、また、中国東北部(当時満州)にまで営業地域を拡大するため、ハルビンに出張所を設置していた。当時、交通丸が、青森とウラジオストク間を年間26回就航していた。」と述べている。
 年代を遡ること、1892年(明治25年)、探検家で青森市長も務めた笹森儀助は千島探検をした。笹森儀助は1845年(弘化2年)1月25日に弘前在府町に弘前藩士の子として生まれ、1915年(大正4年)9月29日に弘前で死去したが、その人生は波乱万丈で想像を絶するものであった。
 儀助は政府が軍艦を千島諸島に派遣する計画があることを、郷里の友人で新聞「日本」の社主陸羯南から知らされた。以前から北方視察を望んでいた儀助は、伯爵佐々木高行に斡旋の労をとってもらい、民間人として巡航に参加できることとなった。
 周知のことだが、千島諸島が日本領に編入されたのは、1875年(明治8年)である。
 以前の北方国境は得撫島と択捉島間が日本とロシアの国境とされ、樺太については両属雑居地であったが、ロシア側が全島の領有を主張するなど、両国間の問題となっていた。日本政府は、樺太の利権を全て放棄するかわり、千島諸島全てを領有し、両国の国境はカムチャッカ半島南端ラカッパ岬と占守島間に引かれた。これが樺太千島交換条約である。
 さて、儀助は帆船軍艦磐城(長さ47m、幅8m、656トンの木造砲艦)に乗り、7月6日に函館港を出航。乗組員は120人、便乗者は儀助ら6人。この小船は、狭いこと限りなく、水も食料も少なく、北に行くほど寒さが厳しく、体力は一気に衰弱したようだ。7月10日に根室に着くと、儀助は根室郡庁や警察署、測候所、水産会社を訪ねて日露交流史、根室開拓の沿革や実態を調査している。千島調査は後に『千島探検』にまとめられ、明治天皇にも上呈されるが、千島諸島の実効支配はロシア側が有利で、政府の無策が批判されると共に、今後の施策が13項目に亘って提案されている。
 7月31日、磐城は根室を出航し千島諸島に入り、8月1日に択捉島留別港に停泊。食料や石炭を積み込み、3日出帆し、6日には千島諸島最北端の占守島と南隣の波羅茂知島間の海峡に至り、20日間に渡り調査を行ったが、その間、磐城は嵐で難破しそうになり、食料・水が底を突くなどで、途中で調査を打ち切らざるを得ず、9月3日に根室に帰港した。また、艦長の榊原長繁は、1891年(明治24年)に起きた大津事件以後の日露関係に配慮してか、儀助の島上陸が許されたのは一週間程度であった。
 しかしながら、千島アイヌのヤーコフという酋長との出会いで、現地の様子を聞くことができ、1893年に刊行された『千島探検』で、儀助は、千島列島の警備として島庁の設置と、色丹アイヌの占守島復帰を提案している。樺太千島交換条約により、1884年に占守島から97人のアイヌが列島最南端の色丹島に移住させられたのである。
 儀助の他、1861年に、民間人として最初に千島探検をしたのは青森県田子町出身の真田太古であり、翌年には千島開発会社を設立している。(参考図書:辺境からのまなざし~笹森儀助展(青森県立郷土館)図録)
 ロシア革命後から第二次世界大戦終了前までに、青森市内には、数家族の白系ロシア人が住んでいた。このことについては、私が体験した事実として、「会報」No6(1998年1月8日)で紹介しているので、ご覧いただきたい。
 次に現代の平成に入ってからの青森の日ロ交流について、年表でその概要について述べたい。

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戦前、青森に住んでい白系ロシア人「カチヤとワレンチン兄妹」

《一つには、みちのく銀行の大道寺小三郎の偉業である。》
【1990年】
4月 みちのく銀行「ハバロフスク・ナホトカ・ウラジオストク経済視察」
ウラジオストクではダルソーと「中古車輸出」「医療関係者の交流」等、12項目について「覚書」を取り交わす
5月 ウラジオストク・ダルソー一行来青
6月 「青森県日ソ交流協会」設立 発起人55名 会長:菊池武正 副会長:大道寺小三郎
7月 「ペレストロイカのロシア9000キロの旅」実施報道関係者ほか総勢152名参加
青森港からソ連客船「ネジダノーバ号」で出発、青森空港史上はじめてアエロフロート機で着陸帰国
8月 「青森県日ソ交易株式会社」設立 資本金2億5千万円
ウラジオストク・ダルソーと青森・ウラジオストク間の定期航空路開設について継続協議
9月 ダルソー派遣の車両検査員3名が160台の中古車輸出の事前検査のため来青
ソ連車両運搬専用船「ニコライ・プリゼバルスキー」号が青森港へ入港
10月 「ソ連経済・文化ミッションツアー」実施
中古車の継続輸出、ソ連科学アカデミー水中生物学研究所とバイカル湖水の商品化に関する「覚書」締結
「医学研修」ウラジオストクから医師3名が弘前大学医学部で研修開始
12月 在札幌ソ連邦総領事館領事V.Iバラーキン夫妻来青 講演:「極東と日本の関係」
ブリノフ、ウラジオストク市長歓迎の昼食会 場所:函館
歓迎パーティ(函館市・函館日ロ親善協会主催)【1991年】
2月 ハバロフスク人民代議員議会議長一行来青
4月 ソ連科学アカデミー・シベリア支部湖沼学研究所一行来青
5月 弘前大学医学部前でソ連へ援助する医薬品の発送式
17,400千円の義援金、24,200千円相当の支援物資を調達
ハバロフスク・ウラジオストクで医療品の贈呈式、とうもろこしの種を市民に配布
6月 ノボシビルスク航空産業財団より自動車修理取得のため実習生3名来青
青森県とソ連の交流活動のための民間大使として、モスクワからの通訳クーロチキナ・リュドミラ・アナトリエブナさん来青(以後、2年間みちのく銀行で勤務する。恐らく戦後初の長期にわたって在青したロシア人。)
7月 ノボシビルスク航空産業公団に中古車200台輸出
青森県日ソ協会・鯵ヶ沢町主催、「極東シベリアの旅」 青森港から「オリガザドフスクヤ」号でウラジオストク港へ
8月 青森朝日放送の招きで沿海州テレビ・ラジオ委員会(ウラジオストク市)来青
相互協力関係の合意
鶴田町町議会一行訪ソ。
*ソ連でクーデター勃発
鯵ヶ沢町齋藤町長(協会の発起人)「第13回日ソ沿岸市長会議(ウラジオストク市)」参加
10月 ハバロフスク州ダリニュク議長あてに県民の無償提供による中古タイヤ5000本を(ソ連貨物船「BALTIYSKIY-71号」で)送る
【1992年】
2月 鯵ヶ沢町が招聘したナターリア・クズメンコ女史がウラジオストクから来青 
4月 大道寺副会長(みちのく銀行頭取)が東京でゴルバチョフ元大統領と会談 10万ドルをゴルバチョフ財団に寄贈
5月 ユジノサハリンスク市長 みちのく銀行の招待で来青
6月 みちのく銀行の招待でハバロフスク・テレビラジオ委員会議長が来青
8月 青森空港からアエロフロートのチャーター便「ロシアツアー(みちのく銀行企画)」。県知事団長とする「青森県ミッション団」が同乗し、27日にハバロフスクにおいて「青森県とハバロフスク地方との友好的なパートナーシップに関する協定」を調印
10月 RAB青森放送とハバロフスク・テレビラジオ会社「極東」と放送業務について協定書締結
【1993年】
2月 みちのく銀行の招待でチジョフ駐日大使来青
3月 青森公立大学の開学式典出席のため、ハバロフスク・ウラジオストクから教育関係者が来青
5月 青森県の招待でハバロフスク地方政府代表団が来青
第1回のロシアチャーターツアー
6月 第2回、3回ロシアチャーターツアー
7月 第4回ロシアチャーターツアー、ユジノサハリンスクで花火大会開催
戦前に青森市の新町小学校に在校していたエカテリーナさん(サハリン パナチョフ氏の妹)来青
第5回ロシアチャーターツアー
8月 第6回ロシアチャーターツアー
青函ツインシティの共同開催事業「ウラジオストク訪問クルーズ」
(函館市とウラジオストク市の姉妹都市提携1周年記念)
9月 第7~9回ロシアチャーターツアー
10月 第10回ロシアチャーターツアー
青森南高等学校でロシア語を教えることとなったタマーラ・ドレゴワさん来青
【1994年】
4月 (財)鳴海研究所清明会からハバロフスク州立第二病院へC/Tスキャナーと200万円を寄贈
5月 第1回ロシアチャーターツアー
サハリン日本産業見本市に県産品(りんごジュース、日本酒、津軽凧等44品)を出展
7月 第2回ロシアチャーターツアー
8月 ハバロフスク卓球選手団来青 卓球交流
青森県の国際交流員フォロンコフ・オレグさん赴任
9月 第3回ロシアチャーターツアー
日ロ親善サッカー交流のためハバロフスク訪問
10月 ロシア・東欧学会第3回大会シンポジウム「環日本海経済圏を目指してーロシア極東と経済・地域交流の状況と展望」が青森公立大学で開催される
【1995年】
4月 青森~ハバロフスク定期航空路の開設
5月 ハバロフスク・ウラジオストク・サハリンで市民にトウモロコシの種子を無料配布
6月 ハバロフスク市において親善花火大会を実施30万人の観客が堪能
7月 みちのく銀行のユジノサハリンスク駐在員事務所開設
ロシアでは東京銀行に次いで2番目の開設
大道寺副会長がハバロフスク市より外国人で初めての名誉市民章を受賞 
青森青年会議所主催の「グローバルちびっ子トレーニングスクール」にロシアの子供たちが参加
8月 大道寺副会長がユジノサハリンスク市より外国人で初めての名誉市民章を受賞
9月 ハバロフスク市で「青森県フェア」開催 3日間で1万人来客
10月 青森県立郷土館において「ロシア極東の自然と文化 ハバロフスク郷土博物館所蔵品」開催
12月 国立ハバロフスク医科大学関係者が弘前大学と学術交流協定の締結のため来青
【1996年】
4月 極東3市に、トウモロコシ・野菜・花の種94,000袋空輸
青森明の星短大でハバロフスク教育大学の2名の女子留学生が、2年間学ぶこととなった。
7月 みちのく銀行は合併20周年記念事業の一環でサハリンにピアノ55台を寄贈
8月 ウラジオストク極東国立工科大学に「みちのく銀行日本語センター」開設
10月 大道寺副会長に、モスクワのプレハノフ経済アカデミーより名誉博士号を授与
11月 鯵ヶ沢町と幻の魚といわれるイトウの保護と養殖で交流しているサハリン州政府は、技術者の派遣と発眼卵の提供に関する協定を結ぶ
【1997年】
4月 鶴田町の鶴の舞橋丹頂鶴自然公園に、アムール州ヒガンスキー国立自然保護区から丹頂鶴二羽が届く
大道寺副会長にハバロフスク国立極東総合医科大学とハバロフスク総合教育大学から、外国人として初めて名誉教授号を授与
5月 サハリン州ポロナイスク市でA型肝炎が流行、サハリン州政府に注射器10万本緊急輸送
11月 青森県とハバロフスク州の友好協定締結5周年記念式典に、イシャーエフ知事が出席
【1998年】
5月 ハバロフスク州政府にリンゴ5トン寄贈
大道寺副会長、ハバロフスク市創立140周年記念式典に出席
11月 佐井村は「多賀丸漂流記念碑」建立に伴い、多賀丸漂流の歴史調査に関係の深い、イルクーツク大学のクズネツオフ教授を招聘
【1999年】
2月 「みちのく銀行モスクワ」設立、邦銀では初のロシア現地法人となる
7月 青森~ハバロフスク国際定期便に「アエロフロート」に代わり「ダリアビア航空」が就航
【2000年】
8月 モスクワで運行される予定の「青森ねぶた祭り」が、ロシアの原子力潜水艦事故のため中止となる
9月 弘前大学はハバロフスク国立極東総合医科大学、モスクワ大学と大学間交流協定を締結
【2001年】
1月 みちのく銀行大道寺会長のロシア連邦名誉領事伝達式が行われる(任命日:2000年12月7日)
7月 ウラジオストクからロシア極東漁業技術大学所属の「パラダ」、ロシア極東アカデミー所属の「ナジェジュダ」の2隻の帆船が来青、青函ヨットレースに参加
【2002年】
2月 青森市で開催された「北方都市会議」にハバロフスクのソコロフ市長、ユジノサハリンスクのシドレンコ市長が出席
8月 みちのく銀行モスクワのユジノサハリンスク支店開設
9月 大道寺氏、ユジノサハリンスク市創立120周年記念式典に出席
【2003年】
3月 みちのく銀行モスクワのハバロフスク支店開設
9月 モスクワに由紀さおり・安田祥子姉妹を招いて、コンサート「ロシアにひびく日本の歌」を開催(主催:みちのく銀行)
10月 大道寺氏のロシア極東国立総合大学教育部門名誉博士号授与式がウラジオストクで開催
11月 大道寺氏、ロシア連邦プーチン大統領令により「友好勲章」を受章
【2004年】
5月 大道寺氏にロシア連邦プーチン大統領令により「サンクトペテルブルグ建国300周年記念メダル」授与
8月 東シベリア天然ガス視察ツアー
【2005年】
7月 中学生ハバロフスク視察派遣事業
【2006年】
3月 青森県日ロ交易(株)解散
7月 青森~ハバロフスク国際定期便就航再開ハバロフスク・サハリン地区の小中学生教師を招聘
【2007年】
7月 青森~ハバロフスク国際定期便就航再開
ハバロフスク・サハリン地区の小中学生教師を招聘
中学生ハバロフスク派遣事業
【2008年】
7月 青森~ハバロフスク国際定期便就航再開(1往復) ハバロフスク・サハリン地区の小中学生教師を招聘
【2010年】
7月 ハバロフスク極東シベリアツアー(ウラジオストク航空チャーター便) 7月25日~7月28日
注:  (下線部)は私と交流のあったロシア人である。ウラジオストク在住のナターリア・クズメンコさんとは、今でもメールを交換している。

《青森県のハバロフスク地方との友好提携までの経緯・現状》
 東西の緊張緩和により青森県とソ連との交流の拡大が考えられることから、平成2年12月に「ソ連との交流に関する基本方針」を策定し、今後のソ連との交流に当たっての基本的な考え方を取りまとめた。方針では、青森県と地理的に近く、交流の機運が醸成されつつある沿海地方。ハバロフスク地方、イルクーツク州を交流推進地域とし、これらの地域との交流を始めることとした。
 平成3年2月に、ハバロフスク地方人民代議員会議ダリニュク議長を招聘し、交流についての協議を行った。平成4年8月には、知事を団長とする青森県ミッション団をハバロフスク地方、イルクーツク州、沿海地方に派遣した。ハバロフスク地方行政府イシャーエフ長官との会議の結果、農林水産業・文化・スポーツ等の分野で交流することで合意に達し、平成4年8月27日、ハバロフスク市において友好協定を締結した。
 ハバロフスク地方とは、地方政府代表団の受け入れ、青少年、医師及び農業技術者の派遣・受け入れ、水産技術者の派遣、民族芸能団の受け入れ、国際交流員の招致、県職員のハバロフスク派遣・行政実務研修などの分野で交流を行っている。
 平成19年度は、友好15周年を記念して記念行事を実施している。

《青森公立大学とロシアとの交流》
 平成4年10月、佐々木誠造青森市長は、加藤勝康学長予定者(青山学院大学でロシア経済学等を教鞭)、加藤幸廣大学開設準備委員会専門委員(元外務省職員でナホトカに駐在後、日本商社に勤務)とともに、ロシア極東地域の各大学(極東国立大学、極東国立工科大学、ハバロフスク国立教育大学)を訪問した。また、ウラジオストク市長のエクレーモフ氏、ハバロフスク地方行政府第一副知事のミナキル氏等と懇談し、教員及び学生の相互交流の可能性について意見交換をした。
 帰国後の記者会見で、佐々木市長は「教員と学生の相互交流について基本的な意思を確認し合う事ができた。今後の進め方については、相互主義を原則に具体的な交流プログラムと条件を事務的に詰め、これらの環境が整った段階で協定書の調印へと運びたい。大学間の相互交流により、双方にとって有意義な人材養成が実現されることになれば、将来それを核として、学術文化にとどまらず経済など様々な分野の交流の促進に繋がる。」と述べた。
 こうして、翌年の平成5年4月に青森公立大学が開学し、ロシア語講座が開講したのである。ロシア語講座の講師は、トルスト・グーゾフ・アントリーエビッチ(1952年2月15日、ウラジオストク生まれ)、極東国立大学東洋学部日本語学科を卒業後、モスクワ科学アカデミー東洋研究所日本研究センターに勤務し、日本の歴史を学び、特に鎌倉時代に制定された武士政権のための法令「御成敗式目」のスペシャリストである。現在、青森公立大学の准教授。因みに、弟さんは広島大学の非常勤講師としてロシア語を教えており、江戸時代の「目安箱」に詳しく、また、帝政ロシアと日本との関係について研究している。
 また、青森公立大学は、極東国立工科大学と学術交流の締結をし、学生の相互派遣、留学生の派遣・受け入れを実施している。
 縁あってか、2000年5月13日に、函館日ロ交流史研究会の研究会を青森公立大学で開催し、トルストグーゾフ氏に「青森公立大学でのロシア語教育」について、留学生のイワン・カシェーエフ君には「ウラジオストクの日本クラブ紹介」について、講演していただいている。
 ロシア人留学生の中でも、現在も友人関係が続いているアンドレイ・シビニィニィコフ(32歳)について少し紹介したい。祖父は、今でも健在でウラジオストクに住み、戦前、ハルビンの日本語学校で学んだことから、日本語を話すことができる。また、ウラジオストクのアルセニエフ博物館の館長を務めたという。母は、ウラジオストクの病院で内科医として勤務しており、弟は、早稲田大学での留学後、モスクワの銀行で働いている。
 彼は、極東国立工科大学を卒業した後、本格的に日本で経営経済学を学びたいとの思いで、今度は、日本政府の文部科学省からの奨学金を得て、再び、青森公立大学大学院で学ぶこととなった。約6年前、修士を取得し、東京のロシア系貿易会社で働くこととなり、現在は、専ら、ロシア等海外からの水産物の輸入取引に携わっている。一昨年、日本の女性と結婚したが、私はロシア式結婚式に招待され、東京在住の多くのロシア人と懇談することができた。今、奥さんは、ロシア語習得に熱が入っている。

 最後になるが、芽生えだした、ちょっとしたロシアとのビジネスの話を紹介したい。
 青森公立大学の学生が設立した貿易会社がある。会社は、学生が所属するゼミの教授の名前を冠した「TLFIT」丹野大教授(多国籍企業論)とゼミ生が2006年10月、研究室内に設立し、資本金は10万円。社長・輸出入担当と組織化されている。
 取扱商品は、ペルーのコーラ・スコットランドのチョコクッキー・韓国の即席ラーメン等約20種類で、主に大学の売店で販売している。
 先に紹介したアンドレイ・シビニィニィコフとタッグを組み、青森県産のリンゴをロシアに輸出した経験のある丹野教授は、ロシア向けの県産品の輸出を提案した。八戸出身の社長(3年生)は海産物の輸出を試みたが、賞味期限があることから取り止めた。そこで、毎年秋にハバロフスクで開催される国際見本市2007年に初出品し、12品目をそれぞれ5個から30個販売した。「にんにくふりかけ」「焼肉のたれ」は好評であったので、賞味期限の長い加工品にターゲットを絞り、戦略を練っているところである。
 また、この国際見本市では、青森県・物流会社の現地法人の関係者が、「蜂蜜入りりんご酢」1本900ルーブル(約3,600円)を120本、「顆粒みそ汁」1食30ルーブル(約120円)を3,500食、販売した。他に、試飲として「しじみ汁」の人気が高く、日本酒や焼酎を輸入したいというロシア商社と弘前市の酒造会社での商談も始まり、青森のロシアビジネスが、再び動き出している。

「会報」No.32 2010.8.30

ワクワク函館への旅

2012年4月25日 Posted in 「会報」第32号

小林千香子

 2010年2月18日から20日、生まれて初めて北海道の地を踏む日がやって来た。「日本・ウラジオストク協会懇談サロンin函館」出席のためである。飛行機の往復だけではあまりにあけっけないので行きは新幹線「はやて15号」で東京出発、八戸で特急「白鳥15号」に乗りかえる。
 気のせいか青函トンネル前から雪景が本州とは異なるような感じ。サイロがあったり、すっきり伸びた樹木が雪景の中でロマンチックに異国的に写る。
 私の背後で若い女性が「就職が決まらない」ことを相方に訴えている。ガランとした車中で厳しい社会状況を知る。不況はもちろん全国的規模なのだが......
 初日はロシア極東国立総合大学函館校で日本・ウラジオストク協会浅井事務局長の「ロシア極東と日本地方都市の貿易」と題しての特別講義。ソ連(ロシア)ビジネスに携わって来られた浅井さんならではの厳しい現状も伺った。40名の聴衆は熱心に耳を傾けていた。
 続いて「マースレニッツア」という冬を追い出し春を迎え祝うロシアのお祭りが同大で行なわれた。冬を象徴するワラ人形「モレーナ」をかついで冬を楽しむ「クマ」「ウシ」のお面たち。やがて彼らは「太陽」にほうきで追い出されるという寸劇が演じられる(絵A)。「冬」と書いてあるワラ人形に火が放たれ、「冬」の左に朱で糸ヘンをつけると「終」りという文字に。つまり冬は終りということになる。
 春の神「ヤリロ」が訪れ春となり、その寸劇は終わる。「コール八幡坂」の合唱団や学生達が加わり「マースレニッツア」が盛り上がる。日本流にいえば立春の訪れだ。
 雪の校庭いっぱいに香ばしい焼肉の煙が漂い始めた。料理の達人アニケーエフ副校長の指導のもと、学生達の手作り料理が次々と完成。ブリンヌイ、ボルシチ、シャシリーク(くし焼)、コンポート、ピロシキ等の御馳走が運ばれて来る。紅いボルシチの色がロシアを想い起こされなつかしい。

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絵A

 私達の周りでも日本人男性と結婚した若いロシア人女性、留学生、教師、函館に住み着いたという東京人等との会話が弾み、楽しい交流会だった。
 同校のイリイン・セルゲイ校長は流暢な日本語を話された。2009年北海道新聞の「ひと」の記事によれば、先生はウラジオストク生まれ。中学時代ナホトカ近郊で過ごした。その折、図書館で川端康成の「山の音」の翻訳を読み「こんな国もあるのか」と感銘を受けたという(非常におませな中学生だったと思う)。私ごとになるが、学生時代私もやはり「山の音」を読み衝撃をうけた。突然大人の世界に投げ込まれた気がした。今から50年も前、宝塚から急行列車に飛び乗り鎌倉の川端先生宅の自宅前に佇む変な女学生を先生はジッと鷹のような冷徹な目で見つめられた。以来川端文学は私の原点になった。
 イリイン校長はこんなことも言われた(絵B)。「以前卒論といえば学生が原稿用紙に手書きしたものを、うやうやしく持って来て両手で手渡したものだが、今はこんな小さなメモリーチップを持って渡しに来るのです。」それを先生がパソコンに入れて読ませて頂くというのもなんだか主客転倒しているような気がする。先生のため息もわかる。しかし時代は先に先に進んで行く。良きにつけ悪しきにつけ決して後戻りしない。

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絵B

 夢の又夢でも20代に戻ってこんな大学でロシア語を勉強してみたいなアと希った。明るくユーモアとペーソスに満ちた校長先生の存在は今後も同大学の更なる発展を可能にするだろう。
 おみやげに同校の「15周年記念文集」、「15年の歩み」「関連新聞記事」等の冊子を頂いた。どれも立派で同校を知る上で貴重な資料だ。
 その後、同校内に置かれている付属函館ロシアセンターを視察した。若い女性スタッフが生き生きと活動している姿が頼もしかった。
 ハリストス正教会のニコライ・ドミトリエフ神父を訪ねた(絵C)。白く美しい日本初のハリストス正教会の建物である。情熱的な語り口、巧みな日本語、何か不思議な人を包み込むようなお人柄だ。
 教会内でニコライ神父著蔦友印刷(株)「ロシア人・日本人」を求めた。帰ってから読んでみたが面白くて面白くて止められない。ハートフルな自叙伝である。「大好きな日本人にロシアを知ってほしい!」と訴えている。これこそ私の求めているものだ。多くの友人達にこの本を回覧することにした。

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絵C

 市立函館博物館視察。
 函館をみおろす丘の上の木造の古い建物が時代を感じさせながら佇んでいる。雪の道をふみしめ博物館にたどり着く。
 佐藤・大矢両学芸員が出迎えてくださる。樺太関係や露領・北洋漁業関係の資料をみせて頂く。熱心な説明が嬉しい。「にしん御殿」などという言葉を子供時代にきいたことがある。それも北洋漁業の盛んな時代の言葉だろう。
 夜函館山夜景を楽しむ(絵D)
 これが噂にきいていた百万ドルの夜景!太平洋と日本海どちらをも右と左に眺められるぜい沢。広大な夜景に息をのむ。弘前からかけつけたロシア語勉強中の青年と合流。山頂レストランで夕食。

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絵D

 2月20日 宿泊先のホテルは清潔で眺めのよいホテルだ。夜景を眺めながら屋上露天風呂としゃれ込む。朝は風花に打たれながら湯に浸る。この幸せを何と表現したらよいか...
 赤レンガ倉庫群は海の側に立ち並び昔の繁栄をかもし出している。
 ロシアホテル跡地、ロシア人墓地―雪の墓地に眠る函館にかかわった過去のロシア人がたくさん居ることを知る(絵E)。

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絵E

 この墓地は大切に保存されていた。
 旧ロシア領事館は擬ビザンチン風建築で二階建て建物。1908年に新築され、今は両国民の友好のシンボルとなっている。
 「旧ロシア領事館復元・活用の会」の工藤玖美子代表との出会いもあった。東京を脱出し、函館を本拠にし、この運動に全力をあげているという。函館を愛し、ロシアを愛する、ロマンを地でいく女性、私には彼女の気持ちがとてもよくわかる。
 午後の交流会は、函館日ロ交流史研究会が主催し、函館日ロ親善協会、旧ロシア領事館復元・活用の会、はこだて外国人居留地研究会、極東大学函館校教師の皆さん24名の参加があった(絵F)。

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絵F

 函館日ロ交流史研究会長谷部世話人代表からは同研究会の15年余りの歩みほか、前職場である市立函館博物館とアルセニエフ博物館との交流について画像を見ながらこの説明があった。
 日本・ウラジオストク協会事務局田代さんからは、協会の設立経過活動についての報告。中本会長からは、「日露の架け橋チェーホフと日本人をめぐる秘話 ‐チェーホフ生誕150年によせて」の興味深い話が画像と共に参加者を魅了した。
 又、エレーナ・イコンニコワさん(サハリン大)は、御自身のテーマである「ロシア文学におけるサハリンとクリル諸島のイメージ」について、中本会長による通訳を介して講演された。モスクワからみて極東の地もかくも知られざる深い歴史をもっていること、流刑の地であっても案外自由に人々は生きていたこと等。
 このような内容を普段知らされることはなかった丈に、よく綿密に調べられたことに驚きであった。18世紀19世紀、又は日露戦争の背景も加わり、詩や文学が極東の地を舞台に生き生きと語られているのに感動した。
 懇親会は失礼してひと足先に帰途についた。タクシーの運転手さんが、新幹線の止まる予定地が函館ではなくて次の駅に決定したことを「函館の危機」だとふんがいしていた。地形的に函館は無理だということなのだそうだ。
 旅人の私がとやかくいうことはできないけれど、これだけロシアとの深いつながりのある都市はない。この魅力ある都市は、東京ものですら東京を捨てて住まわせるほどの美しさやエネルギーを放っている。交通の不便さにより人々の足が遠のくのだとしたらロシアとの文化交流の妨げにならなかと心が痛む。次の機会には家族や友人と一緒に函館を訪れ、なつかしい人々と再会したいと希っている。
 この日のために奔走してくださった倉田有佳さん、そして函館の関係者の方々に心から御礼申し上げます。

「会報」No.32 2010.8.30 特別寄稿

サハリン島で迎えた日露戦争とビリチの戦後 -ロシア極東国立歴史文書館史料より

2012年4月25日 Posted in 「会報」第32号

倉田有佳

■ロシア極東国立歴史文書館訪問
 今年3月7日から17日までウラジオストクを訪問し、ロシア極東国立歴史文書館(RGIA DV)での資料調査を行ってきた。場所は、ウラジオストク駅のすぐそばで、宿泊先に選んだホテル「プリモーリエ」から徒歩で10分弱である。
 実は、同文書館の利用は、今回が2度目で、ウラジオストクの総領事館に専門調査員として勤務していた当時(2000年12月)、日頃からお世話になっていた極東大学モルグン教授の案内で訪れたことがある。RGIA DVは、1992年にシベリアのトムスクからウラジオストクに移転してきた(詳しくは『ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア(III)』参照)。同じ建物には、国立沿海地方文書館(GAPA)が入っており、閲覧室も同じ。閲覧室の扉を開けてすぐの机がGAPAの担当者で、右手前方の机に座っているのがRGIA DVの担当者であるとの説明を受けた。
 当時のウラジオストクは、深刻な暖房問題を抱えていた。文書館の閲覧室も室温は常に1-2度、3-4人いる閲覧者も、皆がオーバーを羽織って新聞や史料に向かっていた。覚悟はしていたが、もものの15分も経つと身体が芯から凍えてくるため、廊下に出て、持参した魔法瓶に入れてきた熱い紅茶で暖を取った。
 そのような懐かしい思い出を胸に、10年ぶりに訪れてみると、建物の造作は変わっていないが、廊下の壁紙が新しく、明るい雰囲気になっていた。無論、暖房の心配もなく、閲覧室は机も床も清潔で、非常に快適だった。一方、変り映えしないのは、担当者の女性の対応で、1990年代半ばのモスクワの図書館や文書館が思い出された。また、閲覧者が必要な箇所を黙々と書き写している姿も懐かしかった。昨今は史料の写真撮影が許可されているものの、1ファイル、1ドキュメントにつき800ルーブル(当時:3000円強)と高額であるため、ロシア人学生や研究者は、書き写しが中心とならざるを得ない。
 領事館函館事務所ブロワレツ所長からトロポフ館長に事前連絡しておいていただいたおかげで、行った初日から史料を閲覧することが許可されたが、RGIA DVの閲覧時間は、月曜から金曜日の9時から15時までと短く、しかも「アルヒヴィストの日」だの、まれにみる大雪による急な閲覧室開放時間の短縮もあり、史料の写真撮影は、閲覧最終日にあわてて行うはめになってしまった。
 とは言え、このたびの調査は、私の近年の研究対象であるKh.P.ビリチの生涯のうち、サハリン島時代の空白部分を埋める上で大いに役立った。具体的な成果は、今年末を目処に発刊予定の論文集『日露戦争とサハリン島』の中の倉田担当章に反映させたため、詳しくはそちらをご覧いただくとして、以下、本稿では、函館と関係のある点を中心に、このたびの成果を紹介したい。

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左:ロシア極東国立歴史文書館の看板 右:国立沿海地方文書館の看板

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外観

■日露戦争中ビリチが拿捕した函館からの密漁船
 日露戦争勃発直後、ビリチは自費で義勇兵隊を編成し、自ら隊長となった。そして、RGIA DVの史料を典拠としたサマーリン論文から、サハリン島の沿岸警備に就いていたビリチ隊が密漁船2隻を拿捕したことまではわかっていた。しかし、今回、自分の目で史料を確かめた結果、ビリチが拿捕した船の名前は、「ダイサンカイショーマル」ではなく、正しくは「ダイサンカイチマル」であることが確認できた(Ф 702 оп.1 д.482)。
 この事件については、外務省外交史料館所蔵史料でも調べてみた。すると、1904年4月12日、函館近郊の銭亀沢や石川県羽昨郡の漁夫計63名が、松前郡吉岡に赴くと称し、汽船「東洋丸」に乗りこんで函館を出航したが、吉岡には上陸せず、「第三加悦丸」に乗り換えてサハリン島に密航したことが明らかになった。「カエツマル」を「カイチマル」と聞こえたのは、函館弁の影響だろうか。それはともかく、「ダイサンカイチマル」は、函館の小熊幸一郎所有の「第三加悦丸」のことと考えてほぼ間違いないないだろう。
 実は、「東洋丸」に乗った銭亀沢村出身の漁夫一行が、サハリン島で拿捕された事件については、『函館市史 銭亀沢編』(函館市史編さん室編、函館市出版、1998年、79-81頁)で詳しく述べられている。しかし、「東洋丸」とだけあり、「第三加悦丸」には全く触れておらず、ビリチ隊との接点が見出せなかった。ここにようやく、函館からの密漁船を拿捕したのがビリチ隊であることが判明したのである。
 外務省記録から、「第三加悦丸」が拿捕された状況をたどってみると、1904年4月19日、悪天候の末、ウッスロ(日本時代の鵜城、現在のオルロヴォ)に漂着し、飲料水と焚火を求めて上陸すると、露国守備隊38名が銃剣を伴って陸上の山影から出て来た。逃げ切ることもできないまま拿捕され、5月21日、一同は本船に乗り移された。露国将校1名と兵16名、ロシア側船長1名が同行し、アレクサンドロフスクへ護送された(外務省記録[3. 5. 8. 19])。
 アレクサンドロフスクから先、大陸側のニコラエフスクへ渡り、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスク、さらにトムスク、チュメニ、ペルミとシベリアを横断し、最終的にドイツのブレーメンへと送られ、函館を出航して8ヶ月後の12月6日、長崎港に無事到着したことなどは、『函館市史 銭亀沢編』で触れているとおりである。
 なお、ビリチ隊が拿捕した船ではなかったが、1904年8月7日に小樽から出航した「加茂丸」の乗組員13名は、サハリン西海岸でロシア兵に捕えられると、「第三加悦丸」でアレクサンドロフスクからニコラエフスクに移送され、「第三加悦丸」一行と同様のルートでシベリアを横断し、ブレーメンから日本に送られ、約1年後に神戸港に到着した。その状況は、一行が帰国後に語った「樺太遭難実話」(『北海タイムス』1905年8月26日-9月30日)に詳しい。

■戦場サハリン島でのビリチ
 RGIA DVで今回閲覧した史料は、貴重な情報を提供してくれるものばかりだが、中でも、戦時中に失った自己資産を回復するために、戦後になってからプリアムール総督に宛てたビリチの請願書(Ф. 702. оп. 1. д. 482. л. 209об-210)は、重要だった。
 請願書の中でビリチは訴える。敵の手に渡る前に漁場一帯を焼き払えという軍の命令に従ったため、ウッスロの自宅や倉庫など堅牢な計15の建物、漁場の船、漁労用具類などの資産を失った。軍の指揮官の助言に従い、飼育していた大型角獣の家畜84頭と馬9頭を参謀本部が置かれているアレクサンドロフスクに送り、残る大型の英国種の豚150頭は、屠殺後廃棄処分にした。4人の義勇兵を伴わせ新品の完全武装の木造船を軍に提供した。
 請願書という性格上、ビリチが事実を誇張している可能性は否めないが、日本軍の樺太上陸後、軍の命令に従い、軍当局に積極的に協力したビリチの姿が浮かび上がってくる。

■ロシア側に求めた戦時中の補償
 ビリチが捕虜となり、弘前のロシア人捕虜収容所に送られたことはわかっていたものの、本国帰還直後については空白だった。それが上記プリアムール総督宛ての請願書により、ビリチが帰還後、真っ先に居住登録した場所は、プリアムール総督府や漁場の入札等の問題を所管するプリアムール国有財産局が置かれているハバロフスク市であることが判明した。
 ビリチの戦後は、戦時中に失った自己資産の回復請求から始まった。上述のような莫大な資産を失った埋め合わせとして、かつて日本人が経営していたオリガ湾とプチャーチン島の海面漁区の長期借区権の付与を願い出た。プリアムール総督府官房とプリアムール国有財産局は、ビリチの訴えに善処するが、地元住民に鮮魚を供給することが優先され、これらの海面漁区は、1906年の入札リストから外されていたことが判明し、あえなくビリチの訴えは却下された。

■日本政府に求めた漁場賠償問題
 ところで、日本政府によるロシア人漁業者への補償問題については、セミョーノフ、デンビー、クラマレンコ等の長期契約の特許を有する、いわゆる優先漁場には、120万円の賠償金が日本政府から支払われたことは、清水恵論文で明らかにされているが、ビリチほか15名のロシア人漁業者の漁場については、これまであいまいにされていたため、以下、外務省編『日露交渉史』を基に事実関係を整理しておきたい。
 ビリチら15名も、セミョーノフ、デンビー、クラマレンコ同様、日本政府に賠償を求める。しかし、一年限りの許可を得た漁業者ということで、一旦は日本政府から賠償の対象外と判断される(1908年2月14日付駐日露国公使宛て文書)。しかし、日露協約が成立し、両国の友好ムードが高まる中、ロシア政府は、従来懸案となっていた戦中戦後にロシア側が蒙った損害に関する一括解決を提案していく(1908年8月)。ここにビリチら15名の漁場の賠償問題も含まれることになる。
 ロシア政府は、日本の官憲がロシア人漁業者の漁業権を否認して、ロシア人漁業者が経営していた漁場を日本の官憲が競売にかけたことは、ポーツマス条約第10条に違反する、それと言うのも、ビリチらは、長期漁業借区の条件に服従すべき誓約を済ませており(このたびのRGIA DVでビリチらの誓約書を閲覧。Ф. 1193. Оп. 1. Д. 210. Л. 51)、ロシアの官憲から5年間の借区の特許を与えられるべき予備手続きを完了していたが、日露戦争が勃発したために正式の特許を受ける時機を失っただけで、事実上は長期契約者に等しいからである、と主張した。
 日本側はロシア政府の主張を法的に正しいと考えるまでには至らなかったが、戦後の両国の友好ムードに後押しされる形で、両国政府の閣議決定を経た後、1911年8月26日、他の案件を含め一括解決をみた。
 ここに「南樺太旧露国漁業者救恤金15万円」が交付され、ビリチら15名は、戦後6年目にして日本政府から賠償金を受け取ることになったのである。

「会報」No.32 2010.8.30 研究会報告要旨